三十二日目(後半)
猫と博士がもみ合っているうちに、精霊たちも駆けつけてきた。
鳥が扉から慌ただしげにばたばたと。トカゲは窓から壁を這い、逃げるように天井へ。「なにが起こったの」と鳥が困惑しながら飛びまわり、トカゲは興奮した様子で「こいつが例の奴だ」と叫んでいた。
精霊たちが乱入してきたあたりで、博士はすっかり大人しくなった。天井近くの二匹を見やると、一声鳴いたきり動かなくなる。さすがに暴れ疲れたか、あるいは諦めたのだろう。息も荒く、唸り声にも覇気がなくなっていた。代わりに視線を絶え間なく動かし、精霊たち、猫、それに私の姿を、何度も確かめる。
私は渋る猫に頼み込み、博士から退いてもらった。猫が退いても、博士は地面に仰向けになったまま、しばらくは顔も上げなかった。
あれだけ暴れたのだ。博士も本来は現代の人間で、それほど若くもない。おそらくは疲弊しきってしまったのだろう、と私は考えた。きっと、もう近づいても大丈夫だろう、と。
威嚇を続ける猫を背後に下がらせ、私は床に伏した博士の前で膝をついた。
博士の体は血にまみれ、体にはいくつもの傷跡が見えた、わずかに残った服には血がこびりつき、鼻を刺すような悪臭が漂っている。振り乱された長い白髪が顔を覆い、その下からのぞく瞳には、未だ理性は見られない。こんな状態で、よくも彼を博士と認識できたものだと自分自身に感心する。
「博士」と私は呼びかけた。期待などしていなかったが、博士は唸り声を止めて瞬く。まるきり子供のように頭を持ち上げ、きょとんとした顔で私に目を向けた。
言葉に反応したのだろうか? この時の博士の態度から判別し難かった。
もう一度「博士」と呼びかけた時に、変化が訪れる。
博士が半身を起こし、私の正面に捉えてじっと見つめたのだ。その後、聞き入るように目を閉じる。すでに唸り声はなく、彼の微かに開いた口からは、穏やかな呼気だけが漏れていた。
これまでの態度とは、明らかに違っていた。暴れ出すわけでもなく、確かに関心を持って私の声を聞いている。そう確信できた。
この時の私の心情は、言葉では表しようもない。胸を圧迫するような期待と、その裏返しの恐怖で鳥肌が立つ。私の声を言葉として理解しているのか。あるいはただ単に、妙な生き物の鳴き声としか認識していないのか? 判断を下すことができず、ただ博士の次の態度を待つしかない。
沈黙は長く、静けさは痛むようだった。頭上を羽ばたく鳥の羽音さえ、ほとんど聞こえなかったように思う。
しばらくして、博士はゆっくりと目を開けた。そして、私を見て微笑んだ。
それはたしかな笑みだった。
くしゃりと歪んだ皺の深さ、くぼんだ瞼の下、細められた目の色。今でも脳裏にはっきりと描くことができる。あの、ひどく穏やかで、だからこそ凄惨な表情。博士が見せた最初で最後の、野生動物らしからぬ表情だった。
なぜ博士が、そんな表情をしたのかはわからない。だけどこの時の私は無防備に、その笑顔に安堵したのだ。博士はまだ、完全に正気を失ってはいない。声に反応して、きっと精神の奥に埋没していた人間としての自我が浮上してきたのだ。そんな風に思った。
「博士、私の声がわかりますか?」
震えあがりそうな喜びを押しとどめ、努めて冷静に、私はこのようなことを言った。喜ぶにはまだ早い。博士はまだ、理性と狂気のはざまにいるのだ。そう思いながらも、しかし私の手は感情に正直に、ほとんど無意識のうちに博士に伸ばされていた。
蓬髪を払いのけ、もっとしっかりと表情を見たかったのかもしれない。あるいはただ単に、人間に触れたかったのかもしれない。確かなものを感じたかった。だってもうひと月も、私は人の気配すら感じたことがなかったのだ。
博士は私が手を伸ばす時も、ずっと笑みを作っていた。笑みながら、ゆっくりと口を開く。「何か言おうとしているのだろうか?」などと、私はよくも能天気に思えたものだ。
博士が口を開いた後、起こったのは一瞬だった。
博士が前のめりになったと思った瞬間、伸ばしかけた手に熱が走る。背筋の凍るような感触とともに、博士が噛みついてきたのだと理解した。私の右手の、薬指から中指にかけてを口に含み、指の付け根から噛み切ろうとしていた。皮膚が破れ、おそらくは肉の下にまで食い込み、骨が軋むような気配がした。吹き出した血に博士のぼさぼさの白髪が染まる。その髪の下の表情はわからないが、まだ笑みを作っているような気さえした。
私は悲鳴を上げた。博士を引きはがそうとするが、指に歯が食い込んだままびくりともしない。顎に込められた力は異常なほどに強く、少しずつ私の骨を押し潰そうとしていた。痛み、軋み、体中の熱が指の付け根に集まる。間近に迫る喪失の予感が、私の体を震えさせた。
少しずつ。まるでゆっくりと食い千切られるような心地だった。永遠のような時間。痛みよりも強い衝撃と、絶望と、まるで裏切られたかのような感覚が私を支配する。
だけど、これもほんの一瞬の出来事だったのかもしれない。
決定的な喪失の直前、私を救ったのは天井から落ちてきたトカゲだった。
腕くらいの太さのトカゲが頭上から落ちてきて、博士の顔にはりつく。突然のことに驚き、博士が顔のトカゲを引きはがすその隙に、私は自分の指を引き抜くことができた。かろうじてまだ、私の指と手はひとつながりであると知る。
この手が無事とわかった瞬間に、今度は痛みが戻ってきた。それと同時に困惑と恐怖が心に満ち、私はおそらく、パニックに陥っていたように思う。
逃げよう。逃げよう。ずっとそう叫んでいた気がするが、はっきりとは覚えていない。逃げよう。そう叫ぶ自分の声よりも、博士の咆哮の方が耳に強く残っている。私の悲鳴をかき消すように、博士は再び猛り声を上げて襲い掛かってきて。
おそらく。
それからおそらく、悲鳴を上げるばかりで動けずにいた私を抱え、猫はあの家を飛び出したのだと思う。薄暗い家を出て、月明かりの森に逃げ込んでもなお、耳の奥で博士の獣じみた声だけが響いていた。
意識が戻ったのはいつだったか、私はよく覚えていない。
何か強迫観念のようなものに襲われて、森を休まず歩き続けていたことは覚えている。丸二日歩いていたらしいということを、歩きながら鳥から聞いたことも覚えている。途中までは猫に担がれ、道半ばで休憩しようと私を下すと、一人で歩き出してしまったそうだ。「もっと遠くへ逃げなければ」と言って聞かず、仕方がなく付き合って歩き続けているのだ、と。
そんなことを言った記憶はなかったが、話を聞いたその時も、足を止めはしなかった。できる限り遠くに行きたいと思っていた。結局、トカゲの森を抜けて鳥の森に戻ってきた現在に至るまで、一度も足を止めなかったはずだ。
鳥の森に戻ってきて、私は初めて安堵した。記憶がはっきりしだしたのもこの時だったと思う。ようやく休息を取ることに思い至り、食事もとらずに適当な木の下で眠りについた。
これが昨日だ。
今日は、昨日よりももっと落ち着いているように感じる。
手帳をなくしたことにも気づいたし、日記をつけている中で、右手の傷がふさがっているらしいことにも気がついた。おそらくは鳥に治療されたのだろう、と推論するくらいの冷静さはある。しかし表面上は傷がふさがっているものの、痛みは残ったまま。曲げることもろくにできない。筆はつまむように持ち、まるで執念のような心地で書き記している。
あとは。
リュックに知らない荷物が一つ増えていることも見つけた。
博士の日記帳だ。
あの状況で、よくも持ってくることができたものだと感心する。どうして手放さなかったのだろう。こんなもの、持ってきてどうなるというのだろう?
何気なく手繰ってみると、手帳の間にいくつか紙が挟まれていた。手紙や、雑多なメモのようなものだ。だが、とうてい読む気にはならずにそのまま閉じてしまった。
水を飲もうとボトルを取り出すが、キャップを開けるのに難儀した。
苦労して水を飲むと空腹を思い出し、
猫だ。起きてきた。
自分でも思いがけないほどあっさりと、最後の缶詰を渡してしまった。
空腹を満たせるほどの量ではないが、慰めにはなる。味については、猫もたいそう気に入っていたようだ。
缶詰を手放しても後悔もないし、未練もなかった。なぜだろう。大切に取っておいたわけではなかったからか。猫といると、食事に困ることはめったにないからか。
なぜだろうと思っている間に、鳥に話しかけられた。主に私の体調についてや、今後についてだ。
具合は悪いが、頭はだいぶしっかりとしてきている。今後は、少し悩んだが、できれば元の寝床に戻りたいと伝えた。トカゲの森から離れたかったのだ。
そういえばあのトカゲはどうなったのだとか、あまり聞きたくはなかったが、博士は今頃どうしているのか、などといくらか会話をしたあとで、最後に鳥は少しもじもじしながらこんなことを言った。
「もしも他に人間がいたら、会いたいと思う?」
わからなかった。
博士の姿が鮮明過ぎて、まだ混乱しているのかもしれない。
本当に人間に会いたいのかどうか。今の私の中では、ひどく曖昧なものになってしまっている。