二十三日目
火の傍を離れることを猫が嫌がる。
昨日の焚火は、猫がこまめに枯れ葉を足していたため、未だに赤々と燃え続けていた。疲労も蓄積しているだろうに、この調子だ。信仰の厄介さを思い知る。川の傍では、もう火を焚かない方がいいのかもしれない。
ライターで簡単に火がつけられるのだと主張するが、どうもそういう問題ではないらしい。一度つけたらそれが大事なのだ。
しかたがないので火を移動することを提案する。松明などは作れないため、礼の容器に枯れ葉や枝を放り込み、そこに焚火の火を移すのだ。これで持ち運びができるはず。
これなら、一度着いた火を消したとは言えないだろう? 強硬に説得する。
不満げな猫を、鳥を交えて言いくるめる。鳥は飴一つで買収した。安価だ。
そもそも、猫と違って鳥はあまり火に対するこだわりがないらしい。どちらかと言えば、自分たちの安全第一。増水はこりごりと言った調子だった。精霊信仰と火の神の信仰は、割と隔たりがあるのかもしれない。
精霊の言葉を受け、猫は渋々と移動を認めた。
猫が儀式ばって川原の焚火に祈る横で、荷物をまとめて移動する。
容器の中の火は、はじめこそ元気に燃えていたが、次第に弱々しくなっていく。途中途中で枯れ葉を足したが、移動の最中に消えてしまった。猫に気づかれないように、こっそりとライターで再着火する。鳥が覗き見て、ニヤリと笑っていた。
川原から歩いて十分弱。私が一人で行き来できる程度の場所で足を止める。大きめの木の下、猫がしばらく鼻をひくつかせてから、ここが良いと鳴いた。
短い距離だがすっかり疲れてしまった。立ち止まると、くらりと頭が揺れる。貧血のようだ。この短距離で、と体力のなさにうんざりする。猫がいなければ、あっという間に獣にでも襲われて餌になっているだろう。
いや、十分弱でも一人で歩くことができただけ、むしろ感心するべきところなのかもしれない。未だ本調子とは言い難く、体力の回復は遠そうだった。
座り込む私を横目に、猫は枯れ葉を集めて火を移した。焚火が燃え始める。それから木の下にも枯れ葉を敷いて、すっかり見慣れた寝床を作り出した。
寝床の傍に火がある。それだけでなにかすごく頼もしかった。
猫はまた、狩りに行くと言って去っていった。鳥と二人で残され、しばらく新居を観察する。
空も見えないほどに木々の密集した場所だった。木の根が木の根に絡みつき、足元がひどく歪んでいる。焚火のスペースがなんとか取れた程度で、地面もろくに見えないくらいだった。うかつに火遊びをしていると、そこかしこに燃え移りそうな気がする。
寝床は木の根の間に作った。根と根の入り組んだそこは、ちょうどゆりかごのようなくぼみになっている。収まり心地は良いが、雨が降ったら水が溜まるのではないだろうか。それとも絡んだ根と根の隙間から上手く排水してくれるだろうか?
リュックを寝床の枯れ葉に沈め、ボトルを取り出す。水飲みついでにトイレの場所も決めておく。
トイレと言えば、猫は割ときっちりとしている。水あたりでどろどろに汚れた私の傍に近寄ることはためらわないが、自身の用便は必ず決められた場所でしているようだった。鳥の方は逆に無節操で、羽ばたきながらどこにでもする。鳥類と哺乳類の違いだろうか。精霊のくせに生態が完全に鳥だ。
水を飲み、用足し、寝床へ戻ると、少し落ち着いた心地になる。手帳を開いてしばし手記をつけていたが、思い立って荷物の整理を始めた。
押し込んだままだった寝袋を取出し、火の傍に広げて乾かす。雨のせいですっかり蒸れて、ひどいにおいがした。
リュックの底にばらばらになって散らばる薬は集めて、残りをチェックする。今日から飲むのをやめた痛み止めと、これもまた数を減らした解熱剤。その他に、サプリメント、安定剤、整腸剤などがあった。集めたはいいが袋がないので、手帳の一ページを破って袋状に折り、その中にまとめて放り込む。
包帯、消毒液、ガーゼにテーピング。それに針と糸が出てくる。すべて救急セットの容器に入っていたものだが、今ではもう収める場所がない。せめてリュックの底に直接ばらまいておくのは気が引けたので、寝袋の入っていた袋に入れておく。
あとは水のボトルに、缶詰が一つ。一枚だけ残っていた湿気た乾パンは、調べながら齧る。不味い。
懐中電灯に無線機の予備バッテリー、ライターの替えのオイル。スプーン、缶切り。リュックに差したナイフ。このあたりは以前と変わりない。何気なく無線機を手に取り、音量を下げてからダイヤルを合わせ、通信してみる。
応答はない。次元間を超えた通信もできるはずなのだが、まったくの無音だった。大学側がまだ、世界間移動した人間を把握できていないのか。それとも把握するどころの状況ではないのか。
私の他にも、別次元に移動した人たちがいたはずだ。彼らはどうなっただろう。私同様に、生存可能な世界に飛べただろうか。みんなバラバラの世界に行ってしまったのだろうか。あるいは?
感傷に浸りかけ、あわてて首を振る。私の頭で居眠りしていたらしい鳥が、驚いて羽ばたいた。「どうしたの?」と尋ねてくるので、なんでもないと答える。
荷物の整理を終えると、それだけでまた疲れてしまった。この軟弱さはなんだと自責しながら寝床に横たわる。水あたり以降、体調がなかなか回復しない。
鳥とともにうとうとして、少し時間がたっただろうか。
目を覚ますと、傍の焚火が消えかけていた。慌てて飛び起き、枯れ葉を集めて火にくべる。わずかな湿り気の残る枯れ葉は、ぶすぶすと鈍い燃え方をしながらも火の勢いを増してくれた。
火か。木を乾かすには時間もかかるだろう。今のうちに集めて火のあたる場所に置いておくのもいいかもしれない。それくらいなら、私にもできるだろう。
寝床周辺を漁り、細めの枝を拾う。大雨の後だからか、折れたばかりの、まだ青い葉のついた枝がそこかしこに落ちていた。
そこそこ拾い上げて焚火の横に腰を下ろし、ナイフで適当な大きさに切りそろえる。
落ちてしばらくたったような、色あせた枝は切りやすかった。枝分かれした股の部分に勢いをつけてナイフを下すと、ぱきりと簡単に折れる。
青い葉がついているのはやはり難しい。ナイフを入れると抵抗があり、しなやかに跳ね返してくる。生木を乾かすのに、どれほど時間がかかるだろうか。家の建材などだと、乾燥には年単位の時間を必要としたはずだ。さすがに建材とは木の太さがまるで違うが、それにしてもすぐに乾くというわけではないだろう。
それほど待っていられるだろうか?
年。この場所で私は、年単位の時間を過ごすことになるのだろうか。可能性は否定できない。否定はできないが、私の気力はそこまで持つだろうか。体力的には? これから冬に向かうとして、食料はどうする?
木を切り分けながら、解決のしようもない考えが頭の中をぐるぐると回る。
一通り切り終えると、できるだけ日の当たる場所を探して枝を広げた。このあたりは木が密集しているため、日当たりが良いといっても木漏れ日程度だ。次からは川原あたりにでも広げて乾かした方がいいだろう。まあ、この距離ならそれほど苦痛でもないはずだ。
一仕事終えた気分で、また焚火に枯れ葉を投げる。それから思い立って、無線機を手にした。
私の作業に飽き飽きと言った様子だった鳥が、興をそそられたように尋ねる。「なにするの?」
それには答えず、私はダイヤルを回した。次元間の通信を切り、受信をこの世界に限定する。存在するかもわからない電波を探して、小刻みにダイヤルを動かす。ノイズが走る。ノイズ?
ざざざざざざ、ざざざざ。
少し戻す。
ざざざ。耳障りな音が途切れる。しばらく黙って耳を澄ませていたが、なにも聞こえない。
無線機の電源を切り、私は鳥を見やった。しばらく言いためらう。が、結局は口を開いた。
「どうしてノイズが聞こえるの?」
鳥は首を傾げていた。言葉を変える。
「なぜ、私が他の世界から来たのか知っているの?」
「それは、前に言ったように」
鳥が羽ばたき、何気ない口調で答えようとする。私はその声を遮り、そうだ、ずっと疑問だったことをついに尋ねた。
この世界には、私以外に誰かが来たことがあるのではないか?
そうでもなければ、他に世界があるということを、どうして知っている?
鳥は飛んで行ってしまった。
止まったダイヤルは、敵国が使っていたものと同じ周波数を示していた。
夜になって猫が帰ってきた。
猫は血まみれになった、尾が長くて耳のない兎みたいなものを携えていた。にゃあにゃあと鳴くが、鳥がいないので何を言っているのかわからない。差し出してくれることから、食べろと言う意味なのだろうと察する。
かなり躊躇いや抵抗があったが、見た目だけは兎に似ている。空腹ではあったし、他に食べるものもないとなれば、食べる他にない。冷たく、まだ乾ききっていない血のついたそれを受け取る。
魚は捌いたことがあるけど、動物なんて捌いたことはない。どうやればよかいのだろう?
悩みぬいて魚と同様、腹を裂いて内臓を取ることにする。魚に対する時とは違い、腹の皮にナイフを刺すといはひどい罪悪感があった。勇気を出してナイフを入れると、血とともに溢れる内臓を掻き出しながら唇を噛む。
ほうほうのていで腹を空にする。次は皮だ、と剥ぎ方を考えあぐねていると、猫にナイフを奪われた。
猫はしばらくナイフの握り方を試してから、意外なほど器用な手つきで毛皮を剥いだ。
背中のあたりに浅く切れ込みを入れ、少し骨に沿って肉を削ぐと、皮を掴んで軽く力を込める。と、フィルムでも剥がすようにあっさりと皮がはがれていくのだ。
下半身を剥ぎ、上半身の皮を頭だけ残して剥ぎ取ると、生々しい色をした肉塊になる。そのまま四本の足を折り、頭を捻り千切る。グロテスクさはあったが、見事なものだった。
こんな器用なことができるのなら、どうして初日で直接肉に噛みついていたのだ。まったく野性味あふれる食事をしていたのだ?
疑問はあれども、口にしても通じない。今となっては無意味に赤く染めた両手を持て余しつつ、猫による獣の解体を見守った。私の勇気は何のためだったのか。
一通り解体が終わると、猫はナイフを私に返し、再び「にゃあ」と鳴いた。やはり言葉の意味はわからない。これ以上手出しをしない様子を見ると、やるべきことはやったということなのだろうか。
血まみれのナイフを受け取り、肉塊に変わった元兎らしい生き物を見る。こうなってしまうと、もうただの肉にしか見えないから不思議なものだ。焼いて食べよう、などと考え始めている。
無造作に地面に置かれ、土のついた足を一つ拾う。猫はこのあたりが杜撰で、地面に落ちたものも平気で食べるし、食べるものを平気で地面に放る。汚れても気にしないのだろうか、と思う割には毛づくろいは丁寧だ。ときどき毛を吐き出しているので、その時に砂も一緒に吐いているのだろうか。
偽兎の足は、鳥の手羽に少し似ていた。木が刺さらないのでナイフを突き刺し、焚火の火に当てる。火が肉の表面を舐めると、筋肉質な赤みが収縮し、色を変えていった。
私が不器用に肉を焼く横で、猫は内臓を拾い上げて落ちていた枝に引っかける。長さから考えて、おそらくは腸だろう。直腸近くは爪で掻き切って、胃のあたりからつながった小さな臓器一式を火にかける。手慣れた様子から、やはり今までの食事は猫にとっても異常だったのだと推察できた。
いや、異常と言うほどには躊躇いなく食べていたようにも思う。猫たちは自力で火がつけられないらしいし、たとえば狩りで遠征した時など、もしかしたら生食もそこまで珍しくはないのかもしれない。
猫は焼いた内臓を、食えと言うように私に勧めてきた。洗ってもいない内臓を食べるには、まだ少し私は文明に侵されている。
偽兎の血で汚れた手をジーンズで拭い、焼けた肉を口にする。血抜きもされていない、臭みの捕れない野生の味がした。脂身はほとんどなく筋張っていて、これもまた美味いものではないが、食べるとやはり満たされる。
食後、猫の手の届かない背中を櫛で梳かす。まだ小さな卵が引っかかる。できの悪い櫛だから、梳き損ねがあるのかもしれない。
一通り梳かし終えると、猫が振り向いて口を開いた。
「ア、イ、ア、オ、ウ」
喉の痛むような声でそう言ってから、「にゃあ」と鳴いて私の額を舐めた。悪い気がしない。
現在、寝床で手記をつけている。
猫は丸く寝床に収まり、私はその体に寄りかかるようにして起きている。ブラッシングを済ませた猫の毛は、以前よりも滑らかだ。寄りかかると暖かさと心地よさに気が落ち着く。
そのうち、この暮らしにも慣れていくのだろうか。
それとも思いの外、別れが早く来るのだろうか。
あるいは。
今まで考えたこともなかったが、この世界に飛んだのが私だけとは限らないのだ。
鳥はまだ帰ってきていない。