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三日目

 朝。火を焚いていると、いつの間にか鳥が近くに来ていた。

 地味な色をした小さな鳥だ。焚火を挟んで向かい側で、日に当たるように地面について体を丸めている。かわいらしい。しかし、野生動物は火を恐れるらしいといううろ覚えの知識に疑惑が差す。

 なにをするでもないので、鳥を見ながら食事を採る。今日も天気がいい。真空パックされた乾パンの袋を一つ開け、缶詰の封を切る。缶詰は魚の煮つけだった。肉よりは美味いが、冷たくて味気ないのは変わりない。せめて煮ることでもできればと思い、食後に再び荷物をあさる。

 救急セットの箱が、ステンレスの鉄製だった。中を開くと応急薬といった薬の他に、ガーゼや針や糸が詰まっている。箱の裏側には鉄の足がついていて、広げると火にくべられそうな形になる。

 世の中には便利なものがあるのだとしばらく感心した。そういえば、山歩きの好きな友人が似たようなものを持っていた記憶がある。割とメジャーな道具なのだろうか?

 だが、残念ながらこれは使用することなく再び荷物に仕舞い込んだ。詰め込まれた薬類を取り出してまで、湯を沸かそうという気にはなれなかったからだ。

 一人で無意味な時間を過ごしている間に、鳥はいなくなっていた。


 日の高いうちに、枯れ木や枯葉を拾い集めておく。そうしながら、今後の行動について再び考えていた。

 すなわち、この場を離れず救援を待つか、森を出て町を探すかである。


 この場にとどまる場合、しばらくは野宿することになる。この森にどんな生き物がいるかもしれず、どれほど待つことになるかもわからない。

 森を出る場合。そもそも、この世界に人間はいるのかという疑問がある。人間がいたとして、私を敵視しないとも限らない。もしかしてこの森は途方もなく広く、無事に外に出られる保証もない。それになにより、この場を離れてしまえば、おそらくは元の世界に戻ることは絶望的だろう。

 私の気持ちは、ここに残ることに傾いていた。少なくとも、食料がなくなるまでは。


 安全にこの場所にとどまるには、どうするべきか。

 雨が降ったらどうする? これ以上寒くなったらどうする? 危険な生き物が出たらどうする?

 不安を抱きながら枯れ木を集めて戻ってくると、また火が消えていた。私が拾い集める枯葉や枯れ木程度では、火は長く持たないらしい。

 よほど定期的に燃料を火にくべるか、薪のようなものでも用意すればいいのだろうか? ナイフ一本でどこまでできるというのだろう。悩みは尽きない。


 集めた枯葉を置き、再び火をつけようとした時だった。

 獣の唸り声が聞こえた。間近だった。いぶかしみながら顔を上げた時の恐怖は、今でもつぶさに思い出せる。

 私が見たのは獣だった。山猫に似ていたように思う。私の体ほどの大きさで、長い尾が揺れていた。私を瞳に捉え、牙を剥いて唸る。私と獣との距離は二メートルかそこらだろうか。明らかに私を狙っていた。

 肉食獣であることは明らかだった。私を獲物として狙っているのか、それとも縄張りを荒らしでもしたのか、それはわからない。それにわかったところで、どうしようもない。

 無意識に後ずさりでもしたのだろうか。枯葉か枝か知らないが、私の足が何かを踏む。ぱきりと乾いた音がする。瞬間、その音を聞きつけて獣が吠えた。縦に大きく開いた口の中、生えそろった牙と舌までよく見えた。

 肉を食うためのその口の有様に、私は慄きその場で腰を抜かした。けぶり始めた焚火の上に片手をついたためだろう、針で刺すような痛みを感じた。

 動けない私を見据えながら、獣が重量のありそうな足取りで近づいてくる。ずっと獣の足元を見ていたせいだろう、山猫との決定的な違いを見つけたのはこの時だ。

 それは、姿こそ山猫であったが、足はまるで鳥のもののようだった。毛のない固い節くれだった足を下に辿れば、前に三本の指、後ろに一本の指。指の先には鷹のように鋭い爪があり、ささくれ立って薄黄色く汚れていた。

 ここが異世界であると確信した。元からわかっていたはずなのに、見せつけられたように感じた。そして、命の危機があるということも。

 おそらく私は、ここで死を覚悟していたと思う。いや、死にたくないと思っていたかもしれない。何にせよ、明確に死が近くにいると知れた。


 たぶん、私は運が良かったのだと思う。

 たまたま火をつけようとしていて、たまたま焚火の傍で腰を抜かした。ライターを取り出すために焚火の近くにリュックがあり、腰を抜かしたままでも手を伸ばせば届いた。

 ほとんど無意識に、私はリュックに手を伸ばした。同時に獣が吠え、とびかかろうと足を曲げた、ような気がする。この時の私は必死で、あまり周りをよく見てはいられなかった。もっとも、周りをよく見ていたらこの時点ですくみ上って、獣の餌になっていただろう。

 私が夢中で掴んだのは、リュックの脇に下げられた無線機だった。ダイヤルを適当に合わせ、通話を開始するとともに、ボリュームを最大まで上げた。耳を裂くようなエラー音が森に鳴り響く。頭を揺らすその音にめまいがした。

 それは獣も同様だったようだ。低い唸り声から一転、爆発するエラー音に紛れて、猫のような甲高い悲鳴を上げる。おそらくは人間よりもずっと耳のいい生き物なのだろう。苦しげに一度耳をひっかくと、すぐさま踵を返して茂みに逃げて行った。

 この時の安堵は、筆舌に尽くしがたい。私はエラー音を鳴らし続ける無線機を握りしめたまま、茫然自失ですすり泣いた。


 音量を下げて通話を切ったが、あれからだいぶ経った今でもまだ耳に音が残っている気がする。

 その後、地上にいるのは危険だと判断した私は、木の上に上ることを考えた。そもそも運動の苦手な私が登れる気などたかが知れているが、それでも地上よりは気休めになるだろう。

 リュックを持ち上げて木に登るだけの体力はなかった。寝袋の入った袋が目についたので、寝袋を取り出して、代わりに缶詰と水を少し詰める。懐中電灯を放り込んだあたりで、トイレはどうしようかとふと気が付いた。しかし思えば、そもそも恥じる相手がいない。むしろこんな状況でトイレのことまで思い至ることに驚いた。

 あとは、獣の撃退に役立った無線機、万が一に備えてのナイフや救急セット。ジーンズのポケットにはいつも通り手帳とペン、それにライターが入っている。


 節のある太い木にしがみつき、だいぶ時間をかけて登ったと思う。それなりに太く、それなりに高い枝に辿りついたとき、すっかり手の皮が剥けてしまっていた。

 木登りなんて子供の時以来だが、当時の私はもう少し上手に登っていたはずだ。どんな登り方をしたのか、正直思い出せない。枝を跨ぎ、木の幹に背中を当て手帳を開いた今、ようやく頭が冷えた心地でいる。

 見下ろせば、意外に地面が遠い。私の背丈よりも高い場所にいるらしい。夜が近づいているのか、空は藍色に変わり始めている。この態勢では眠れないし、万が一眠ったとしても落ちる可能性が高い。どうするべきか考えながら手帳に書き込んでいると、右手が痛むことに気づいた。

 懐中電灯で照らしてみると、どうやら木登りで皮が剥けたわけではなく、火傷をしているらしいと気づいた。獣に襲われた時に、焚火に手を置いたせいだろう。

 治療のためにいったん筆を置く。


 救急セットを持ってきておいてよかった。右手を消毒して包帯を巻く。はっきり言って包帯の巻き方など知らないが、やってみれば意外とできるものだ。とりあえず見た目ばかりはそれらしい。

 包帯越しである分、感覚は鈍るが痛みも感じにくくなった。それで筆をとり、またメモを残す私が、我ながら奇妙だ。することもなく、書いていないと落ち着かない。

 ああそうだ、夕飯にしよう。朝に食べたきりだ。しかし空腹は感じるものの、あまり口に入れる気は湧き上がらない。食べないわけにもいかないので、とりあえず口に詰め込もう。


 懐中電灯で照らしながら食事をしていると、足元で獣の気配がした。枯葉を踏んで歩く足音に身がすくむ。

 缶詰を抱えて、懐中電灯を下に向ける。そこにいたのは、先ほどの山猫のような獣だった。明かりに照らされても微動だにせず、どこか一点を見つめている。追って見てみると、もう一匹同じ形をした獣がいた。互いににらみ合い、威嚇しあっている。

 縄張り争いだろうか。それとも無線の音で呼び寄せてしまったのだろうか。何にせよ、木の上に移動したのは成功だったと言えるだろう。あとはあの獣が、木に登れないことを祈るだけだ。


 しばらく木の下で獣同士が喧嘩する音が聞こえた。争いの間、私は気が気ではなかった。木の上というのは、逃げ場がないということも改めて理解した。かといって地上にいても巻き込まれていただろうから、なにが正解とも言えない。覚悟して死を待つのがもっとも賢いのかもしれない。

 だが、結果としては今回も助かった。獣の一方がもう一方を退けたらしい。悲鳴を上げて、まずは一匹が森の暗がりへ逃げていく。残された方も一声鳴くと、少しの間佇んでからその場を去っていった。

 去り際、明かりに向けて一瞥したその姿は忘れられない。すぐに逸らされたが、獰猛な獣の視線が私を見据えたのだ。闇ばかりの夜の森に、懐中電灯は明るすぎたのだろう。

 明かりを消せばよかったのかもしれないが、その姿が視界からなくなるのが怖かった。

 私は獣の姿が見えなくなるまでずっと懐中電灯を向け続けた。

 食欲はすっかり失せていた。缶詰と懐中電灯を抱えたまま、私は木の幹に背中を預け、一心に文字を書き連ねている。


 早く朝になってほしい。だけど朝になったとして、何かが変わるというわけではないとも知っている。

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