十六日目
午後から雨が止む。火は燃え続けている。
痛み止めと解熱剤を飲む。リュックの底から薬とともにサプリメントの錠剤が出てきたので、適当にいくらか飲む。熱は下がらない。痛みはもうあまり感じず、代わりに右腕が痺れるようになる。
水を飲むときは気を付ける。地面が湿っている現在、直接焚火ができないために、火の受け皿として救急セットの容器を使っているのだ。煮沸消毒ができない。
猫の毛並はおおよそ乾いた。体温も戻ってきているらしい。
が、彼は相変わらず丸くなったままほとんど動かない。時折喉を擦るような、苦しげなうめき声が聞こえる。鳥の方は元気を取り戻し始めているらしく、獣の死体をつついて食事をしていた。
日暮れ頃、獣から粘性の油を搾り出し、容器に追加する。雨が止んだためか、森に生き物の気配が感じられ始める。鳴き声や足音がするたびにぎくりとする。
猫がこの状態では、獰猛な獣が現れても、私がやるしかないのだ。私がやらなければ。ナイフを常に手の届くところに置いておく。
猫のうめき声が聞こえる。まだ寒いのだろうか? 空腹か?
いや。いつもと様子が違う。甲高い悲鳴のようだ。なにかおかしい。どうした?
様子を見に行くため、一度手帳を閉じる。
濡れた枯れ葉の上で、猫が悶絶していた。腕で自身の体を抱きながら転げまわっている。
困惑していると、鳥が飛んできて私の頭にとまった。
「まずい、まずいよ! ずっと大人しかったからおかしいと思ってたけど……!」
鳥の声から焦操が感じられた。私は首を傾げる。猫の異常は明らかだが原困には思い当たらない。何か大変な病気なのだろうか?
私の疑問に答えるように鳥が叫ぶ。
「ダニだ!」
「ダニ?」
「毛が濡れるとすぐに湧くんだ! あの子たちの天敵だよ!」
鳥の焦りに反して、私には今一つピンとこなかった。ダニなら私の世界の犬猫にもつく。精潔にしていればあまりダニに悩まされることもないし、ブラッシングと薬で割と簡単に駆除できるものだ。
「ダニに付かれると、あの子たちはみんな熱を出して弱っていくんだ。取っても取っても取りきれないし、他の子に移ることもある。ダニで絶滅した部旅もある。だからあの子も、水に入るときはいつも気をつけていたんだけど……」
気をつけていたんだけど。
私がいたから、天気の悪い日にも潜る羽目になったのだ。何度も水に入ることになったのだ。そう言いたいのだろうか?
いや、今は猫についてだ。ダニによって苦しんでいるのだと鳥から聞かされたのだ。ほとんど無言で丸くなっていたのは我慢していたためなのだと。しかし耐え切れなくなってしまったのだと。おそらく、猫の体のいたるところにダニがいるのだ、と。
ダニ。ウイルスでも媒介しているのだろうか?
そう尋ねると、鳥はわからないと答えた。
「わかんない。ダニがつくと大体みんな死んじゃうんだ。一匹や二匹ならすぐに捕まえて潰すんだけど、何匹もいるともう取りきれないから……。他の子もダニが怖くて近奇れないから、どうしようもないんだ……」
「じゃあ、あの猫は」
「僕、僕はどうすればいいのかわからないよ」
震える声で鳥は言った。
猫は自身の体をかきむしりながら悶えている。爪で強く掻いているのだろう。白い毛並にところどころ赤い斑が混じる。
様子を見るために近づこうとするが、周りの見えていないらしい猫に何度も跳ね飛ばされた。そのたびに転げて、泥だらけになったあたりでようやく背後から猫の毛にしがみつく。鳥が悲鳴を上げた気がするが気にしない。私がやらなければならないのだ。
手入れのされていないごわごわとした毛並を手早く探る。実家の犬にするのと同じような感覚だ。毛並を掻き分けて地肌を確かめる。
いた。血を吸ってむくむくと膨らんだダニだ。私の知っているそれよりも数陪はあり、小指の先ほどの大きさがある。血を吸ったためか、毒々しい赤色をしている。つまんで剥がそうとすると、指の中で潰れて、頭だけが猫の地肌に残った。
瞬間、指に痛みが走る。見れば先ほど潰したのよりもやや小さなダニが、指に噛みついていたのだ。すぐに親指でこすり合わせて潰す。今度は血が出ない。まだ血を吸っていなかったのだろう。
潰すと、またすぐに別のダニが飛んでくる。もはや講わず猫を見れば、毛並に紛れて無数のダニの足が見えた。手を伸ばすとすぐに毛の中に潜り込んで隠れてしまう。それを見るのとほぼ同時に、のたうつ猫に振り払われた。
猫は今も悶えている。手帳を開く私の傍らで、苦痛の声が聞こえてくる。
「君にまで移ったらどうするんだ!」と鳥が耳元で怒鳴る。たしかに、いくらか噛まれてしまったらしい。
腕についたダニを見つけて、親指で潰す。ダニの体液とともに血が少し出る。
それなりの大きさがあるから割と駆除しやすかった。潰すことにも抵抗はない。やらなければならないから、やるのだ。
ダニ。猫のダニ。
いつもならブラッシングと薬で駆虫していた。だけどそうだ、この世界には薬なんてない。ブラシも持っていない。ダニが脅威になることもあるのだ。
猫の体の大きさと、毛探さが、ダニと相性を悪くしている。毛の中に隠れられると手では潰せない。
猫の鳴き声が聞こえる。ダニ。なんとかしなければ。私がやらないと、ダニ。ダニ。せめて櫛でも入れられれば。
ダニ。
一計を案じる。
シャツの胸ポケットにパスケースが入ったままだった。取り出してみると、提示用の透明なプラスチックフィルムがついている。厚さ三ミリほど、割と固くてしなやかであることを確認する。
パスケースから剥がして、軽く肌をひっかいてみる。微かに湾曲するが、折れることもしなりすぎることもない。
ナイフを軽く火であぶり、プラスチックフィルムに切れ込みを入れる。横並びに、できるだけ細かい間隔で切り込むが、ナイフの刃幅のせいかなかなか上手くいかない。できるだけ刃先で線を引くように切り続け、半ばあたりでようやく様になってくる。
切れ込みを入れたフィルムで、ためしに自分の髪を撫でつけてみると、切り口が引っかかって痛い。引っかかった場所は熱したナイフを当てて溶かし、なめらかにする。
出来上がった頃には夜だった。
思いのほか夢中であったことに戦慄する。時間が過ぎていたことに気がつかなかった。
しかし、とにかく手の中に櫛がある。プラスチックフィルムにナイフで切れ込みを入れただけの単純なものだ。櫛の目は荒いが、ダニのサイズも大きいためになんとかなるだろう。
ちょうど暴れ疲れたのか、猫も大人しくなっている。うめき声は変わらず、白い毛並に随分と赤い斑が増えた。
大丈夫、私がやる。助けてやる。行く。
一晩かけて猫の毛をほぐす。
ダニは櫛にかかる傍から潰した。ときどき半透明の卵が引っかかる。全部指で際り潰す。
時々猫の地肌に食いついて、血を吸っている奴もいた。力任せに取ると頭が残るため、櫛で掬い上げるようにしてダニの顎を外す。
何度か猫が暴れたが、講わずしがみついて櫛を入れる。そのうちに私の意図を察したのか、それとも痒みが治まってきたのか、大人しくなる。
一通り櫛を入れると、逃げたダニを追ってもう一度全身を梳かす。かなりの重労働だったが、おかげでほとんど櫛にダニが引っかからなくなった。
まだ逃げ回っているダニがいるかもしれないし、見逃しがあるかもしれない。だが、おおよそは潰したと思う。あと何日か繰り返し梳かせば、ダニが大量に発生することもないだろう。おそらく。
感染症などは防ぎようもないが、こうして痒みに苦しむことは減るだろう。おそらくは。
終わった。おそらく。疲れ切って猫に背を預けると、もう振り払われたりはしなかった。耳をピクリと動かしただけだ。
疲れた。そう思いながら、やはり手帳を開いている。血を吸ったダニを潰したせいで、やはり手帳が赤く汚れる。指は粘りつき、紙を触るたびにべとりと張り付いてくる。
それなのになぜだろう。書かずにはいられないのだ。なにか感情を持て余していて、落ち着かない。
なんというのだろうか。終わったという感覚。達成感? 頑張ったことへの充足感? 担い通りに事が済んだことへの満足?
いや。
なんだろう。
私は必死になって、なにをやっているのだろう?