表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/64

八日目(後半)

 文明とはなんだったのか。社会とはなんだったのか。

 死にたての新鮮な肉を見ながら、私は自問した。

 原始人でももう少し文化的な暮らしをしていただろうに。血にまみれた猫人間は、ただの野生動物のようにしか見えない。


 私は首を振り、リュックを抱えて後ずさった。太い木の幹に背を預けると、それ以上逃げようもない。抜けた腰は未だ戻らない。

「食べないの?」

 鳥が尋ねる。猫人間がちらりと顔を上げ、窺うように見ている。しかし無理なものは無理だ。私は半泣きだった。

「あんなもの食べられない……」

 すすり泣いてそう答えると、鳥がそのまま猫人間に伝える。

「あんなもの食べられないって」

 私の耳には同じ言葉を繰り返したようにしか聞こえないが、猫人間は理解したというように頷いた。そしてまた、鳥に向かって鳴いてみせる。

「精霊からの恵みだって。獲物のない日の方が多いのに、今日はすぐに捕まえられた。きっと君が現れたから、精霊が祝福して与えてくれたんだろう、って。だから食べないのは許さないって」

「許さないって……」

 見れば猫人間が睨んでいる。白い毛並が血にまみれ、総毛立つような凄味だった。捕食される側であるという感覚に、心臓が縮み上がる。


 この生肉を食べなければ、私が肉になるのだろうか。そう思った。

 やはり私はこの世界で死んでしまうのか。あの鳥野郎、助けてあげようかなんて嘘っぱちか。などと思いつつ、泣きながら拒み続けてしばらく。

 ようやく猫人間は私に生肉を食べさせようとすることをやめた。

 彼は明らかに不愉快そうに食事を終えると、まだ半ば肉が残るそれを適当な木の根元に埋める。その後、上から近くの落ち葉を集めてかぶせた。息詰まりそうな血のにおいが幾分か和らいだようだ。

 それから寝床へ戻ってきて、尻尾を苛立たしげに揺らしたまま毛づくろいを始めた。まずは手を舐め、腕を舐め、その手で体を拭ってはまた舐める。猫だ。到底、文明人とは思えなかった。

 この間、私の腰はようやく立つようになった。おかげで寝床を逃げ、猫の返り血を避けることができる。

 寝床から少し離れて、私は黙って猫人間を観察した。手は人間よりも不器用そうに見える。手の甲は滑らかな毛並が揃っているが、手のひらはやや薄く、指のあたりにはほとんど毛が生えていない。

 手で物を掴むための進化だろう。とは思うものの、見たところ猫人間に物を掴むメリットはあまりなさそうだ。石槍やら弓矢らよりもよほど強力な、牙と爪がある。

 しばらく見ているうちに、猫人間はあくびをして横になった。相変わらず尻尾は揺れているが、耳が垂れて呼吸が緩やかになる。


 眠ってしまったらしいと判断して、私は鳥に声をかけた。ほぼ文句であった。

「文明も社会も持っていないように見えます」

「そう?」

 猫の耳の傍にとまっていた鳥が答える。

「あれじゃあまるっきり野生動物だ。私は生肉なんて食べられない」

 涙ながらに訴える私に、鳥は羽をすくめた。このしぐさ、私の世界と同じ意味を持っているのだろうか。それとも他の意図があるのか。

「集落にでもいけば、もう少し君に近い生活をしているかもしれない。でも今は、この子ひとりだからなあ」

「集落? あるの?」

 驚いて聞き返すと、鳥は頷いた。

「あるある。いや、あった。この子ももとはそこの集落にいたんだよ。今はばらばらになっちゃったけど」

「……なんで?」

「争いに負けたんだよ。僕ももともと、その集落でまつられていたんだけどね……」

 猫の耳を甘噛みし、鳥は少し沈んだ声で言った。ふうん、とそれ以上のことは言えない。

 争いという言葉に、自分の世界のことを思い出してしまったのだ。

 鳥のついばみに耳をぴくりと揺らす猫人間を見る。彼はどれほどひとりでこの森にいたのだろうか。



 しばらく手記を書いて過ごしていたが、日が暮れはじめても猫人間は目覚めない。私は目を閉じたままの猫人間を一瞥すると、リュックを開いた。中から缶詰を取り出す。

 食事にしようと思ったのだ。思えば丸一日飲まず食わずで寝た挙句、朝は乾パンを半分しか食べていない。そのくせ昼の猫人間の食事で食欲をなくした結果、空腹に気が付いたのがこの時間だった。


 缶切りでふたを開ける。中は醤油と砂糖で味付けされたニシンの甘露煮だった。乾パンよりは食べやすいと思いつつ、舐めるようにちびりちびりと食べていると、ふと背後に何かの気配がする。

 振り返って目を見開く。寝ていたはずの猫人間だ。

 ぎょっと驚く私には目もくれず、鼻を動かしながら猫人間は近づいてきた。それから私の持っていた缶詰を見やる。

 にゃあにゃあ、と猫人間は缶詰を指さしながら鳴いた。どこに行ったのか鳥の姿はなく、言葉がわからない。

 首を傾げていると、言い方を変えるように、猫人間は「ふにゃあ」とか「むー」とか鳴く。視線は缶詰の中身に向けられたままだ。

 もしやと思って、私はスプーンに切り身を一切れ乗せ、猫に差し出した。彼はスプーンに顔を近づけ、しばらく鼻を動かしてにおいを嗅ぐ。

 それからおずおずと――今まで見た中で一番慎重そうな顔つきで手を伸ばした。

 指でつかみ、手のひらに乗せると、猫はまず舌先で舐めた。そこからが劇的だった。

 にゃっ、と甲高い声を上げると、猫は尻尾をぴんと立てた。切り身に歯を立て、一息に飲み込む。ほとんど咀嚼しないままに腹におさめると、口の周りを舌で舐める。手のひらも名残惜しそうに舐めてから、私に向き直った。

 興奮した様子で缶詰を指さし、何度も何度も鳴く。顔つきは険しく、鼻の頭に皺が寄っている。

 威嚇に似た声を受け、私はすっかり萎縮してしまった。貴重な食料だとは知りつつも、缶詰ごと震える手で猫に差し出す。缶詰を突きつけられて、むしろ猫自身がぎょっとしたように見えた。

 猫は両手で缶詰を受け取り、その表面を舌で舐める。

「あ、切り口が危ないので……」

 などと言ったときにはもう遅い。軽く舌の表面ひっかいたのか、慌てて顔を上げて弱々しく鳴いた。恨みがましい目を私に向ける。いや悪かった。多少の罪悪感はある。

「スプーンを使って、ええっと」

 仕方なく猫に近づき、私はスプーンで切り身を取り出した。それを猫に近づけると、私を窺い見てから、また指先でつまんで手のひらに乗せる。効率の悪い食べ方だなあ、と思いながら、さらにもう一つすくい出す。これで最後だ。あとは汁気が残っている程度である。

 猫が最後の一つまで食べきると、もうないということを示すために缶詰の中身を見せた。猫はそれを覗き込み、おもむろに指を突っ込んできた。ギャッと鳴いてすぐさま指をひっこめたあたり、おそらくまた缶の切り口に引っかかったのだろう。次からは口に触らないように、慎重に手を伸ばす。

 缶詰に突っ込んだ指で、猫は残った汁気をふき取る。それを舐めて、また指を入る。同じ動作を、中身が完全になくなるまで猫は繰り返した。


 食べ終わるころには、日が暮れていた。結局私の食事はなんだったのだろう。猫だけがうれしそうににゃあにゃあにゃあにゃあと鳴いている。

 肉の時に見せた敵意は随分と和らいでいるようだった。これだけはありがたい。

「すごく美味しかったって」

 頭上に声が降ってきて、空を見上げた。半分の月を背にして、鳥の影が落ちてくる。と思うと、そのまま私の顔に飛びついた。突然の感触に「うええ」と声を上げる。鳥くさい。

「これはまさしく精霊がもたらしたものだ。こんな味を知っているのならば、あの獲物に口をつけなかったのも頷ける。非礼を詫びよう……だって」

「あ、う……うん。いや別にいいけど……」

 鳥に対し、私は曖昧に頷く。頭では、そんなに美味しいものだろうかと思っていた。

 缶詰など冷たく味気ないものだという印象しかない。いかにも大量生産、といった感じの味だ。せめてレンジで温められれば少しは変わるのだが、そんなものは望むべくもない。

 それでも、やはり生肉に比べたら味がいいのは確かだろう。味がいいと言うよりも、比較すること自体が間違っている気さえする。缶詰は人間の食べ物であり、生肉は調理前だ。

 犬の餌付けみたいだ、とふと思う。

 塩分の濃い餌を、実家の犬が好んで食べることを思い出したのだ。本当は塩分の取りすぎは良くないのだが、飼いはじめた当初は懐かせるために犬の喜ぶ濃い味の餌をやっていた。おかげでなかなか薄味に慣れてくれなかったのも、今は懐かしい思い出である。


 さらに猫は鳥に鳴きかける。私の顔から追い払われた鳥は、今度は猫の頭の上で羽を休めていた。

「だけど、この味に敵うものを自分は差し出せない、だって」

 まあ、生の肉を食べるようではそうだろう。

「できる限り期待に添えるものを差し出すようにしたい。今食べたのは魚の一種だろうか? 次は川で魚を取って来よう……ふーん、そんな美味しいもの食べてたんだ」

 うらやましそうに鳥が見つめてきていたが、私だってろくに口にできなかった。貴重な食料のほとんどを目の前の猫に奪われたのだ。

 美味しそうに食べる猫の姿を見て、空腹だけがよみがえる。差し出さなければよかった。





 結局、二匹が寝静まった後に、再び乾パンを水にふやかし、その日の食事とした。空腹が満たされた感覚はないが、幾分かましになる。空腹を感じ始めたということは、少し体力が戻っているのだろうか。

 食後に口直しの飴を舐める。ついでに荷物の確認もし、日付とともにメモにつけて残しておく。猫の食事の様子から、現状の食料の重要さを再認識したのだ。

 ここは冷たい缶詰の味も称賛する世界だ。後々、あの肉を分けてもらい焼いて食べることができるかもしれない。だが、現代の味に慣れた私が食べ続けられるだろうか? 生き延びる芽が出てきたからには、少し慎重にならなくてはならない。


 メモののち、今は懐中電灯を頼りに手記をつけている。懐中電灯の明かりはまだ力強いが、いつか切れることを思うと、あまり夜に活動しない方がいいのかもしれない。無線のバッテリーは替えがあるが、電池の替えはないのだ。


 そういえば、鳥の翻訳を聞いて少し思ったことがある。

 ニシンの甘露煮から魚であることを、あの猫はすぐに見抜いた。味から判断したのか、それとも触感からかわからないが、つまり「火を通した魚」というものを知っているのだ。

 原始人以下だなどと思っていたが、鳥の発言を併せて少なくとも、「火を使い」「集落を作り」「信仰を持つ」だけの知能はある。

 鳥の翻訳から、猫がそれなりに複雑なことを考えていることも予想できる。

 もしかしたら本当は、この猫も生の肉を食べて暮らすべき生き物ではないのかもしれない。そう思いながら、丸くなって眠る猫を見た。

 どことなく、似た境遇であることに、かすかな同情心が湧き上がる。いつか私も彼も、元の場所に戻れるように祈る。


――――――


食料メモ(八日目)

・缶詰(2)

・水(750mlボトルに1/4)→減りすぎ。他にあと何本かリュックに入っていたはずだが、これしか残っていない。もうろうとしているうちに飲んでしまった?

・飴(開けたばかり)

・乾パン(二枚半)


備考:心許ない。特に水。なによりもまず水を手に入れるべき。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ