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三十三日目―三十四日目+メモ

三十三日目


 世界は素晴らしい。

 生命は素晴らしい。

 精霊は素晴らしい。

 神の作るありのままの姿とは、これほどまでに美しい。



 博士が繰り返していた言葉だそうだ。道中、鳥から聞かされる。

 現在は川に出た。行きにも通った川らしく、見覚えがある。ここを辿れば、明日か明後日には帰りつくそうだ。

 休んでいる時間が落ち着かない。早く帰りたい。


 それにしても筆が持ちづらい。中指と薬指が痺れて、力が込められない。指の付け根が熱を持ち、腐り落ちるような錯覚を受ける。

 しかし不思議と、痛みはない。感覚ごと抜け落ちているような気分だ。




三十四日目


 昨日の手記以降、ずっと川をさかのぼる。寝床へと帰ってきたのは夜半過ぎだった。

 それから半日近く眠り、目覚めたのが夕刻。

 起きた時には既に猫の姿はなく、鳥は鳥らしくもなく寝床近くに横たわり、眠り続けていた。一人で起きていることが不安で、鳥を揺するが目覚めない。しばらくは寝床で、物音の一つ一つにびくびくしていた。神経が過敏になっているようだ。

 気持ちが落ち着いてくると、ようやく体を起こす。それだけで節々が痛んだ。

 筋肉痛でも起こしているのだろうか。あの家を出てから、結局ほとんど休むことなく森を歩き続けたのだ。無茶をしていた自覚はある。自覚はあるが、それでも足を止めることができなかったのだ。


 水を飲もうと思い、寝床に転がるリュックからボトルを取り出す。中身は空だった。いつ空になったのか思い出せない。ならば煮沸をと寝床を出る。

 立ち上がって周囲を見渡せば、火を焚いた形跡もない。持ち歩いていた火種入りの入れ物は、冷え切ったまま地面に転がっていた。これもまた、いつ消えたのか記憶にない。


 痛む体で火を起こし、小さな焚火を作ったのち、これまでの手記を眺めるともなしに眺める。穴の開いた記憶を一通り手記で補足し、不自由な右手で筆をとった。

 少しだけ胸中を記しておこう。


 博士についてだ。

 テレビや論文越しではあるが、知っている人間の変貌は、当然のことながら私に大変なショックを与えた。

 それは魔物に襲われることや、飢えや寒さのような身に迫る危機とは、また違った衝撃だった。

 人間の根底を揺らすような、足元が不確かになるような。

 心を揺さぶるような、そんな恐怖だ。


 あれほど理性的な人が。

 あれほど偉大で、尊敬するべき人までが、耐え切れずに狂ってしまえるのだ。


 精神には盤石なものなど何もなく、いつかは打ち砕かれてしまうのか。あの博士は、私の未来の姿なのか?

 博士のような人でも耐えられない環境なのだ。

 私がここで気を張り続けずとも、よいのではないか?


 世界は素晴らしい。

 そう言うことのできる博士は、あるいはずっと幸福なのではないか?

 少なくとも、今の私よりは。



 人間に会いたいとずっと思っていた。

 どんな人間でも構わない。人間でさえあればいいと思っていた。猫や鳥、獣たちに比べれば、例え発狂していようともましだと思っていた。

 だけどもう、彼には二度と会いたくない。

 私はもうここでいい。あんな人間の姿を見るくらいなら。あんな人。あんな


 いや。

 いや、もう手が痛い。やめよう。中指と薬指が動かず、つまむようにして筆を持つのも限界がある。字も読めないくらい震えてきた。

 それにしても、見たところ傷自体は完全に塞がっているのに、なぜこの指には感覚が戻らないのか。痛むのは筆をつまむ親指と人差し指ばかりだ。

 右手が使えないことは、かなりのハンデになる。困った。




 夜が更けてから猫が戻ってきた。

 狩りに行っていたらしく、手には獲物を携えていた。

 トカゲに似た生き物だった。腕くらいの太さで、やや平べったい。以前に出会ったあの精霊を思い出させるが、火の近くで見ると色合いが違っていた。安堵する。

 切り分け、焼いて食べることに抵抗はなかった。淡泊な味で、かなり筋張っている。食事途中、喉に詰まらせる。

 水を飲もうにも、ボトルは空だった。おかげでしばらく苦しい思いをした。


 また水を汲まなければ。川まで出て、煮沸して、また。

 そうだ、薪。薪も今度はちゃんと作ろう。だんだん寒くなる。火を絶やさないようにして。それから、雨が降った時のこともまた考えないと。また。

 またここで、暮らしていくのだ。

 人間のない世界で、猫と、鳥と。


 ずっと。









失くした手帳に挟んだメモ


・鳥について

 鳥は嘘をつけない。

 二十四日目の問答にてそれを聞く。嘘やごまかしをするわけではなく、なぜ逃げたのか。そう問いかけたところ、「嘘」を理解しなかった。

 意図的に事実を捻じ曲げて話すことだと伝えるが、やはりわからない。いくらか鳥と言葉を交わし、以下のことがわかる。


・この世界には嘘という概念自体がない

・複雑な事柄は精霊を介在して情報共有するが、鳥が伝えられるのは意思のみである

・意思を偽る手段はない

・ただし、本人の思い込みなどにより、意図せず事実ではないことが伝わることはある(あくまでも伝え合うのは意志であり、真実であるかの可否ではないからだ)

・あるいは嘘はつかないが、真実を隠すことはできる例えば鳥が私に人間の存在を隠したように、伝えようという意思がなければ伝わらない)

ここまで第二章。次から生活改善に。

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