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十三日目

 今日はひどい日だ。現在は川辺を離れ、枝葉の層が厚い森の奥まで来ている。

 できる限り雨のしのげる場所を探したが、どこもそう変わり無いように思えた。木々の下でも枝を伝い、雨のしずくがとめどなく流れる。地面も水を含み、ライターの火など寄せ付けない。

 猫は私が考えている以上に水に弱かったらしい。さきほどからずっと、震えて丸くなったままだ。にゃあとも鳴かない。困ったことになった。

 風は冷たく、昨日から続いていた寒さが増す。濡れた体には辛い気候で、暖を取るために猫と体を寄せる他にない。今はただ雨が止むのを待ちながら、手帳に滲んだ文字を書いている。


 雨。そう、雨だ。朝から順に追って書く。




 まずは朝。雨のしずくで目覚める。時計を見れば午前五時。朝の雨はひどく冷たい。

 体調は相変わらずだった。熱が下がっている気配はない。喉の渇きは幾分かましになっていたので、少しずつでも回復してはいるのだろう。

 寝袋を這い出ると猫がいないことに気づいた。川辺の木々は森に比べてまばらで、風にあおられて吹き込む雨は防ぎようもない。けっこうひどい雨だ、と気がついたあたりで、鳥が飛び込んでくる。

「きて! こっちきて!」

 焦った声に急かされてわけもわからないまま立ち上がると、少し離れた場所で猫の声がした。にゃあにゃあと甲高い声で叫んでいる。

 寝袋をリュックに仕舞い込むと、声を追って寝床を発つ。


 川辺で猫の姿を見かけた。焚火の火が煤を上げて消えようとしているところだった。猫は体でその火をかばい、雨から守ろうとしている。

 傍から見ても無謀なことは明らかだった。川の水が増水し始めている。川辺をじりじりと浸食し、火の手前まで水が来ていた。

 私と鳥は急いで猫の元へ駆け寄る。手を引いたり耳をつついたり、なんとか動かそうとするが、猫はてこでも動きそうになかった。「火を守るのが使命だ」と言っていたらしい。

 雨の中でしばらく、説得やら強制的な移動を促すうちに、雨脚は強くなり、川の水も増す。足元を水が侵食し始めると、もはやどうすることもできずに、九日目から燃え続けていた焚火がじわりと消える。

 火が消えた瞬間、猫が膝をついて平伏した。頭としっぽを地面に押し付け、せわしなく鳴き声を上げる。「神への謝罪だ」と鳥が言った。「火は神の化身なんだ」

 猫人間の宗教観はわからないが、信仰心の強さは思った以上に厄介だ。雨は激しさを増し、それに伴い川の勢いも増していく。吹き降りの雨は今や痛いくらいで、私や猫を打ち付けた。鳥は私のシャツの中へ逃げ込む。

 結局、猫を説得できたのは、足がくるぶしまで水につかるころだった。

 ひとしきり神への言葉を並べ終えたところで、私や鳥の存在に意識が向いたようだ。「逃げよう、逃げよう!」と叫ぶ鳥の声に、猫の耳がピクリと動く。

 猫は膝をついたまま顔を上げ、私と鳥を見た。それからすでに水に流され、跡形もない焚火跡を見てからようやく立ち上がる。

 すでに私も猫もびしょ濡れだった。特に猫はひどい。増水した川原に平伏していたのだ。白い毛並が水を含んで、暗く重たい色に変わっていた。

 いまだためらいがちな猫の手を引っ張って、寝床へ駆け戻る。この時にはすでに、正午を過ぎていたはずだ。雨の勢いは衰えず、川幅が周囲を侵食してどんどん広がる。寝床に辿りついたときには、そこも浸水しかけていた。

 水にぬれる前にリュックを拾い上げる。転がったままのボトルを手に持った時、川から轟音が響いた。

 鉄砲水だった。濁流が倒木を巻き込み、音を立てて流れ落ちる。一気に増水した水が、寝床になだれ込んできた。

 まごつく猫を追い立て、私たちは川から森の奥へと逃げた。


 森はどこもそう変わりのない有り様だった。洞穴や、木のうろのようなものでもいいからないかと探していたが、もちろん都合よく見つかりはしない。

 比較的葉のつきがよい、大きめの木の下に潜り込み雨をしのぐことにする。


 雨はやむ気配がなかった。大樹の下でも他より幾分かまし、という程度で、すっかり濡れきってしまった体には辛い。特に猫はまずかった。

 はじめこそいつも同様に振る舞っていたが、時間がたつにつれ猫が震えはじめる。心配して声をかけると「大丈夫」と鳥越しの言葉が返ってくるが、尻尾の震えが隠しきれていない。次第に猫は立っていられなくなり、地面にうずくまり、そしていつしか木の幹に体を寄せて丸くなった。声をかけても、もう弱々しく鳴くだけだった。

 丸まった猫の背中に手を当てると、驚くほど冷たい。体毛に染み込んだ水が猫の体温を奪ったのだ。

 大丈夫なのか、雨のたびにこうなのか? 鳥に問うと、否定が返ってくる。

「川に入ったのがまずかったね」

 鳥は私のシャツから顔を出し、身震いをした。

「多少の雨なら毛が水を弾くから平気なんだけど。いつまで降るかなあ……」


 夜になっても雨は降りやまない。勢いこそは緩んだが、雨が長引きそうな霧を伴い始めた。気温は下がり続け、猫の体温もまた下がっている。火をつけようとも試みたが、ライターの火を受け付けるような乾いた枝葉なんてどこにもなかった。

 現在、夜の七時過ぎ。雨の森には獣の鳴き声も聞こえない。静まり返った中で、猫と冷たい体を寄せている。私の方も熱がぶり返してきたようだ。



 猫が空腹を訴えたために食事にする。持っているのは私の缶詰だけだ。いざという時のために取っておこうと思ったのだが、そのいざという時がおそらく今だ。

 そう信じて缶を抉じ開ける。中は豚肉を醤油で煮しめたものだった。一缶を三人(匹?)で分けても腹の足しにはならない。もう一つ開けるべきだろうか? いや、この雨がいつまで続くかわからない。食べきってしまっていいのか?

 悩んでいる間にも雨は降る。猫は震えて泣くように鳴く。もはや顔さえも上げず、鳴き声は無意識のうめき声に似ていた。

 鳥が私に、その鳴き声に含まれた感情を教えてくれる。

「寒い、疲れた、ひもじい、だって」

 猫は身じろぎもしない。低い鳴き声だけが、喉から漏れて出ているらしい。起きているのか寝ているのかさえわからなかった。

「君が倒れてから、この子はほとんどなにも食べてないから。ずっと走り回ってたし、それでこの雨は、辛いかもなあ……」

 雨は夜の間も止みそうにない。少しでも雨がしのげるように、猫に寝袋を広げてかぶせてやるが、体毛に染み込んだ水気はどうしようもない。相変わらず小刻みに震え続けている。

 どうしたものか。

 雨を止ませることはできないが、食べ物。食べ物か。




 かなり悩んだが、やはり行くことにした。

 未だためらう気持ちを払うために、ここに決意を記しておく。


 猫の現状は私が原因だろう。

 私が川の水を飲んだばかりに、水を探して駆け回った。私が川辺に火をつけたばかりに、夜も起きて焚火を守り続けた。そもそも私が川についていくと言わなければ、川の増水に巻き込まれもしなかっただろうか?

 私がいなければ、おそらく猫は問題なく雨をやり過ごせたのだろう。責任を感じているのだ。


 私は雨を止ませることも、猫の疲労をとることもできない。だから食料だ。

 猫が以前に仕留めて、土に埋めたあの獲物。まだ残っているかもしれない。

 鳥に道案内を頼み、今から取りに行く。

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