二十二日目
快晴が続く。今日は朝から暖かい。
体調も昨日より良くなっているようだった。だが、右腕の麻痺と痛み、節々の痛みは継続している。熱も高いようだし、腹も水あたり以来ゆるいままだ。
気力を込めて体を起こすと一瞬だけ目の前が眩む。締め付けるような頭痛がするが、少し待つと引いていった。
猫はまだ眠っていた。しばらく変則的な暮らしをしていたために断言はできないが、どうも私とは生活リズムが違うらしい。猫は昼寝が多く、時間を見つけては眠っているが、起きるときは丸一日起きて活動をする。熟睡していることはほとんどなく、こうして私が動き出すと、様子を窺うように耳を動かしている。
熟睡しないのは、集落を離れたせいかもしれない、と少し想像する。仲間がいれば、安心して眠ることもできるだろう。そう考えると今は、随分と無理をしているはずだ。
おそらく無意味だろうと思いつつ、猫を起こさないようにひっそりと寝床を発つ。向かう先は川原だ。
水流の音を頼りに少し歩くと、すぐに川に出た。木々が途切れて、水面に差す陽光がまぶしい。軽く周囲を見渡せば、昨晩置き去りにしていた荷物がそのまま拡げられている。
川原に広げて乾かしておいた枯れ葉は、すっかり乾いていた。まずは火をつけ、昨日ほとんどできなかった水の確保に勤しむ。
川の流れも昨日よりは穏やかで、だいぶ澄んだ色をしていた。改めて見ると、わりあい浅い川のようだ。深いところでも膝上程度。川底に潜む魚の姿がよく見えた。
湯を沸かす間、シャツを回収する。これもまたすっかり乾いていた。生地は固く強張っていて、袖を通すとぱりぱりと音を立てた。右の袖には獣の歯形が残り、左袖には爬虫類の細かい噛み跡でほつれていた。泥は落ちたが、血の跡は黒く残っており、何とも言えず悲惨な状態だ。
それでも少し、気持ちが切り替わる心地がした。次はシャツだけではなく、ジーンズや下着も洗いたい。そう思いながら痛み止めと解熱剤を取出し、昨日わずかに溜めた水で飲み下す。
痛み止めももう残り少ない。そろそろ我慢できる程度に落ち着いてきたし、飲み控えるべきか。
落ち着いてくると、悩むことが増えはじめる。くつくつ湯立つ水を見ながら、今後のことを少し考えた。
猫とこの森で暮らしていくなら、なにが必要だろう?
食べ物。水。火。住む場所。
どこから手を付けていけばいいのだろうか。
取り留めもなく考えていると、猫が鳥を伴い川原へやってきた。火を認めると拝礼する。火への信仰は、寒さと水に弱いためだろうか。
「おはよう」と声を出して挨拶をしてみる。猫は耳を動かし、不思議そうな顔をしていたが、鳥から「挨拶だよ」と説明を受けて納得したらしい。
「ふにゃあ」
私を見て、あくびのような声を出す。
「おはよう、だって」
挨拶の言葉も、当たり前のように存在しないのだろう。うん、と私は苦い思いを抱きつつ頷いた。
昼ごろになると、猫は狩りのために森の奥へ向かった。
化け物の死体は、朝食代わりに猫が食べきってしまった。私にも勧めてきたが、倒れて動けなかったときはまだしも、今はかなりの抵抗がある。丁重に固辞すると、猫も強要はしなかった。
猫が去った後、私は一人で水たまりに残った小魚を漁った。逃げ場を失った魚は捕まえるにたやすい。目につく数匹を捕えると、まとめて水を張った容器に放り込んで火にかけた。
内臓を取ったり捌いたりするほどの大きさでもないため、刃物を入れるという発想もわかなかった。生きたまま火にかけることになる。
次第に色の変化していく小魚を、残酷だなあと思うものの、なぜだかつぶさに観察してしまう。くねくねと動く体がいつの間にか動かなくなり、透明感のある肌が白く変色する。
十分に煮詰まったあたりで火から下し、のろのろと食事にする。やはり美味いものではないが、温かいものが喉を通ると不思議な安心感がある。食欲など欠片もなかったが、腹に落ちると充足感がある。きっと空腹だったのだろう。そのことに、自分で気がつかなかったのだ。
食事。火。住処。
猫が戻ってくるのがいつになるかわからない。未だに体調は芳しくなく、あまり活動もできそうにないため、川原で手帳を開きながら考える。
食事、火、住処。なにが優先されるだろう。食事がなければ生きてはいけないが、火がなければ水が飲めない。住処と言うほどでもないが、雨をしのげなければ火を焚いてはいられない。それにこれから寒い季節になるのならば、今のように外で眠り続けるのは私には辛いだろう。
悩んでいると鳥が飛んできた。
猫と一緒に居たのではないのだろうか、と尋ねると、鳥は羽をすくめた。どうやら、狩りの調子が芳しくないようで、邪魔をしないように戻ってきたのだとか。
そうか、狩りに失敗することもあるのだ。ライオンなどは狩りに成功するまで、何日も食事をしないと聞いたこともある。猫の狩りにだけ期待するわけにもいかない。
考える私をよそに、鳥は水たまりに飛び込んだ。羽を広げて水浴びをする様子を眺めているうちに、ふと思い当たる。
猫たちは洞窟に集落を作っていたと、鳥が言っていた。洞窟に住んでいるのは、おそらくは雨を避けるためだ。以前、狩猟民族がひとところに留まっていることに疑問を抱いたことがあったが、雨に弱い猫たちを思えば、納得できるかもしれない。移動して濡れることのデメリットの方が、猫たちにとっては大きいのだろう。
なににせよ、猫は洞窟に住んでいたのだ。
それならば、私たちも洞窟に住めばいいのでは? 猫の集落は奪われてしまったようだが、一つ洞窟があるのなら、他に似たような洞窟があってもおかしくないだろう?
そう尋ねると、鳥は水の中から首を伸ばし、重たく首を振った。
「だめだよ。確かに、川をさかのぼれば洞窟は他にもあるけど、そこに行くには敵の縄張りを横切らないとならない。仲間が他にもいれば戦えるけど、あの子と僕たちだけじゃあ見つかったら勝てっこないよ」
なるほど、縄張りか。本当に野生動物じみている。いや、人間だって領土やら領海やら、縄張りとそう変わらないものがあるか。領空まで主張するあたり、むしろ人間の方が欲深いのかもしれない。
「もう少しさかのぼった方が、あの子たちにとっては暮らしやすいんだけどね。雨をしのげる場所が多いし、獲物も多い」
「ふうん」と答えながら、私は水浴びする鳥をしばし見つめた。
少し気になることがある。
猫の仲間はどこにいったのか?
どうして猫はこの森に一人なのか?
以前、生き残った仲間とはぐれてしまったと聞いた。猫人間は他にもいるのだ。
それを探しに行かないのか? どうして森の中で暮らし続ける?
私が上記のようなことを尋ねると、鳥は水の中に身を沈め、わずかに俯いた。そして、低く囁くような声で言う。
「他の子は、たぶん森を離れたんだ。僕の力が及ぶこの森には、いない。でも」
水中で呼吸をしたのか、小さな気泡が水たまりに浮かぶ。ぱちんと弾けて、鳥は目を閉じた。
「あの子はまだ、あの場所を諦めきれていない。いつか取り返したいという思いを捨てきれずに、森をさまよっているんだ。勝てないと、わかっているのにね」
日が暮れかける頃、猫が戻ってきた。川原で焚火に落ち葉を足す私の元へとろとろと寄ってくる。
どうやら大した収穫はなかったらしく、小さな野ねずみを一匹手にしていた。私と鳥を見ると、「にゃあ」とふがいない声で鳴く。
「食べていいよ、だって」
猫がねずみを差し出してくるので、あわてて断る。一日走り回って、猫は疲れただろう。私はずっと川原にいただけだし、そこらへんで魚を捕って食べることもできた。などと言い繕うが、本心としてはねずみなんて食べたくない。
いずれはねずみだって食べなくてはならない状況に陥るかもしれない。我が儘だ。とは思うものの、実のところリュックにはまだ食料が残っている。他に食べられるものがあると思うと、選り好みしてしまうものだ。
猫はしばらく私を窺ってから、やはり「にゃあ」と鳴いて、ねずみに噛みついた。
できるだけそちらを見ないように、私も食事にする。鞄の底に眠っていた、湿気た乾パンをかじる。
缶詰はあれほど敏感に反応した猫だが、乾パンにはさして興味もなさそうだった。肉食動物だからだろうか? そういえば彼の食事は、動物性タンパク質ばかりだ。
食後。寝床に戻って毛繕いを終えた猫の背に、櫛を当ててやる。
猫は戸惑ったようににゃあにゃあと鳴いた。
「なぜだ。ダニは今はいないぞ、だって」
鳥が眠たげに言った。うとうととした様子で猫の耳に頭をもたげ、しばらくすると本格的に眠りについたらしい。「ブラッシングを習慣化させた方がいい」「こまめに梳かさないと、またすぐにダニが付く」という私の言葉を通訳しないまま、目を閉じてしまった。
猫の毛を梳いている間、ずっと彼は鳴き続けていた。何を言いたいのか見当もつかない。時おり尻尾を揺らし、腰のあたりで身をよじる様子から、もしかしたらくすぐったかったのかもしれない。
言葉がないというのは、不便なものだ。いつもどこでも精霊がいたわけでもあるまいに、普段はどうやって仲間と過ごしていたのだろう?
櫛にかかったダニを猫に見せると、やかましく鳴いていた猫が大人しくなった。してやったり。意思の疎通は、まったくできないわけではない。
今少し目が冴えているので、食料と火と住処についてをまた考える。
生食はできるだけ避けたいから、食料を考えるなら火が欲しい。
火を絶やしたくないから、できれば薪が欲しい。生木を乾かすのに、いったいどれほどの時間がかかるだろうか? 薪を背負いながら移動もできないだろうし、安定した火のためにも定住地が欲しい。
飲み水について考えると、できれば住処は川の近くがいい。だが、大雨で増水に巻き込まれるのはもうごめんだ。
適度に川から離れている場所に拠点を置きたい。