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二十一日目

 晴天。本当に久しぶりに太陽の姿を見た。

 雲はまばらで、青い空が垣間見える。相変わらず気温は低いが、この天気が続けば昼ごろには少し暖かくなるだろう。


 目覚めたのは朝の五時ごろ。きっかけは痛みだった。

 昨晩、眠りについたときには感じなかった全身の痛みに叩き起こされる。

 化け物に噛みつかれた右の腕が焼けるように痛み、失ったはずの左の小指が痛み、もはや原因もわからないまま体の節々が痛む。ほうほうのていでリュックから痛み止めを取り出して飲むが、あまり効いているようには思えなかった。

 痛みに加え、やや麻痺の残る右腕でキャップを外し、薬の後にボトルの水を飲む。これで煮沸してためておいた水が切れた。どこかでまた水を汲まなくてはならない。

 私が目覚めた時、猫と鳥はまだ眠っていた。水は彼らが目覚めてから相談しようと思いつつ、とりあえず枯れ葉の上に横たえていた半身を起こす。

 腕を地面にあて、力を入れると痛みが全身に走った。些細な動作も今は痛みに変わる。中途半端に体を起こしたまま動くこともできず、仕方ないのでそのまま自分の体を見下ろした。


 相も変わらず酷い姿だった。服は破れ、血と泥と汚物にまみれている。おそらく髪や顔も散々な有様だろう。猫と違って毛づくろいをしない私は、一度汚れた姿をきれいにする術がこれまでなかった。

 熱はあるが寒気がする。もはや熱がある状態が当たり前になりすぎて、体調が悪いのかどうかすら判別できない。悪いような気もするし、思った以上には調子がいい気もするのだ。

 だが、呼気は乾ききっていた。唾液もないほど口の中が乾き、森の空気を吸うたびに咳き込む。そして咳き込むとまた、体中が痛みを訴えてくるのだ。

 風が吹けば肌が痛い。呼吸をすると喉が痛い。瞬きをすると目が痛い。身じろぎすれば全身が痛い。痛みに唇を噛んでさえ痛い。

 今まで忘れていた痛覚が、いっせいに目覚めたような感覚だった。生きているだけで、これほど苦痛なのかと思い知る。


 それでも一時間かそこらが過ぎると、やや慣れてきたのか、痛みがわずかに遠のく。太陽が樹上に姿を見せ始めたころには、ある程度体を動かせるようになった。

 だが、立って歩けるようになるまでは、もう少し時間がかかりそうだ。他に、特にできることもなかったので、現在はやはり手記をつけている。以前に書き留めておいたメモも出てきたため、まとめて今日の日付のところに挟んでおこう。


 猫が起き出してきた。一度ここで筆を置く。



 切実だったために、猫に頼んで水辺に連れて行ってもらうことになった。

 水が欲しいと訴える私に、猫は少し驚いたようだった。私に顔を近づけ、しばらく私の姿を見つめてから、不意に舌で私の額を舐めた。それから「ふにゃあ」と、例によって獣らしく鳴く。

「元気が出て良かった、だってさ」

 猫の頭で寝ていた鳥が、眠たげに瞬きしながらそう言った。だいぶ心配をかけていたようだ。ざらりとした猫舌の触感が残る額に触れ、少し反省する。


 出掛ける前に荷物をまとめた。それほど水辺まで遠くないと言われたが、いつ何があるかわからないため、できる限りのものを持ち歩いておきたかった。

 まずは散々油を入れて燃やした容器と、空になったボトルを回収。放り出したままの寝袋は丸め、リュックの中に押し込む。ナイフをリュックの外ポケットに差し、無線機がまだ動くことを確認する。

 これで良しと思ったが、のちのち壊したパスケースを忘れてきたことに気づく。即席の櫛は猫が大切に持っていたが、身分証入りのパスケース本体がなかった。

 なんとなく、これで自分の身分を失ったような感覚を覚えた。

 薄いカードに書かれただけの私を失い、あとはここで生きていくしかないのだ。そう考え、文字として記しながら少し感傷に浸る。



 出立の時点に話を戻す。

 猫と鳥から「そう遠くない」と聞いたが遠かった。

 徒歩でおおよそ一時間強。雨でぬかるんだ森を行くには、体力があまりにも足りなかった。五分、いや、一分程度も一人で歩いていられただろうか? 息が荒くなり、めまいがしてきた。

 早々にへばった私は、道中のほとんどを猫に担がれて移動することになる。猫は当たり前のように私を肩に担いだが、本当は彼自身も疲れていただろう。申し訳ないことをした。


 猫に運ばれしばらく。川へと辿り着く。

 以前に身を寄せていたものとは、どうやら別の川らしい。川幅はやや狭く、大きく蛇行していた。蛇行した水流に合わせて森が途切れ、太陽の日差しがまぶしい。数日の雨のせいか流れが早く、水は濁っているように見えた。

 丸石の転がる川原には雨の名残がそこかしこにあった。大雨に流されたらしい木の枝や葉が川原の石にへばりつき、増水でできた水たまりがいくつもある。

 水たまりには逃げ損ねた小魚が所狭しと泳いでいた。体調十センチもないような、細い小魚を見つけた瞬間、これも食べられるだろうかとつい考えてしまう。


 猫は水たまりを避け、私を川原に下した。それからふにゃあと一つ鳴く。

「ここで何をするのか、だって」

 猫の耳を足蹴にしながら、鳥が通訳した。「火をつけたい」と言うと、猫が瞬く。

「ここを新しい寝床にするのか?」

 鳥越しの声を聞き、ああそうか、と少し渋い思いをする。猫は火のあるところを離れたがらないのだ。

 また雨が降れば、増水して大変なことになる。川原の様子を見る限り、一面水浸しになるであろうことは明らかだった。


 火をつける場所を選ばなくては。とは考えたが、なにしろ今は水が最優先で欲しかった。

 酷使させて悪いが、猫に乾いた枝や枯れ葉を探してきてもらう。その間に私は油と煤まみれの元救急セット容器を川の水で洗った。

 空はいつの間にか雲が去り、快晴に変わっていた。肌に触れる空気が暖かい。それでも暑いと思うほどには気温は上がらず、普段の感覚で言うなら、どちらかと言えば涼しいくらいだ。

 ここへ来たときよりも、少しずつ寒くなっているように思う。寒い季節に向かっているのだろうか。

 猫はまだ戻ってくる気配がないため、少し悩んでからシャツを脱ぐ。血と泥まみれのシャツは手に重く、内に来ていたTシャツだけになると、少しすっきりとした。シャツがむしろ陽光を遮っていたのだろう。脱いだ方が暖かくさえ感じる。

 シャツは軽く川に浸し、泥を流してから近くの石の上に広げておいた。この天気なら乾いてくれるだろう。


 それから猫が戻ってくるまで、することもなく手帳を開いていた。途中まで今日の手記をつけていたが、猫が戻ってきたため閉じる。

 随分と時間がかかったようだが、枯れ葉とともに猫が持ってきたものを見て納得する。

 あの化け物の食べ残しを回収してきたのだ。もうほとんど骨だけになっているが、赤黒く変色をし始めた肉が骨にこびりついて残っている。食べる要素はあるということなのだろう。

 枯葉を川原に下して、猫は「にゃあ」と例によって鳴いた。どこか不思議そうに、私を見ながら鼻を動かす。白いひげが上下に動いていた。

「毛皮をどうしたの? だって」

「毛皮?」

「それ」

 と言って鳥が広げたシャツを指す。なるほど、思えば猫は自前の毛皮があるため、服を着る習慣がないのだ。見た目もそのまま全裸である。

 よその生き物の毛皮を被っているのだ、と大まかに説明すると、猫が感心したように鳴いた。

「いい考えだ、だって。この子たちは寒さに弱いからね」

 ふうん、と頷きながら考える。毛皮という概念はあるのか。それとも体毛という意味を、毛皮として変換されたのか。



 やはりと言うべきか、完全に乾いた枯れ葉はなかった。猫もよくやってくれたのだろうが、どれもこれも湿っている。仕方なく、しばらく川原に広げて乾かすことにした。

 乾くのを待つ間、猫と鳥と会話をする。

 猫と鳥と出会ってから、もう二週間近くがたつこの時。初めて名前についての話題を出す。

 私たちはまだ、お互い名前も知らない。名前を教えてほしいと頼んだのだ。


「名前?」

 私の問いかけに、鳥は首を傾げた。鳥と顔を見合わせた猫も、ふにゃふにゃとよくわからない鳴き声を上げる。

「名前って何?」

 何、と改めて尋ねられると難しい。個人を識別する特有の言葉だろうか。そんな風に説明すると、鳥は少しの間悩んでから、こう答えた。

「森で二番目に大きい湖の北にある洞窟集落の、白猫の中で一番若い戦士」

「うん?」と思わず聞き返す。私は名前を尋ねたはずだ。

「集落で一番勇敢な白猫の戦士の息子で、若い戦士の中では最も強いのがこの子だよ」

 名前と言う概念がないのだろうか?

「よくわからない。集落の若い戦士の中で、最も強い猫と言ったらこの子だし、他の子はこうは呼ばれないよ? 顔を見れば誰が誰だかわかるし、個人を識別するには十分でしょ?」

 当たり前のように言う鳥の姿に、私は得も言われぬ衝撃を受けた。

 猫たちに名前は存在しない。そう言っているのだ。


 猫の「にゃあ」と言う鳴き声から、精霊は意思を読み取って他へ伝える。そこに言葉を挟む余地はない。共通認識のされた、特定の音を並べた単語など、彼らには必要がなかったのだ。

 名前すらないとなると、この世界の言語は本当にまっさらなものなのだろう。精霊が彼らの間で信仰されているという理由がわかる。精霊がいなければ、猫たちは意思を交わすことができないのだ。

 それとも、精霊がいるから言語が発達しなかった?

 このあたりは考えても結論が出ないだろう。

 何にせよ、名前がないというのは私には理解しがたい事実だった。


「名前を付けよう」と、私は反射的に答えていた。

 猫と鳥は訝しんでいた。名前と言われて、ピンとくるものがないのだろう。いちいち口で説明していてもらちが明かない。猫に似合う単語を探る。

 散々ひとりで悩んだが、どうやら私に名づけのセンスはないらしい。苦しみぬいた末に出てきた言葉がこれだった。

「シロ」

 毛並からの連想だ。連想と言うよりはそのままだ。「シ、ロ」と一音ずつ区切り、猫の耳に直接呼びかける。通訳しようと羽ばたく鳥は手で押さえ、繰り返すように迫った。「シ、ロ」

 猫はひげを垂らし、私を見据えつつ答える。

「イ、オ?」

「シロ」

「イ、オ」

 子音の発音ができないらしい。まあいいか、イオでも。シロよりはましかもしれない。

 それが名前だ、と言うと、押さえつけられた鳥が羽ばたき通訳した。

「それが君の名前だって」

 押さえつけられたせいか、鳥は不満げだった。ばさばさと羽を広げ、胡乱な声を上げる。

「僕には正直、あなた、私、あなた、と繰り返しているようにしか聞こえないけど」

 鳥による意訳というものを、少し垣間見る。


 苦労して私の名前も伝えるうちに、日が傾き始めていた。

 慌てて枯れ葉を集め、火をつける。湿気たライターに湿気た葉で何度か失敗するが、最終的には小さな焚火ができた。ほっとする。水気のせいか火はどうにも不安定だが、お湯を沸かすくらいはできるだろう。

 日が暮れはじめると、濁った川面にも暗い影が落ちる。

 水流も昼よりも弱くなっているようだ。濁りは取れたと信じて沸かし、粗熱を取ってからボトルに移した。


 だが、おおよそボトル半分も満たないほどで、私の体力と火が同時に切れた。弱まる火に枯れ葉を投げ込むが、湿っているせいか弱まるばかりで、最後には消えてしまった。

 猫は川原の石に額を擦りつけ、消えゆく火に拝礼した。その横で、私は最後の気力でキャップを固く締め、倒れた。




 現在、夜の十時を回っている。

 いつの間に運ばれたのか、水流の音が聞こえる木の下。枯れ葉だらけの寝床にいた。隣で猫は丸くなり、鳥も寝ている。半端な時間に目覚めてしまったようだ。

 ずっと寝て過ごしていたため、久々の行動に自分でも気がつかないほど疲労していたらしい。体の感覚がまだ戻っていない。自分の調子が把握できないのは厄介だ。

 なにかするにしても、まずは体調を整えることが先決だろう。よく寝て、よく食べて、雨に気をつけなくてはなるまい。

 上天気だったとはいえ、夜はやはり寒い。くしゃみをすると、シャツを脱いだままだったことに気づいた。暖を取るため、丸まった猫の背にしがみついて寝る。


 猫の背にダニが残っていた。ちゃんとブラッシングを続けさせなければなるまい。

 指で引っぺがし、今度こそ寝る。

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