十五日目
霧が出る。天気は変わらず。小雨が続いている。
気温はわからない。先日以来続く熱のせいか、あまり寒さを感じなかった。額に手を当てるとかなり熱い。解熱剤と痛み止めを飲む。割とすぐに効いてきたようで、もう腕の痛みはない。
猫は相変わらず、冷え切った体で震えている。猫がこれほど水に弱いとは知らなかった。普段なら雨が降る前に、どこかのあなぐらにでも潜り込んでいるのかもしれない。私があそこで火さえつけなければ
いや。今は考えても仕方ない。とにかく火を起こさなければ。私がやらなければならないのだ
幸いにも樹下ではほとんど雨に当たらなくなった 今なら火を起こしても雨に消されることはないだろう。少し考えてから、例の救急セットの容器を取り出す。リュックに放り込んでお
いたおかげか、ほとんど濡れていない。
雨の吹き込まない、安定のいい場所に足を立てる。
またしても少し悩み、手帳を一つ取り出す。できるだけ濡れていないページを選んで容器の中へ。火をつける。弱々しい火がすぐに紙を飲み込む。明らかに燃
料不足だ。そこらの枯れ葉を捨って放り込んでみるが、燃え移らない。逆に枯葉の含んだ水気が紙に移って、呆気ないほど間単に火が消える。枯れ葉はだめだ。
燃料について考えるうちに、私が捕ってきた獣の死体に思い当たった。猫にほどほどに食い荒らされているそれを手元に奇せ、
しばし観察する。
すでに内臓や目玉、外性器などがない。
猫は柔らかい部分を優先的に食べるらしい。もともと腹部は半壊しており、残っているのは手足と背、頭
くらいだ。毛皮についた血はすでに半ば乾き、触れるとごわごわと固い手触りがある。
さらに迷ってからナイフを取り、獣の背中に突き立てる。脂が取れないかと思ったのだ。
背中の皮は固かった。苦労して切り開くと、妙な粘性の液体がどろりと染み出してくる。思わず手を止めてしまった。なんだこれは。
血ではない。どことなく透き通った色をしている。血が液体に混ざり込んで流線を描いている。生臭いにおいがするが、それがこの液体由来なのか、獣の死骸自体が持つものなのかわからない。触ると指に粘りつき、拭ってもなかなか落ちない。不快感を伴うぬめりが指先に残る。
切り口を覗き込んでみると、昨晩私がつけた傷跡が、肉を裂いて残っていた。さらによくよく見れば、このナイフ大の傷跡に先ほどの液体が詰まっていたらしい。傷跡周辺をぎゅっとつまんでみると、液体が押し流されて出てくる。
これが傷口を塞いでいた? 何度刺しても怯まなかったのはこれのせい? なんだこれ? 考えてもわからなかったため、とにかくこの液体はさておいて、背中の内を一片そぎ切った。
残念ながら、脂身などはほとんどなかった。肉の間にぽつりぽつりと白く見える程度だ。血にまみれたそれがどれほど燃えるのかわからなかったが、物は試しと容器の中に放り込み、ライターで火をつける。燃えたのは
私の手だった。熱さに悲鳴をあげる。
慌てて湿った地面に手を押し付け、炎を拭い取るようにこすり付ける。びっくりした。心底驚いた。
びっくりして心臓を押さえつつ、なにが起こったのかとびっくりして私の手を見る。
勢いよく燃えた割には私の手は無事だった。指先がじりじりと痛むてい度だ。手自体が発火したわけではないらしい。なにか、燃えやすいものが付着していた?
ここまで考えて思い至る。あの粘性の液体だ。あれが燃えたのだ。他に考えられるものがない。確認のため、容器に獣の体に残った液体を集めて満たす。それから服の裾でよくよく手を拭い、
ライターで紙に火をつけ、それを容器に投げ入れる。
燃えた。
よく燃えた。紙から液面に燃え移り、赤い炎が山脈のように連なって上がる。
これ、油だ。揮発性が高いのか? 驚くほど間単に火がつく
燃えると生臭さも緩和して、きれいに燃焼してくれた。燻っているのはむしろ着火に使った紙の方で、こちらは湿った部分がぶすぶすと黒い煙を上げていた。
樹上から時折雨のしずくが洛ちてくるが、火はびくともしない。思いがけない収穫物に声を上げ
私はふるえる猫を起こした。
現在、猫は起き上がり、火の傍で丁寧に丁寧に毛並を乾かしている。容器の中の火は小さくて、あまり順調な様子ではない。
それでも火があるだけましだ。あの獣をもう少し別けば、もっとあの夜体が出てくるかもしれない。そうすればこの雨の間も、火を絶やさずにいられる。
やった。私はやれた。なんだ や
ってみればなんとかなるではないか。
この調子でいけば、大丈夫かもしれない。まだ生きていける
安堵が全身に満ちる。表情が緩んでしまう。良かった。次は雨を防げるように、屋根のある家が欲しい 猫が水にぬれるのはもう勘弁したいのだ
あとは 定期的に火を得られるように まきや
あと
手帳が血まみれだった。
あの獣を捌いた後、そのまま筆をとって書いていたのだ。血と雨に文字がにじんで、ほとんど読み取ることができない。
先ほどまで、無意識に笑い声を上げていたらしい。起き出してきた鳥に、不気味そうに指摘された。笑っていた記憶が全くない。火をつけた記憶だけはあるが、あまりしっかりと覚えていない。
熱がひどいので、猫同様に火の横でうずくまる。横になれる場所はない。食欲もない。だけど何か書かなければ落ち着かない。吐き気と嫌悪に塗れて、息ができなくなるのだ。
なんだか泣けてくる。
私はここで、未開の原人と、鳥と、なにをやっているのだろう?
屋根なんて当たり前のようにあって、火はコンロを回せばつくものではないのか?
なんでこんな小さな火をありがたがらなければならない?
どうして雨で死にかけなければならない? 私はなんでこんな目に遭っている?
やらなければいけないって、なにを?
私がなにをしなければならないというのか?
私はここ数日、気を張り詰めて頑張った。猫のために痛い目を見て、気色悪い生き物を殺して、捌いて。
そうして頑張れば頑張るほどに、泣けてくるのだ。
こんな努力、今までの私に不要な努力、なぜしなければならないのか。この世界で、死ぬまで続けなければならないのか。
泣いても変わらず、明日もまた同じ日が来る。
血まみれで泥まみれで、汚れて這いつくばって生にしがみつくような、家畜にも劣る明日が来る。
それでなぜ、私は生きているのだろう?