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部屋を出ると生暖かい風が顔を撫でる。二日酔いでぼうっとする頭には心地よい。空は、鉛色の雲に覆われどんよりとしていた。平日の昼前ということもあり、街はどことなく寂しさに包まれていた。道なりに歩いていると、ふと建物のガラスに目が着いた。そこには、一人の男が映っていた。ぼさぼさの髪に虚ろな目、無精髭を生やし、頬は痩せこけている。着ている薄手の上着が頼りなく風に揺れている。ガラスに映る自分の姿を見て小さく苦笑すると、私は再び歩きだした。
目的なくふらふらと歩いていると、近所にあるあがみ河川敷にでた。途中で買った缶コーヒーを手の内で弄びながら土手に腰を下ろした。缶コーヒーを開け、一口啜る。口の中に安っぽい味が広がる。私はほう、と一つ息を吐く。こうしてぼんやりと川の流れを見ている間は何も考えずに済む。少しの間、私は心を落ち着けていた。すると、視界の左端に何かが動くのを捉えた。そちらに視線を向けると、そこには、一人の少女がいた。川原にしゃがみ込み、何かを探し物をしているように見えた。こちらに背を向けているので顔は見えないが、制服を着ている。あれは確か近所にある中学校のものだったはずだ。長く、美しい黒髪が印象的だった。呆けていたせいもあるが、あまりにも無遠慮に見過ぎていたのだろう。ふいに少女がこちらを向いたせいで、目が合ってしまったが、私は咄嗟に視線を外すことが出来ず、少しの間見つめ合う形となった。私はこのとき少女の顔を確認した。目はぱっちりとした二重で大きく、須子の通った鼻。そして何よりもその透き通った白い肌に目を奪われた。まだ幼さは残っているが、それを差し引いても間違いなく美人の部類に入るだろう。真面目そうに見えるが、その顔のせいかどこか悪戯っぽい雰囲気を出している。
少女は、驚いた様子で大きな目をぱちくりとさせていたが、突然立ち上がり、恥ずかしそうに目を伏せ、足早にその場から去ってしまった。私は、呆気に取られていたがすぐに立ち直った。あの年齢の女の子だ、無理もない。さっきまで少女がいた場所を見ると、そこには摘まれた蒲公英が数本落ちていた。それにしても今日は平日で時刻はまだ正午を回っていない。あの娘、学校はどうしたのだろうか。私は、しばらくの間美しい少女についてあれこれ想像し、ぐいっとコーヒーを飲みきりその場を後にした。
翌日、私はまた河川敷に向かっていた。特に理由はない、と言っては嘘になる。あの少女だ。平日の昼前に何故一人であんな場所にいたのか気になったのだ。いや、白状しよう、あの少女が美しかったからもう一度会いたかったのだ。
河川敷に着いたのは昨日と同じ頃合だった。私は、別に少女に会えるとは思っていなかった。むしろ会えた方がおかしい。今日は平日の昼前だ。中学校は通常通り授業中だろう。昨日はたまたま午前授業か何かだったのだろう。ただ、もしかしたら今日もいるかもしれない、その僅かな可能性に賭けてみたかったのだ。それこそ「特に理由はない」だ。会えないならそれでよかったのだ。
私は辺りを見渡すと川原に黒っぽい大きな塊があるのに気付いた。あの少女だ。私は驚き、そして喜びで胸を膨らませた。昨日と同じ様にその場にしゃがみ込み、探し物をしているように見える。服装も同じだ。紺色のブレザーにグレーのスカート。例の中学校の制服だ。私は、土手に降りると昨日よりも少女の近くに腰を下ろした。少しの間、懸命に地面と睨めっこしている少女を見ていたが、少女は気付く様子もない。そこで私は思い切って声を掛けた。
「おまえ昨日もここにいたな。」
だめだ、無職になりしばらくまともに会話していなかったせいだろうか、どうも無骨になってしまう。案の定少女は、びく、と肩を上げ恐る恐るこちらをふり返る。私は、なるべく親しみやすい話し方で続けた。
「おまえ中学生だろう。学校はどうした?」
無理だった。人は適度に会話をしないと話し方を忘れるというのはどうやら本当のことらしい。
「えっと、いってない・・・」
少女は、目を泳がせ、おどおどしながら自信なさげに答えた。
「別に責めているわけじゃない。ただ気になっただけだ。」
私は笑いかけながら続ける。
「何してたんだ。探し物か?」
「ううん、たんぽぽを摘んでたの。」
「蒲公英?」
「そう、たんぽぽ。」
そう言うと少女は初めて笑った。少女の笑顔は、幼さを一層際立たせたが、今まで見たそのどれよりの美しかった。
「またなんで蒲公英なんだ?他にも花はあるだろうに。」
ここは川原で蒲公英の他にも花はたくさんある。何故蒲公英のようにどこにでも生えているものをわざわざ摘んでいたのか私には理解できなかった。少女は私の近くまで来るとそこに座った。
「たんぽぽはね、すごいんだよ。どんなに人に踏まれても折れないんだよ。目一杯太陽に向かって伸びていくんだよ。何度踏まれても諦めない、強い花なんだよ。」
「まあ、雑草だからな。」
私の乏しい感性ではこのぐらいにしか感じることが出来なかった。少女は、虚を突かれた顔して、少し白けたように、
「だから、少しでいいから強さを分けて貰えたらと思って。」
「ふうん、そうか。」
私は、話がよく掴めなかったので適当に相槌を打った。すると、少女は突然思い付いたようにこう聞いた。
「おじさんは?」
「え?」
急だったので咄嗟に意味が分からなかった。よく考えれば「おじさんはなにしてるんですか?」という質問だとすぐに分かる。それにしても私はまだ二十代だ。おじさんと呼ばれるにはまだ早いと思う。まあ、中学生にとっては十代より上はみな、おじさんなのだろう。
「おじさんは何してるんですか?」
私が黙っていたからだろう。少女はもう一度同じことを聞いてきた。口を開こうとし、そこで私は考えに詰まった。なんと説明すれば良いのか分からないのだ。無職で時間を潰すために放浪してたとは言えまい。まして「おまえに会いに来た。」などとは、口が裂けても言えないだろう。最近は通り魔が世間を賑わせているというし、変な誤解を受けるのは避けたい。少女は黙っている私を不思議そうに見ていた。
「考え事をしていた。」
嘘ではあるまい。
「考えごと?おじさん悩みがあるの?」
「まあな。この年になれば悩みの一つや二つ有って当然だ。」
「そうなんだ。私もね、悩みあるよ。」
少し得意気に少女は言った。
「ほう、どんな悩みだ?」
少女は薄く笑って「秘密。」とだけ答えた。その笑顔はどこか寂しげに私の目に映った。
「おじさん、明日もここに来るの?」
唐突に少女は切り出した。
「ああ、そうしようと思っている。」
正直、明日は来るつもりはなかったが、そう少女に聞かれ思わずそう答えてしまった。
「そっか。そしたら私もう行くね。また明日。」
そう言って少女は立ち上がり、「またね。」ともう一度言うと、後はふり返らずに去っていった。私は、少女の後ろ姿を見えなくなるまで眺め、それが終わるとおもむろに腰を上げた。