三十二日目(前半)
曇天。雲行きが怪しい。少し風が出てきて、湿度が高くなったように感じる。
時刻は午前四時。猫と鳥はまだ寝ている。あの家を逃げ出して以来、初めての休息だ。疲れているのだろう。
私自身もひどく疲れてはいたが、あまり眠れなかったらしい。噛まれた右手が痛むというのもあるが、眠るということ自体になんとなく不安を覚えているようだ。今ここで足を止めていることも落ち着かず、本心ではすぐに出立したいと思っている。
しかし一人になることは恐ろしく、私以上に疲弊した猫や鳥を叩き起こすこともまた忍ばれる。
浮足立った感情を持て余し、今は真新しい手帳を開いている。いつもポケットに入っているはずの、古い方の手帳は見つからなかった。おそらくはあの家に落としてしまったのだろう。
だが、取りに戻ることはない。もう二度とあの家に近づくこともない。
手帳が彼に拾われている可能性を思うと背筋が寒くなる。しかしおそらく彼は追ってこないし、記述から私の居場所を探し出すこともできないだろう。それどころか、もう文字を理解することもできまい。人はあそこまで狂えるのだ。
いや。あの家で出会ったのは、あるいはもう人間ではなかったのかもしれない。
あの家について、思い出せる限りのことを記そう。
そこで見た、人間の末路についても。
書けば少しは、楽になるかもしれない。
トカゲの案内で、川辺を離れて歩き出してから二日。日付としては、二十九日目だったと思う。
あの家に辿り着いたときには、すでに日が落ち始めていた。
家。そう、あれは紛れもなく家だった。今でも鮮明に思い出せる。家のたたずまいも、吹き抜ける風も、どこか空虚な気配さえ。
山小屋にも似た木造の建物。森の木々は家を中心に切り倒され、ぽっかりと空いた広場になっていた。斜めの夕陽はそのまま広場に差し込み、家に深い影を落とす。
木の肌はそのまま。荒く鉄釘を打ち込まれたその家は、どことなく歪な形をしていた。
鋭角な屋根には穴が開けられ、ガラスがはめ込まれている。あれは明かり取りのための窓だろうか。窓は壁にも大きく開けられていて、夕陽の赤い光を透過していた。
ドアは開けっぱなしだった。薄い木の板が外に開き切っていて、暗い室内をのぞかせる。
家の前には、小さな菜園らしきものまであった。すでに荒れ放題ではあるが、柵で囲まれた土の上に、見慣れた植物が生えていたのを覚えている。
鳥の森よりもさらに鬱蒼とした森が切れ、突然現れたこの光景に私は唖然とした。歩き通しで疲れ切った体も忘れて、思わず走り出す。猫は驚き、鳥は慌ててついてきた。それも気にせずに、私は近くの畑に足を踏み入れる。
畑には、すでに時期を外して腐りかけたトマトが落ちていた。思わず手に取ると、ぐずぐずに崩れてぬめった実と種がこびりつく。
ジーンズで手を拭い、隣の植物を見やる。見覚えのある青葉を抜くと、少し根の膨らんだ、大根のようなカブのようなものの出来損ないが出てくる。菜園の周りはぐるりと同じ植物が取り囲み、好き勝手に花を咲かせていた。大輪の色鮮やかな花だ。マリーゴールドだろうか? 本来は行儀よく植えられていたのだろうが、今は茎も花も伸びすぎで畑を侵食している。
植物にはあまり詳しくないが、トマトはたしか夏の野菜のはずだ。私がこの世界に来た時には、すでに夏とは言い難い気候だった。ならば、おそらくはもうずっと前に、この菜園に手を入れる人間はいなくなってしまったのだろう。
カブの出来損ないを放り捨て、私は小さな家を見た。
この時は、それでもまだ少し、期待が残っていたように思う。
菜園を横目に、猫や精霊を引き連れて家に近づく。
開け放たれたままの扉を見やると、どうやら蝶番が壊れてしまっていて、そもそも扉として役に立たなくなってしまっていたらしい。壁に立てかけられているだけだった。
扉には、獣のひっかき傷のような跡がある。大きな生き物の持つ爪痕だ。ぞっとしていると、トカゲの精霊が解説をくれた。
「魔物に襲われた時のやつだ。あの時は野ねずみだったから俺は何もできなかったけど、近くで見ていたからよく覚えている」
猫が用心深く鼻を動かし、少し警戒を強めた。「にゃあ」と鳴くと、今度は鳥が通訳する。
「濃い獣のにおいが残っているって。なんだろう、はっきりと判別できないみたい」
訝しむ猫たちを一瞥すると、私は家の入口に向き直った。覚悟を決め、家の中に足を踏み入れる。
扉から差し込む夕日が、室内を薄赤く照らし出す。入ってすぐに見える居室は、外から見えるよりもずっと広く、そして荒れ果てていた。
椅子はひっくり返り、テーブルは横転し、板張りの床に敷いた絨毯はめくれあがっていた。そこかしこに本が散らばり、ぽつりぽつりと斜めの光によって影を作っている。
床もまた、影が落ちたように暗かった。はじめはそういう色なのかと思っていたが、よくよく見ると、他の床と色が違う。暗い色は染みのように床に滲み、薄い色の他の床と境界を作っている。
猫が鼻を押さえた。なにか、言いにくそうにもごもごと、曖昧に鳴く。
「血の匂いだって。いくつか混ざっているみたい」
鳥が猫の言葉を代理する。私はあまり驚かなかった。やはり、という気持ちが強かったように思う。魔物に扉をこじ開けられ、ここで倒れたのだ。床にも深い爪痕が残り、薄い床板が剥がれかけていた。
ここにいたはずの人間はどうなったのだろう?
私が尋ねると、トカゲは首をひねった。
「さあ。興味がなかったからな。まだこの森にいる気配がするから、ちょっと探って来てやるよ。割と近くにいるんじゃないか?」
そう言うと、するすると壁を這い、天窓から屋根の上へと出て行ってしまった。
精霊にとっては人間の生死など、特に興味を抱くべきことではないのだろうか。トカゲの酷薄さを、何気ない口調から思い知った。
トカゲの姿が見えなくなると、私は改めて部屋を検分した。
外観よりも広く見えるのは、上に記したとおり。玄関に似たステップから直に居間に続き、そこからさらに奥へ続く扉が二つある。
居間は六畳弱の広さで、壁は一面本棚だった。背表紙は英語で書かれており、ざっと読み取れる限りでは物理と工学に関するものが多いようだった。背表紙のないものや、ただのファイルもかなりの量を占めている。
本に埋め尽くされた本棚と、転がったイスとテーブル。その他にはなにもないと言っていい。天井には屋根の形に傾斜があり、裸電球が釣り下がっていた。壁を探るとスイッチがあるが、押してもつかない。
家にあるものはほとんどが手製らしく、ところどころ歪なつくりをしていた。テーブルは不格好で、椅子は簡素な台に背もたれがついただけ。壁にはめられた窓枠はサイズがあっておらず、粘土のようなもので隙間を埋められていた。
この時、何気なくしゃがみこみ、床の色を確かめたことを覚えている。変色した床は一か所だけではなく、あちこちに見受けられた。魔物に抵抗でもしたのだろうか。椅子やテーブルの角にも血の染み込んだ跡があり、入口近くから外に向かって、まるで引きずられたような跡もあった。この家に起った惨劇を想像させられる。
家があり、人間の名残があるだけに、言いようのない深い悲しみを私は覚えていた。
ここで、暗くなってきたためにリュックから懐中電灯を取り出す。突然の光に猫が驚いていたが、魔法のようなものだと適当に解説しておく。納得したのかはわからない。
猫はそのまま鳥を伴い、私から離れていった。猫や鳥もまた、彼ら自身の興味の赴くままに部屋を眺めているようだった。
探索を再開する。一通り部屋を眺めた後は、扉の奥を調べる。
扉の一つは、台所らしいごく小さな部屋になっていた。石組みのかまどと、水の張られた陶製の壺(かめ?)が一つずつ。足元には茎の伸びた玉ねぎと、すっかり芽が出て紫に変色したじゃが芋が転がっている。
もう一つの扉は、寝室と書斎を兼ねているようだった。居間よりは狭く、家の裏向きに取り付けられた大きめの窓が一つだけあった。窓のガラスは割れていて、風がそのまま吹き込んでくる。ガラス片はベッドの上に散らばったまま。片づける人はとうにいないのだろう。
窓際には質素なベッドとナイトテーブルがあり、その周りをやはり本棚が囲っている。ナイトテーブルには、油を使ったレトロなランプと万年筆。それに、一冊の本が置いてあった。
本は日記帳だった。中身は崩した英語で書かれている。流し読みをするのは難しそうだったため、落ち着いた場所で読もうと小脇に抱える。
もう見るものはないだろうと、ナイトテーブルから目を離したとき、足が重たい何かを蹴った。見ればテーブルの足元に、武骨な小箱が転がっている。
これが無線機だった。私が使っているものと、いくらか形が違うらしいが、基本の構造は変わらない。次元間通信の機能が備えられていて、送受信の可能なトランシーバーだ。バッテリーが切れているのか、スイッチを入れても動かない。乱暴に扱われていたらしく、周波数の調整つまみは壊れ、頑丈なはずのカバーもひびが入っていた。
冷たい無線機の感触は、まだ手の中にある。
次の瞬間、ものすごい力で床に押し倒されるまで、ずっと触っていたものなのだ。
宙に浮くような感覚のあと、背中から地面に叩きつけられた。何事かと驚く間もなく肩を殴られる。頭上で獣じみた咆哮が聞こえた。
私は悲鳴を上げた。血走った目をし、口を開いて叫ぶ何かが私の上にいる。顔中灰色の毛に覆われて、猿みたいな姿をした何か。加減のない力で私を地面に押さえつけ、黄色い歯で噛みつこうと口を開けるそれ。
それが人間の男だと気付くのには、それほど時間がかからなかった。
悲鳴を聞きつけたのか、猫が部屋に飛び込んできた。
私からその男を引きはがし、逆に地面に押し付ける。脱臼したらしく、痛む肩を押さえて体を起こすと、私は猫に押さえつけられて暴れる男を改めて見た。
灰色の蓬髪に暗緑色の瞳。老成された深い皺は、伸び放題の髭に覆い隠されていた。服らしい服はほとんど着ておらず、破けた布切れが張り付いているだけ。
裸同然で、おそらくは窓から飛び込んできたのだろう。細い傷がいくつもついているが、気に留めている様子はなかった。
痛みも感じていないのだろうか? 血が流れるのも構わず、猫から逃れようと腕を振り回す。その力は、老人のものとは思えなかった。
たしか年は、七十手前だったはずだ。ひどく几帳面できれい好きだという噂を聞いたことがあったが、今はその面影もない。同じ人間である私を見た今でも、野生動物じみた声を上げ、敵意をむき出しにしている。
言葉を忘れたかのようなその男の姿は、私に驚愕と失望に叩き落とした。唖然としたまま、しばらくは息をすることさえ忘れて、男の顔を見つめていた。
信じられない。今もまだ、信じられずにいる。
私はこの男を知っていた。
博士だ。
次元転移理論を専門とする物理学者で、転移装置を実用レベルまで高めた工学博士。世界最初の次元転移の成功者でもある男。
最後の天才とまで呼ばれた、ルドルフ・リヒテンベルグ博士だ。