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二十五日目―二十七日目

二十五日目


 晴天。少し風がある。緊張か、あるいは興奮によるものか、体の不調をあまり感じない。

 朝食として食べられるものはほとんどなかった。猫は偽兎の頭を砕き、中身を舐めていた。私も骨に残った肉をこそげ落として食べる。

 期待しすぎないように。この世界では何が起こるかわからない。とは思うものの、間もなくこの惨めな食事が終わるのかと考えると、気が急いて仕方がない。

 早々に朝食を済ませると、少ない荷物をリュックに詰め込む。焚火の火種を忘れずに容器に移すと、まだ日の昇りきらない早朝に出立した。



 移動中の食事について全く考えていなかったことに道中気付く。気が急きすぎだ。

 鞄の中には、水と缶詰、飴くらいしかない。缶詰は最後の一つだが、なんとなく開けられずにいた。非常用に取っておきたいからだとか、文明との数少ない接点だからだとか、猫との交渉材料になるかもしれないからだとか、いろいろと理由を考えてみたのだが、おそらくはただの貧乏性だ。最後の一つというものに、どうしても手が付けられない性分なのだ。

 それでも今回の行軍でさすがに消費してしまうだろうか。そう思ったが杞憂だった。猫がついてきてくれたのは、私にとってこの上ない幸運であったようだ。

 それよりも私は、この道のりを歩き切れるだけの体力があるかどうか心配した方が良い。



 午後を少し過ぎたころ。私たちは一度、川辺で休息を取ることになった。

 というのも、私が早々にへばってしまったためだ。鳥に頼んで、なんとか水場までは辿り着く。だが、それ以上は一歩も動ける気がしなかった。煮沸した水を飲み干した後は、新たに水を沸かす気力も出ない。

 私に比べて、猫や鳥はまだまだ余裕があるようだった。彼らはこの森で生活しているのだ。移動すること自体も苦ではないらしく、ほとんど疲労していないようにすら見えた。

 猫は火種から焚火を起こすと、川に潜っていった。もともと水が苦手なうえに、先日の惨事があったあとだというのに、ためらうことなく飛び込んだ猫を、この時は首を傾げて見ていたものだ。


 水から上がった猫は、魚をくわえていた。荒く水際の石に放り投げると、「にゃあ」と一つ鳴いて、また潜っていく。

「食べていいよだって」

 鳥が私に言った。

「君、あんまり食べないからそんなに体力がないんだよ。体調だって悪いままみたいだし、あの子も心配しているみたいだよ」

 私は鳥の言葉を聞きながら、黙ってうつむいた。

 もしも元の世界に帰れるのであれば、礼の一つも言えるようになるかもしれない。



二十六日目


 昨日、川に出て以来、川沿いを下るように歩いている。森の道よりは、私が歩きやすいだろうとの配慮だった。川には増水のトラウマが残っているものの、上天気で雨の気配はないし、なにより水の心配をしなくていいのがありがたい。

 疲れたら川辺で休憩し、歩けるようになったらまた進む。

 昨晩はそんな調子で日暮れまで歩き、暗くなったころに簡単に寝床を作って一晩を明かした。疲れ切っていたため、私にしては珍しく手帳もろくに開かなかった。

 もっとも、特筆することもこれまでで起きていない。上記のとおり、歩き、休み、空腹になったら食事をとる。それだけだ。森の景色は単調で、それは川に出てからも変わっていない。鳥の案内がなければ、私は森を永遠にさまようことになるのだろう。


 そういえば、他の精霊について道中で鳥が語っていた。

 私たちが向かう森の精霊は、小さな野ねずみの姿をしているらしい(もっとも、私の知るねずみと同じ姿であるとは限らないが)。この先の森には猫原人の集落はなく、その精霊も特別交流を持つ生き物はいないそうだ。どうも、そのあたりが原因で、鳥と相性が悪いのだと言う。

「社会性っていうのかなあ。そういうのがまるでないんだよ。他の生き物をいたわったり、心を配ったり、仲間を大切にしたりとか、そういうのが。自分勝手で気まぐれ、自分以外には無関心な奴だよ」

 ふうん、と適当に相槌を打ちながら聞いていた。どうやら精霊同士にも、なにかと思うところはあるらしい。

「精霊ってさあ、基本的に死なないし、死んでも生まれ変わるんだよ。だからいろんな生き物と関わるし、そうするうちに生きているものを慈しむ心とかが出てくるものなんだ。だけどあいつはそんなこと考えない。自分本位で、他の生き物なんて器くらいにしか思ってない。そういうところが嫌いなんだよ」

「精霊にもいろいろいるんだね」

 真に迫った鳥の言葉に感心して、私はそんな言葉を返したはずだ。今一つ精霊というものを掴めずにいるのだが、個性があるという点では普通の生き物と変わらないのかもしれない。

「そりゃあいるさ」と鳥は言った。私たちを先導し、羽ばたきながらつぶやく言葉は、妙に耳に残った。「君たち人間に、いろいろいるようにね」


 しかし、その精霊に会いにいかねばならない、と鳥は言った。道がわからないからだそうだ。

 自分の領域内であれば夜の森でも迷わないこの精霊も、ひとたび外に出ればただの鳥と変わらない。私たち同様迷子になるし、夜目はきかずに方角さえ分からない。さまよい続ければいずれはその人間に出会えるかもしれないが、それもまた希望的な観測だ。まるで見当違いの場所を探し続け、永遠にまみえることはないかもしれない。

 だから、精霊は自分の領域を出ると、まず他の精霊を探すのだそうだ。もっとも、たいていの場合は探すまでもなく相手から出てくる。精霊がわざわざ外に出ることなんてめったにないため、何事かと他の精霊の好奇心を刺激するらしい。

 この分だと、明日か明後日くらいにはその精霊の領域に踏み込むだろう、と鳥は言った。まあ、のんびり行くのもいいよね、とも。

 相槌を打つだけの体力すらなく、息を切らしながら私はその言葉を聞いていた。野生動物と同じペースで考えてはいけない。



 現在。日暮れ頃に足を止めた川辺で野宿をしている。ここまで運ばれてきた焚火は赤々と燃え、猫はその傍で毛並を乾かしているようだ。今日もまた、川に潜って魚をいくらか捕まえてくれた。あの猫の傍にいると、本当に食事の心配をしなくて済む。助かる。

 乾かしながら、猫は私の作った不格好な櫛で体を梳いている。どうやらまだ、ダニは櫛に引っかかるらしい。イエネコとは違い野生に近い種だ。完全に清潔な状態でいるのは難しいだろう。問題は水にぬれて大繁殖した時であり、一匹二匹くっついているくらいではそれほど支障がないと、鳥も言っていた。

 私は一足先に、枯れ葉を集めた寝床に転がっている。だが、どうにも座りが悪くて、久々に寝袋を引っ張り出している。今は寝袋に半身を収めつつ手帳を開いているところだ。

 案外、以前の寝床を気に入っていたのかもしれない。一度は定住地にしようと思った場所だ。妙に心を残してしまったのだろうか。



二十七日目


 もう一人の精霊と出会う。

 ちょうど鳥の領域の森を抜け、別の精霊の縄張りに侵入した時だ。


 川風が冷たくなり始めた日暮れ頃。変わり映えのしない景色の中を歩いていると、急にトカゲが飛び出してきた。

 トカゲを見ると、瞬時に青くなる。失くした指が痛みだし、嫌な記憶がよみがえる。思わずよろめく私をさておき、あろうことかそのトカゲは口を開いたのだ。

「よう、俺の土地でなにをする気だ?」

 私たちの真正面で四つん這いになり、黒い瞳をせわしなく動かすそのトカゲは、明らかな日本語の声でそう言った。

 これが精霊だ。言われなくとも理解した。


 トカゲは私の腕くらいの太さで、赤黒くささくれ立った鱗を持っている。口調はやや荒々しく、鳥に比べて声が低いように思われた。が、彼らは声を発しない。私がこのトカゲに対し、そういうイメージを抱いたということなのだろう。

 あたりも薄暗くなってきたため、トカゲを交えてここで野宿をすることになる。



 川辺に火を焚き、魚を焼きつつ話をした。どうやら鳥と同様、このトカゲも割と話好きらしい。最近の森の様子から、現在の自分の姿について、あるいは私たちが探している人間について、尋ねるよりも先に語ってくれた。

 かなり無駄な話も多かったが、覚えている限り頭に残ったものを書き出してみる。


 たしか、はじめはトカゲ自身の姿についてだ。

 これについては、鳥が真っ先に追及したことから始まった。「ついこの間まで、君は野ねずみだっただろう。前の体はどうしたんだ」と非難がましく問い詰めたのだ。

 それに対し、トカゲは当然のように答えた。

「野ねずみはだめだ。あいつはすぐに食われる」

 続けて、たしかこんな内容のことを言ったはずだ。

「その前は熊だった。さらにその前は狸だったかな。大きい生き物はいい。せかせかせずにいられるからな。だけど代わりに、殺された時はごっそりと力を持っていかれる。熊の体で死んだときは、さすがに俺もやばいと思った。意思をなくして、また大気に戻されることを覚悟したな」

 大気に戻される? どういうことだろうかと質問すると、鳥が説明をしてくれた。

 鳥が言うには、精霊とは空気みたいなものらしい。そこら中をふわふわ漂う空気が集まり、次第に意識を持ち始める。意思を持つと動物の体に入り込み、他の生き物と接触できるようになる。だけど動物の体ごと殺されたり、あるいはなにかしらのきっかけで力を削がれると、意識を保っていられなくなるそうだ。

 そうしてただの空気に戻って霧散した時が、精霊にとっての死だ。だけど長い年月を賭ければ、また少しずつ集まって意思を取り戻す。もう一度生まれ直すのだ、と鳥は言った。昨晩にも話した、生まれ変わりのことだ。そういったものを私自身はあまり信じていないが、彼らは人間ではなく精霊だ。そういうものなのだろうと、とりあえず受け入れておく。


 鳥としては、この精霊の体の移動を快く思っていないらしい。体は他の生き物からの預かりものだ。どうせ君のことだから無茶をして死なせるような真似をしたんだろう、と強く問い詰める。

 トカゲはこう答えたはずだ。

「たしかに無茶もしたかもな。だけどどうせ、もともと死ぬ体だったんだ。俺たちが少しだけ、長生きさせているに過ぎない。それよりも、別にわざわざ説教をしに来たわけじゃないだろう? 妙なの二匹も引き連れて、なにが目的だ」

 ここから話が本題に入る。


 トカゲの森に、別世界から来た人間が住んでいるはずだ。その人物に会いたい。道案内を頼めないだろうか。

 私たちはこのようなことを要求した。

 トカゲは黒目がちな瞳でしばらく私たちを眺めてから「なぜだ」と尋ねた。

 元の世界に帰りたい。その人物は何度か、世界間の移動をしていたらしい。ならば帰る手段があるはずだ。

 私がそう言うと、トカゲがやや渋い声で唸った。

「帰りたいのはお前か。お前も別の世界から来たんだな」

 それから彼は私を黒い瞳に映し、嫌な思い出の甦るトカゲらしい口をぱくりと開いた。

「期待しない方がいいぞ」

 どういうことか。私の問いかけに、トカゲは以下のことを教えてくれた。


 まず、その人間はすでに一年以上前からこの世界に来ていた。そして、およそ一か月のスパンで、元の世界とこの世界を往復していた。小さな木組みの洞穴(家?)まで作って、長期的な滞在をしていたようだ。

 元の世界へ帰る手段だが、トカゲが言うには元の世界から迎えが来ていたらしい。迎えは大体が二人か三人で、森に人間の気配が増えたと思うと、数時間後くらいには全員分の気配が消える。たまに、好奇心に駆られてその家に潜り込んでもみたそうだが(当時はトカゲではなく、狸の姿だったらしい)、消える時はたいていが一瞬で、突然に起こるらしい。

 ところが、最近はこの迎えが来ない。以前に一度来て、気配が途絶えたきり。それ以降はたった一人の気配しか感じていない。疑問に思い、先日その人間と接触をしてみたのだが、同じことばかりを繰り返し繰り返し叫んでいるそうだ。


 話を聞いてぞっとする。

 すぐさま想像したのは、その人間が狂ってしまったことだ。迎えが来なくなり、この世界に閉じ込められてしまい耐え切れず、頭がおかしくなった。

 あり得ないことではない。私だって、いつ発狂するのかわからない生活をしているのだ。


 なにかきっかけでもあったのだろうか。恐る恐る尋ねてみると、トカゲはしばらく考えてから、その人間が一度死にかけたことについて話してくれた。

 数か月前に、その人間は魔物に襲われたらしい。どうにか魔物を追い払うことはできたそうだが、瀕死の状態で家(?)に転がっているところを、トカゲ(この時は野ねずみだった)に見つけられた。

 傷を癒してはやったが、痛みやそれに伴う発熱、精神的な昏睡などは治せない。いくらか声をかけてみたが返事がないまま気絶し、トカゲはその家を去ったのだと言う。

 それからしばらく人間について忘れていたが、久々に覗きに行ってみた時には、もうすっかりおかしくなっていたらしい。


 死の恐怖が発狂させたのか、それとも非現実的な傷の回復が正常な精神にとどめを刺したのか。あるいはまた別のきっかけがあるのか。

 傷を癒したのは、おそらくトカゲの気まぐれによる善意だろう。それが発狂への最後の一押しになっているのであれば、救いようがないように思えた。

 発狂。そう、私は話を聞くうちに、目的の人物がすでに正気でないことを確信していた。

「それでも会いたいか」とトカゲに問われ、瞬間的に肯定ができない。


 代わりに、こんなことを尋ねてみた。

 なにか、装置のようなものでもいじっていなかったか。大きめの金属の箱でもなかったか?

 転移装置めいたものの存在を、噛み砕きながら聞き出してみたのだ。だが、どうやらそういったものはなかったようだ。

 ならばおそらくは元の世界の装置を用いて、遠隔的に引き戻されていたのだろう。現在の次元間往復における、もっとも一般的な方法だ。

 現地で装置を作ろうという試みもないではなかったが、計画段階で止まっていたはずだ。そもそも、本来ならばまだ人間の移動を実践するにも早すぎるのだ。


 装置はない。だが、定期的に転移をしていたのは確かだ。迎えが来ないというのは、発狂してしまって迎えを呼べなくなったからでは?

 それならば、私が今呼びかければ、応えてくれるかもしれない。

 トカゲの言葉にかなり失望してはいたが、一縷の望みをかけ、私は「会いたい」と答えた。



 要求には対価を。

 話がついたあたりで、「案内をされたければ出すものを出せ」とトカゲに言われた。以前にも鳥が似たようなことを言っていたが、精霊は割と対価を要求してくる。だが、飴を砕いて口に放り込んでやれば黙るのだから安いものだ。この飴は、もしかしたら私が思う以上の武器になるのかもしれない。

「与えられた分だけは働く。精霊は施されたままではいないからな」

 飴をかみ砕きつつ、トカゲは偉そうに言った。

 トカゲに飴を与えて平気だったか。まあ、精霊だし大丈夫だろう。



 現在は話し合いも終わり、それぞれ眠りにつき始めている。

 猫に鳥にトカゲも加わり、奇妙な顔ぶれが転がる寝床に、私も横たわっていた。

 暗闇に慣れた目でしばらく彼らを眺める。


 眺めていると、「それでも会いたいか」という疑問がもう一度浮かぶ。私は即答できる。「会いたい」

 理由は帰還だけではない。もう一つ感情的な理由があることを私は知っている。取り留めのない思いだが、少し書き記しておこう。



 こうして当たり前のように、話すトカゲを受け入れる。当たり前のように獣たちと火を囲み、会話をしていると、まるで私の方こそ異常な存在に思えてくるのだ。

 たまに、水に映る自分の姿に違和感を覚える。鳥や猫のように毛並のない自分自身。むしろ私は、なぜ人間なのだろう。それとも本当に人間なのだろうか? 人間なんて、初めから存在しないのではないか? そんな風に考えることがある。

 私は、私以外の人間が存在することを確かめたい。私が人間であることを確信したい。



 私はおそらくまだ、彼らとは違うのだという自尊心を捨てきれずにいる。

 たとえ狂っているとしても、人間と会いたい。そしてわずかでも文化の片鱗に触れて、人間というものを思い出したいのだ。

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