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蒲公英  作者: 鍬花嘘人
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6

 私が河川敷に着いたとき、英子はまだ来ていなかった。私は、いつものように土手に腰を下ろし、缶コーヒーのプルタグを引いた。一口啜ると、口の中に程よい苦みと甘みが広がる。私は、ほっと一息ついた。春に相応しい爽やかな風が顔を撫でる。心地良い。河川敷に来るようになってから、私は少し人間らしさを取り戻した気がする。以前の私では、風に吹かれそよぐ木葉や流れる川の水面をきらきらと乱反射する日の光りを綺麗だ、などと思う余裕はなかった。私は、英子との会話をリハビリだと考えるようになっていた。人生のリハビリだ。

 「おじさん。」

 そんなことを考えていると後ろから声を掛けられた。ふり返ると英子が立っていた。

 「おじさん、どうしたのぼーっとして。考え事?」

 「ああ、大したことじゃないよ。今日も学校には行かなかったのか?」

 そういうと、英子は決まり悪そうに、小さな声で「うん」とだけ答えた。今日も英子は、いつもの制服を着ている。英子は、少し遠くを見つめ、肩に届いた髪を風に遊ばせている。まだ幼さを残す顔に似合わないその大人びた仕草には、不思議な美しさがあった。英子は、はっとするとそそくさとスカートを直し、私の隣に座った。

 「今日はぽかぽかしてて気持ちいいね。」

 と英子は言った。私は

 「ああ、そうだな。」

 と返した。

私たちの会話にこれといった意味はない。ただぼんやりと意味のない言葉を行き来させるだけだ。しかし、今日は違った。

英子は、流れる川を見つめながら静かに私にこう聞いた。

 「おじさんは、生きてて楽しい?」

 「難しい質問だな。楽しくないと言えば嘘になるな。現に今、こうして英子と話しているのは楽しく思う。」

 「ふうん。」

 と英子はどこか上の空で答えた。それにむっとした私は

 「英子は楽しくないのか?」

 と聞いた。

 「私もおじさんと話すのは楽しいよ。けどそうじゃなくて、生きていくのって楽しいことより辛いことのほうが多いでしょ?」

 「まあな。」

 「だったら生きていても辛いだけじゃない。じゃあなんでみんな生きていくのかなって思ったの。」

 「なお更難しい質問だな。まあ、なんだ。他の人は、楽しいことを見つけるのがうまかったりうまかったり、ガス抜きをするのが上手かったりするんだろう。そうやって上手くバランスをとってみんな生きているんだと思う。」

 私は思春期の少女を思いやり、言葉を選んでそう言った。

 「ガス抜き?」

 「そうだ。ストレス発散とでもいうのかな。辛いことを溜め込まないことが大切なんだ。」

 「おじさんは、ガス抜き上手なの?」

 英子は、上目遣いでこう聞いた。

 「どうだろうな。上手くはないと思うが、考えてみればこんな状態でも死のうとは思ったことがない。そういう意味では上手いのかもしれないな。」

 と私は笑いながら答えた。英子は、薄く微笑み、それから視線を少し遠くにずらす。川面はきらきらと輝いていた。それからゆっくりとそれに応じた。

 「そうなんだ。私も上手くなりたいな。私は、辛いことがあると逃げ出しちゃう。学校もそう。お父さんね、事故で死んじゃったの。いっぱい泣いたし、すごく辛かった。けどね、それよりもっと辛かったのは、学校で友達が私を見る目。みんなとても優しかった。けど、その優しさが耐えられなかった。だから逃げ出したの。」

 「優しかったなら良かったじゃないか。なんで逃げたんだ?」

 私は、反射的に英子に聞いた。

 「優しかったよ。けどそれは、優しさから来てるんじゃないの。哀れみだったり、どう接して良いのか分からないだけ。そういうどうしようもない空気感や友達との間に出来てしまった壁みたいなものが辛かった。」

 「ああ、そういうことか。」

 私は、やっと理解した。この少女が何に悩み苦しんでいたのかを。その小さな体でどれほどの重荷を背負っていたのかを。

 「私も上手になれるかな、ガス抜き。」

 英子は、膝を抱え、寂しそうに笑った。

 「ああ、きっとなれるさ。まず、好きなことを探すといい。」

 「好きなこと?」

 少女は、首を傾げこちらを見つめる。とても愛らしい。

 「ああ。急がなくていい、ゆっくりでいいんだ。そして見つかったら、それに夢中になるんだ。そうやって少しずつ英子が変わっていけば世界も違って見えるはずだ。」

 「そっか、そうだよね。」

 英子は自分に言い聞かせるように繰り返した。

 「えーいこ―」

 突然、少女の名前を呼ぶ声が後ろから響く。名前を呼ばれた少女はぱっと後ろを振り返る。すると優しい顔になり

 「あ、おかあさーん」

 と叫び手を振った。英子は立ち上がり、スカートのお尻を叩きながら土手の上にいる母親に大きな声で話しかける。

 「お母さん、買い物の帰り?」

 「そうよ。」

 と母親は答えつつ、訝しげな目を私に向けていた。仕方のないことだろう。今は、平日の昼間。働き盛りの男がふらついていて良い時間帯ではない。しかもこの格好だ。ぼさぼさの髪に、髭をだらしなく生やし、小汚い服を着ている。年頃の娘に関わらせたいと思う親のほうがおかしいだろう。なんと言おうか、うまく説明できる気がまったくしない。今更だが私と少女の関係はどこまでもおかしなものであった。私は、先ほどまで偉そうに能弁を垂れていた自分に苦笑し、髪を手で梳かしながら立ち上がり、軽く頭を下げた。

 「どうも。娘さんとは、先日ここで知り合いまして。たまたま会ったときには、こうしてお話させてもらっています。」

 我ながら非常に言い訳がましい。

 「前話した人だよ。」

 そう英子は満面の笑みで自身の母にそう伝えた。

 「ああ。これは、娘がいつもお世話になっております。」

 そう言って英子の母はどこか安心したような顔になり、私に仰々しく頭を下げた。私は、あまりに大げさな反応だったので慌て、私も「いえ、こちらこそお世話になっております。」などとわけのわからないことを口走ってしまった。その様子をにこにこと眺めていた英子に対しそっと耳打ちをした。

 「英子、私のことなんてお母さんに話したんだ?」

 英子は、大きな目できょとんと私を見つめ、その後悪戯な笑顔で「秘密。」とだけ答えた。



 母親に連れられて帰っていく英子の背中を見送り、私は肩の力を抜いた。まだ脈はどくどくと音をたて、全身は微熱を帯びていた。英子と話すことは慣れてきたが、やはりそれ以外の人間と話すにはまだリハビリが必要なようだ。大きく伸びをして考える。さてこれからどうしようか。今日は、久々に飲みにでも行こうか。それなら一度家に帰るとしよう。私は、追風に背中を押され歩き出した。


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