十二日目
曇天。どうにも空模様があやしい。薄い雲が空全体を覆い、太陽の光を隠している。
体調は相変わらず良いとは言えない。熱が高く、頭がぼんやりとする。喉も乾いたままだった。
だが、昨日よりも回復しているのは明らかだった。一人で立ち上がり、歩けるようになる。
腹具合も不調が続いている。嘔吐はしなくなったが、下痢は継続中。喉の渇きの原因はこれだろうか。脱水症状を起こしかけているのかもしれない。
水を飲みたいがボトルはすでに空になっている。そのため、焚火で川の水を煮沸し、飲み水とすることにした。
川辺の焚火は少し小さくなっていた。ので、燃料を投下する。
燃料は、私が呻いていた寝床の枯れ葉だ。あまり詳細は記すまいと思うが、ひどい有様だった。粗相に立つ、ということができなかったため、すべて寝床に垂れ流しだったのだ。
服も同様。胃酸と便のにおいで吐き気がする。猫はよく同じ寝床で寝ていられたものだ。彼の親切さゆえと感謝するが、同時に衛生観念のなさも思い知る。
あの寝床で寝起きして、体の汚れを舐めて拭う。腹の強さも違うわけだ。猫と同じものを食べるときは気をつけよう。
天気の割に、寝床の吐瀉物その他はすっかり乾いていた。火に入れるとよく燃える。
普通の枯れ葉よりも火持ちがいいらしく、寝床の枯れ葉を定期的にくべ続ければ今日一日くらいは持ちそうだった。どこか鼻につく煙を上げながら、暗い空に向かって火が昇る。
猫は川へ入り、今日も魚を探していた。横で私は、元救急セットの容器に水を汲み、足を開いて火にくべる。
この容器、鉄製なのはいいのだが、掴む部分がないので苦労した。軍手があれば容器の縁でも鉄製の足でもつかめるのだろうが、今はそんなものはない。太めの木の枝を二本使って、底をバランスよく持ち上げることによって、火から上げ下げする。
水を沸騰させ、少し冷ましてから猫の持ってきてくれたペットボトルに移す。移し終えたら川で水を汲み、再び火にかける。それを延々と繰り返す。
もともと使っていたボトルは一度川の水を入れてしまったため、飲料用には使えない。ペンでキャップにバツを書いておいた。
容器からボトルに移すと、おおよそ三分の一程度の量になる。
ボトルに一本分溜まったところで、鳥が飛んできた。私の頭にとまり、つついてくる。
「なにしてるの?」
「消毒だよ」
そう言いつつ、私は溜まったばかりのボトルの水で軽く口をゆすぐ。川原の石に恥じらいもなく吐き出すと、ずっと口に残っていた酸っぱさが薄れる。ついでに軽く手を洗い流し、目元も拭う。
今の自分の姿を見たくない。出すものを出してそのままなので、ひどい姿だろう。いずれ服を洗わなければと思うのだが、川の水を使うことにためらいを覚える。着替えもなく、熱も寒気も続く現状、川風に吹かれたまま服を洗うメリットはあるだろうか? 自身の異臭に鼻を曲げつつ、今日は何度となく自問した。
しかし結局は一日が終わるまで同じ服を着ていた。天気の良い日に服を洗おう。猫と違って毛皮のない私には、裸で過ごすには少し厳しい気候だった。
口をゆすいだ後は、そのままぬるい水を飲んだ。
きっと今度は大丈夫。と、信じるしかない。沸騰させても飲めない水なら、もう飲んで死ぬのを待つしか道はないだろう。
「消毒? なにそれ?」
鳥が私の額辺りに身を乗り出し、沸き立つ水を眺めた。容器の壁面を中心に、小さな気泡がぽこぽこと浮かび上がる。
「お湯にして、雑菌や虫の卵を殺すんだよ。そのまま飲むと、私はお腹を壊すから」
「なにそれ?」
鳥は首を傾げる。どうやら、雑菌がわからないらしい。そうか、この世界にはまだ菌というものの概念がない。
説明するのは骨が折れた。言葉を変え言い方を変え、以下の言い分でようやくなんとなく理解してもらう。
菌とは「目に見えないほど小さな生き物で、他の生き物の体を借りて増殖するもの」だ。茸はどうだの粘菌はどうだのと言われると反論の余地もないが、そこまで説明していると日が暮れる。
おおよそ、私にとって都合の悪い雑菌に、ウイルスもまとめて菌と教える。
「ふうん」と鳥はどこか低い声色で言った。
「それ、生き物なのかな。なんかやだなあ」
「いや?」
「他の生き物に寄生して生きているんでしょ? 自分だけじゃ生きられないものは、なんかなあ」
「精霊なのに、生き物を差別するんだ?」
私が言うと、鳥は鼻白んだようにそっぽを向いた。乗り出していた身をひっこめると、頭の上に座り込んだらしい。頭のてっぺんに柔らかい感触が広がる。
「僕だって好き嫌いはあるよ。神様じゃないんだからね」
鳥が精霊を名乗る割に俗っぽいことは、数日の暮らしの内で知っていた。ふてくされた声を聞き流しつつ、湯を火から離して冷ます。ときおり川上から吹く風が冷たい。
粗熱の取れた湯をボトルに移す際、ふと鳥に声をかける。
傷が治せるのなら、もしかして今回の腹痛も鳥の力で治せたのでは?
そう尋ねた私に対する、鳥の答えは「ノー」だった。病気は治せない。「僕にもできることとできないことがある」らしい。
「僕は万能じゃない。知らないこともあるし、失敗だってする。なんでも精霊ができると思わないでほしいね」
「うん」
「……がっかりした? 役に立たない精霊だって思った?」
私の何気ない返事に、鳥は急に不安になった様子でそんなことを言ってきた。そんなことはない、と言うが、あまり信じてはいないらしい。
「君が倒れているときにも、走り回ったのはあの子だ。僕は道案内くらいしかできないし、君が苦しんでいるのも見てるだけだったし。僕にできることはあんまりないんだ…………ごめんね」
鳥は神妙に謝罪した。自信のない声が妙に気にかかる。なにか、私の知らないところであったのだろうか。それとも私と出会う前に?
この時は、慰めのつもりで飴を取出し、砕いて欠片を差し出した。「お礼だよ」と言うとおずおずと頭から降りてきて、手のひらの欠片をついばむ。
「君はいい人間だね」
飴をつつきながら、鳥がぽつりと言った。
猫が拾ってきたボトル二本、両方ともに煮沸した水が満ちたあたりで、猫が戻ってきた。体を震わせて水を払う。尻尾が固くこわばっていて寒々しい。耳はしょげていた。
あまり釣果は良くなかったらしい。二匹捕ってきたうちの、二匹とも寄こそうとしたので、あわてて固辞する。
にゃあにゃあ鳴くので鳥に通訳してもらったところ、「病み上がりだからこそ食べなければならない」「精霊の連れてきた生き物を死なせるわけにはいかない」と猫は主張していた。
猫の第一義は精霊だ。鳥はああ言ったが、やはり私は精霊である鳥に生かされているのだと実感する。
あまり食欲がないことを理由に、結局一匹だけ分けてもらう。食欲がなかったのは事実だが、どうしても受け取りにくいと思ってしまうのは性格ゆえだろう。
魚は先日のように水で煮詰めて、飲み込むようにして食べる。ここしばらく流動食しか口にしていない。歯は大丈夫だろうか。
食後、猫は焼けるほどに火に近づいて、丁寧に毛並を乾かす。
だが天気のせいか、なかなか毛が乾かずに苦労しているらしい。「にゃあ」と弱気に鳴いていた。
水が苦手と言うのは本当のようだ。こんな日にも潜ってくれたのだと思うと、申し訳なさで埋もれそうになる。
先日のこととあわせて、なにかお礼がしたい。猫にそう言う。なにか、欲しいものでもあるだろうか?
と言っても、私に渡せるものなど何もない。 金なんてこの世界で価値がないだろうし、労働力としても明らかに劣っている。せいぜい……缶詰くらいだろうか? 猫が喜びそうなものは。もしも要求されたら、差し出していただろう。
だが、猫は構わないと言った。猫の鳴き声を鳥が通訳する。
「勝手だとは思ったけど、透明な器を一つ使わせてもらった。精霊の大切な道具であるのに申し訳ない。謝礼どころか、こちらが詫びて罰を受けるべきだ。だって」
透明な器とは、ペットボトルのことだ。猫がすぐに寝床に戻り、ボトルを抱えて戻ってくる。
緑色をした、粘性の液体が入っていた。
キャップには、引っ掻いたようなあとが残っていた。
ふたの開け方がわからなかったらしい。何度か試みているうちに、偶然のように開いた。あとは私の動作を思い返して、回転させることを学んだのだとか。賢い猫だ。
それで中に詰め込んだのがあれだ。手で掬って、細い口に懸命に押し込んだらしい。それを持ち帰り、私の意識がもうろうとしているうちに、何度か定期的に与えていた、と。
猫が不器用にふたを開けて見せる。生臭さは健在で、ボトルの口から強烈に漂ってきた。
書いていて吐き気がしてきた。
しかし吐き気はすれども、あれのおかげで助かったのは間違いないだろう。私が意識を取り戻すまでに、口にしたのはあれだけなのだ。
生きていてよかったとは、本心から思う。私は幸運だった。
体液入りボトルは猫にあげた。喜んでいた。
夜。すっかり忘れられていた寝袋を引っ張り出してみる。
中に入ると思いのほか快適で驚いた。枯れ葉と違ってちくちくとしたかゆみはないし、熱がこもる仕組みになっていて温かい。欠点はなにかあった時に動きにくいことくらいだろうか。
久しぶりに文明の力を目の当たりにした。ありがたさに泣けてくる。ここ数日でどれだけ泣いただろうか。
ミノムシ状の私に、猫は驚いていた。しばらく警戒するように尻尾を揺らし、あたりをうろうろしていたが、結局寄ってきて丸くなった。
猫は寝ている。
鳥も寝ている。
この間から、どうにも鳥の言葉に引っかかるところがあるが、上手く頭が働かない。今はとにかく安静にして、体調を回復させよう。頭を動かすだけの体力を取り戻さなくては。
考えるのはその後にする。