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二十日目

 手記をやめようかと、何度か迷った。

 結局また書いている。死ぬまでの供となるという言葉は、もしかしたら真実なのかもしれない。私は文字に呪われているのかもしれない。


 先日から今日まで。

 いや。

 今のことを書こう。



 今、私は猫の横で手帳を開いている。時刻は夜八時。冷えた空気が肌寒く、雨は去ったが森中に水気が残っている。

 私がつけた火は、もうとっくに消えていた。化け物の脂も取れず、新たな火はつけようがない。寒さをしのぐためには、猫と体を寄せ合う他になかった。

 猫は丸くなって眠っている。疲れ切った様子で耳を垂らす彼の上には、同じく疲弊した鳥が目を閉じてとまっている。私も疲れていたが、私を追い、薬草を探し、休みなく介抱を続けた彼らこそ真に疲労しているのかもしれない。



 先ほどまでは彼らも起きていて、少し会話をした。

 会話と言うよりは、一方的に語りかけられただけだったかもしれない。なににせよ、私は猫の言葉を聞いた。

 無気力なまま猫の介抱を受けた直後のことだ。


 猫はにゃあにゃあと獣らしく鳴きながら私に噛み砕いた肉を飲ませ、ボトルの水を飲ませた。キャップを回す猫の手つきが、以前よりも慣れた様子だと思ったのを覚えている。

 瞬きをすると一瞬世界を見失い、しばらくすると見覚えがないほど鮮明に世界が映るが、もう一度瞬くとまた世界が消える。息を吐くと乾いた唇に痛みが走る。そのくせ右腕の痛みはなく、麻痺していることさえわからなくなっていた。耳から聞こえる音はすべてが遠く、だけど遠くの音が間近で聞こえるような、そんな奇妙な感覚だった。

 遠近の感覚がひどく歪んでいた。だから、介抱を終えた後の猫が、私の手を取っていたことに気づくのにも時間がかかった。にゃあ、と訴えかけるように出した鳴き声も耳に遠い。

 今から思えば、獣の鳴き声を意図して遠ざけていたのかもしれない。しきりに鳴く猫の声は、私にとって耳障りなだけだった。

「感謝をしているんだ」

 人間の言葉には、しかしすぐに気がついた。顔を上げると、頭上の枝先から鳥が飛んでくるところだった。慣れた様子で猫の頭に羽根を休め、鳥は毛羽立った自らの羽をついばみながら通訳した。

「必ず恩を返す。そう誓った。だから君を助けるんだって」

 猫が鼻先を近づけて私を見る。私は目を逸らした。

「自分にできることはこれしかない。他に君の望むものを与えられないし、なにを望んでいるのかもわからない。だから生きてもらう。自分と一緒に居るのが君にとって苦痛だとしても」

 にゃあにゃあにゃあ、と猫は一際長く鳴いた。鳥がちらりと猫を一瞥し、首をすくめる。

「それに」

「にゃあ」

「それに、君がいて、世話をすること自体がこの子にとっての救いなんだって。集落を奪われて、仲間を何人も殺されて、生き残った仲間ともはぐれてしまった。復讐することもままならず、戦士としての矜持をなくして、自分もまた生きるのが苦痛だった」

 猫と鳥の声が混じり、不快感に私は耳を閉ざした。両手で強く耳を押さえると猫の鳴き声が遠ざかる。だが、鳥の声は変わらなかった。彼の言葉は音として発せられるものではないのだ。あらためて思い知る。

「ダニを治療してくれたことでもなく、魔物を狩ってきてくれたことでもなく、君の存在が自分を救ってくれた。君に、本当に感謝をしているんだ。だから、あ」

 不意に鳥の声が止む。いぶかしんで目をやれば、頭の鳥を猫の手が押さえつけていた。

 鳥は羽をばたつかせるが、猫は手を離さない。そのまま、私を見据えて口を開いた。

「ア」

 猫の喉の奥から、不器用そうな声が絞り出される。

「ア、イ、ア、オ、ウ」

 五つの音を発声してから、猫はばつが悪そうに目を伏せ、「ふにゃあ」と鳴いた。

「上手く言えなくてごめんなさい、だって」

 私はなにも答えなかった。猫が反応を伺い見ていたが、私は一言も発さず、表情も変えずにいたと思う。しばらく、耳鳴りのするような沈黙が流れた。

 耐えきれず、口を開いたのは鳥だった。猫の頭の上で、フォローするように言う。

「さっきのこの子の言ったこと。僕には音がよくわからないけど……死んでほしくない。生きてほしい、って意味だったよ」

 私はこの時、結局なにも答えなかった。



 猫と鳥が寝静まり、手帳を開いた今もまだ、感情を消化しきれずにいる。呪いのような疑問が頭に繰り返される。

 私は人間なのか?

 人間とはなんなのか?

 それでも生きているべきなのか?


 私にはわからない。

 わからないが、もう逃げ出す気は失せていた。まだしばらく、猫とともにいるのだろうという予感がある。


 それからもうひとつ。あの時、人間として答えるべき言葉があったことを知っている。

 知っていても答えられず、今も口にすることができないでいるのは、人間としての矛盾した、そして無意味な矜持だ。だから文字として記しておく。

 文字を知らない彼らに伝わらないとわかっていながら、こうして記すのもまた無駄な行為だと思いつつ。



 酷いことを言ってごめんなさい。

 助けてくれてありがとう。



 夜風が冷たい。

 少し泣いたら眠ることにする。

ここまで第一章

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