十四日目
※グロテスクな表現あり
あ。
あああいうえお。
文字は書ける。落ち着け。気を落ち着けて書き記す。
猫が動けない現状、なにがあっても私がやらなければならないのだ。私が。
大丈夫、今回以上のことはもう起きない。この雨は乗り切れる。私が頑張れば。
私が。私は倒れない。
とりあえず、今日の出来事を冷静になって、できるだけ詳細に思い出す。
腕の肉を食いちぎられる。
現在は鳥に傷をふさいでもらった。痛みは引かず、筆を持つ手が震える。痛み止めを飲んだがどれほど効くだろうか?
猫は相変わらず震えている。鳥は現在、疲れた様子で眠っている。起きていられるのは私だけだ。
大丈夫。私は。いや、今は私の感情ではなく、出来事を記しているのだ。
この森は危険だ。ただ、野生生物の危険にさらされるだけではない。
私を襲ったのは化け物だ。あれは紛れもなく化け物だった。
事の起こりは昨晩。そう、昨晩だ。
猫を置いていくことに抵抗はあったが、今さら言っても仕方がないので置いておく。とにかく私は夜のうちに、鳥とともに出立した。
念のため、無線機がリュックの横にあるのを確認する。ナイフは手に持ち、お守り代わりに握りしめた。こんなもので、なにができるとも思えないが。
鳥はリュックの中に潜り込んでいた。リュックの口を半分開け、ときどき顔を出して道案内をする。リュックはさすがの頑丈さで、水をはじいてくれているらしい。
森は静けさに満ちていた。雨の中で動き回る生き物は少ないらしい。草むらに足を踏み入れると、ときどき見慣れない小さな獣や爬虫類が逃げていく程度だ。
夜であっても雨であっても、鳥は奇妙なほどに道を迷わなかった。目印のないような森で、どうやって判断しているのかと尋ねると、鳥は首を傾げた。
「なんとなく感じるんだ。僕の意識の欠片が、森中に広がっている感じ……わかる?」
否定する。想像もつかなかった。
「実は僕もよくわからない。君らで言うところの気配ってやつに似ているのかも? それが、すごく広く感じられるんだ」
理解しがたいことだが、それが精霊の力とでも言うのかもしれない。おかげで森を歩いていられるのだ。感謝する他にない。
時刻は一時を回っていた。私は最初に猫と出会った場所に辿り着く。
二日程度寝て過ごした場所を覚えていられるはずもなく、鳥に「ここだ」と言われた時もすぐにはわからなかった。
よくよく見れば、不自然に枯葉が集まった場所が木の根の間にあった。ちょうど猫が一匹分収まる大きさだ。
ならばここが寝床なのか。たしか、近くの木の下にあの獲物を隠していたはずだ。そう思って懐中電灯で周囲を照らした時だった。
藪が揺れる。獣の足音がする。
ぎくりとして、音に明かりを向ける。
背の低い藪から出てきたのは、やぶと同じくらい背の低い獣だった。
中型犬くらいの大きさで、強いて言うなら狸に似ているだろうか。胴が長く、足が短く、尾が太い。どことなく愛嬌のある姿だが、毛を逆立てた姿と唸り声から、明らかに警戒されているとわかった。
追い払おうと近づいて、私はその獣の異常に気づいた。
胴体の半分がない。
正面からは死角になっていてよく見えなかったが、獣の腹から下が大きく抉られ、骨が見えているのだ。まるで食いちぎられたような形で、獣の毛皮が腹のあたりでだらりと垂れさがっている。
骨には薄い皮が張ってあった。食いちぎられた後に張り付けたようなその皮は、ぐずぐずに崩れかけた内臓を内側に収め、奇妙なふくらみを作っている。内臓は今も動き続けているようで、脈動する姿が見えた。
薄い皮の表面には、鮮やかな赤色をした血管が、一筋二筋走っていた。それは抉れた下半身を経由して、肉付いた足に流れ込む。例えるなら……例えようもなく化け物だった。
化け物は私に向けて牙を剥き、喉から甲高い鳴き声を上げた。声の振動で、腹でふくらむ臓物が揺れた。
「魔物だ!」
鳥が叫んだ。怯えているようだった。魔物?
疑問に思う間もなく、化け物が飛びかかってきた。
避けることはできなかった。右の腕に食いつかれ、鋭い牙が肉に食い込んだ。
右手に持っていたナイフが落ちる。痛みが熱のように広がる。頭が真っ白になる。
反射的に無線機へと手を伸ばしていた。左手で不器用に通信を開始、ボリュームを最大に。いつか、獣に襲われかけた時のことを思い返していたのだろう。
頭が割れるようなエラー音が鳴り響く。が、状況はなにも変わらなかった。音が聞こえないのか?
獣は私の腕に爪を立て、食いちぎろうと頭を振る。抉られるような痛み、ではなく抉られていたのだ。
骨から肉を剥がされるような、今まで感じたことのない感覚に戦慄する。
それからは無我夢中だった。獣を振り落とそうと落ちていたナイフを拾い、左手で握りしめる。と、獣の背中に突き立てた。獣はびくともしない。何度も刺しても同様だった。ナイフに血はこびりついても、私に噛みつく力は衰えない。
膝で獣の腹を蹴る。薄い皮が破れて、水風船のように内臓と血が弾けた。ジーンズが血に染まる。この間、私はずっと悲鳴を上げていたように思う。
「頭だ!」
リュックの中から鳥が叫んだ。
「頭を壊すんだ! 魔物はそれでしか死なない!」
自分自身の悲鳴とけたたましいエラー音の中で、よく聞き取れたものだと思う。
私は鳥の言葉に、これもまた無意識に従った。ナイフを獣の耳に向けて振り下ろし、固い、おそらくは骨であろう抵抗も構わずに貫いた。
ナイフの刃が見えなくなると、獣が痙攣し始めた。私は獣に刺したまま柄を持ち直し、ぐるりと回転させる。ねっとりとした抵抗が手に伝わる。
ナイフを引き抜くと同時に、獣が弛緩した。剥き出しの内臓が動きを止めていた。重力に従って血が流れおち、垂れ下がった短い脚を伝って地面を濡らす。牙は私に食い込んだままだ。
恐る恐る獣の口を掴んで引き抜くと、私の腕から血が噴き出した。無我夢中で忘れていたが、焼けるような痛みがよみがえってくる。
そのまま、私は地面に倒れ込んだ。鳥がリュックから飛び出してくる。もはや何も言わずに私の腕の前に降りると、じっと傷口を見つめた。
荒い息を吐き、恐怖と困惑に思考が定まらないうちに、鳥は私の傷を塞いでいた。塞いだ後は魂が抜けたように、ころりと倒れる。
それを見て、やっと意識を取り戻す。地面に崩れ落ちた鳥に手を伸ばすと、痛みが痺れとなって走る。破れかけ、血に染まった袖の下を見やれば、傷を薄皮が塞いでいた。塞がれたばかりの傷跡は赤く、生々しい肉の色をしている。
鳥を手のひらに乗せると、かすかな脈動が感じられた。雨から守るように両手で鳥の体を覆い、私は少しの間、以前の寝床に座り込んだ。
気絶していたのかもしれない。二時ごろに痛みで目を覚ます。どうやら手の中の鳥が動き出したおかげで、腕の傷に振動が伝わったようだ。
「大丈夫?」
私は重いまぶたで瞬きをし、うなずき返した。だが、大丈夫だとは思えなかった。
鳥の調子も良くないらしい。羽ばたきを忘れて大人しくしていたため、リュックの中に入れてやる。傷を治すことは簡単でないと鳥が言っていたが、思った以上に負担がかかっているらしい。
荒い呼吸を繰り返し、私は立ち上がった。せっかく鳥が治してくれたのだ。私まで倒れるわけにはいかない。
やらなければならないことがあるのだ。猫のために、食べ物を探さなければ。猫と鳥の事を思い浮かべると、かすかな気力が湧く。
脂汗をぬぐい、今度こそ周囲の木の根元を探す。が、あの獲物は見つからない。いくつもの木の下を掘り返して、ようやく痕跡だけを見つけ出す。
私が見たのは、他の獣に食い荒らされたらしい、わずかばかりの骨と皮の残りだった。
この時の失望は計り知れない。
帰ろう、と力なく口にする私を、同様に力ない声で鳥が引き留める。
「魔物の死体を持って帰ろう」
食べられるのか? 食べても大丈夫なものなのだろうか?
「あの子たちにとっては、とんでもないごちそうのはずだよ」
私はその獣の死体を持って帰ることにした。
食べられるならそれに越したことはない。気持ち悪いという感情は、今更すぎた。食べられるのなら、持って帰らなければ。やらなければならない。
すでに動かなくなった冷たい体は、なにか恐ろしいものがあった。相手が獣であっても化け物であっても変わらない、死に対する純粋な恐怖のせいだろう。
恐怖と痛みを抱えつつ、できるだけ無心に猫の元へと向かう。
同じ道を辿り、無事に帰りついたのが十時ごろ。随分と時間がかかってしまっていたらしい。
猫は出て行った時と変わらず、丸くなって震えていた。私たちの帰宅に耳を動かし、弱々しい鳴き声を上げる。
獲物を捕ってきた。食べろと差し出すと、やはり弱々しく手を伸ばしてくる。食欲はあるらしい。安心する。化け物の肉ではあるが、猫は構わずに食らいついていた。
持ってきてよかった。奇妙な達成感があった。私にできることがあるという、自信とでも言うべきだろうか。
猫の食事を見ながら、魔物とはなにかを少し考えたが、想像はつかなかった。そう言う生き物なのだろうか?
鳥の回復を待って、いずれ聞いてみなければならないだろう。森の危険は早くに知っておくべきだ。私が対処しなければ。
現在、猫は食事を終え、毛づくろいもしないまま寝袋にくるまっている。私はその横で、雨が止むのを待ちながら手記を記している。
雨の勢いはだいぶ弱まり、木の下にいると少しはしのげるようになった。ときおりぽつりぽつりと滴が伝う程度だろうか。寝袋が雨を弾いてくれるらしく、猫の震えも少しはましになったようだ。
猫がこの調子だ。熱も痛みも大したことではない。傷はもうふさがっているのだ
私がやらなければ。倒れるわけにはいかない。化け物でもなんでも、やらなければ。私が。やらないと。
先ほど飲んだ痛み止めが効いてきたのか、書いているうちに痛みが引く。代わりに痺れを感じるようになったので、ここで今日は筆を置く。
明日には雨が止んでいるように祈る。
大丈夫。きっと大丈夫。なにかあっても、私が動ける。