よし! 空を見よう。
あの空の向こうには何があるのだろう。きっとわたしの知らない世界が、そこには広がっているに違いない。わたしが想像もできないような、素晴らしい世界が広がっているに違いない。
広大で壮大。
わたしという存在なんて押しつぶされてしまうような、大きな世界がそこにはあるはず。そして押しつぶされたわたしは、それでもそこを知ったことを後悔なんてしないのだろう。
県立広雲高校。
そこにわたしが作り上げた同好会がある。会員数はわずか二名という、存在していることが疑わしいような会で、言うまでもなく学内最小の会だ。まあ、種を明かしてしまえば、この同好会は公式の――学校に存在を認知された同好会ではなくて、わたしの自己満足によって成り立っている。だから、この人数が丁度いいのかもしれない。
この同好会での活動はいたってシンプルで、学校の裏にある小高い丘の上に寝転がって空を見上げる。ただそれだけ。でもまあ、それだけでは寂しいので、町にあふれる小さな『きれい』を探すこともしている。そんな活動なので、同好会にかかる経費はほぼなし。お金に関する心配は何一つない。
「伊空先輩」
かくいう今も、その活動の真最中で、わたしから少し離れたところに寝転がっている志岐くんがわたしを呼んだ。
「なあに?」
志岐くんはわたしの一つ下の男の子で、この会の会員だ。志岐くんはわたしの方は見ておらず、空を見上げたままに続ける。
「今日は風が強いですね」
志岐くんは空を見上げたまま、まるでひとり言のように言った。でも、わたしを呼んだのだからそれはひとり言ではないのだろう。それとも、わたしを呼ぶところからすでにひとり言だったのか。
空に浮かぶ雲は風に流されて、わたしたちの視界から消えていく。わたしたちはわずかな風しか感じないけれど、志岐くんが言っているのは『上』の風だ。『上』の風は強く、雲の動きも速い。
「そうだね」
空を見上げる時間。
静かで穏やかな時間。
わたしはこの時間が好きでこの同好会を作った。正式な同好会ではなく、活動も活動と言えるものではない。わたしが勝手に『同好会』と名乗っているだけで、本当はただの趣味の時間つぶし。
そんな同好会に、彼はやってきた。
一人で過ごすこの時間に、志岐くんは現れた。
「ねぇ、志岐くん」
「なんですか?」
お互いに空を見上げたままで、相手の顔は見ていない。わたしたちが見ているのは、空の青と雲の白だけだ。
「志岐くんはどうして、存在すらしてないこの同好会に入ったの?」
カサッ、と音がして、志岐くんがこちらに向いたのがわかった。わたしも志岐くんの方に体を向ける。
「どうしたんですか? 突然」
「いやね、そういえば聞いてないなと思ってさ」
去年は一人での活動だった。友達や先生になんと言われても、頑なに部活であると主張し続け――今思えば、どうしてそこまでこだわっていたのかがわからない――待望の新人がやってきたのは、今年の夏休み前のことだ。まさか新人が入ってくるなんて思いもしなかったわたしは、その登場に驚喜した。
友達は興味なさげに相槌を打つだけだったけれど。
「空が好きだから、ですよ。伊空先輩こそどうしてこんな同好会を?」
「好きだからだよ」
結局は同じ理由なんだ。志岐くんとわたしは。
似たものなんだ。
「こうやって空を見上げるのは、小学生のころからなんだよ」
透き通る青を。
流れる白を。
時には不機嫌な空を見上げる。
静かで穏やかな時間が好きなんだ。
「じゃあ、ぼくが入会したのは迷惑じゃないですか? 静かじゃなくなりますよ?」
そう言って志岐くんは視線を空に戻した。
「一人で眺める方が、静かで穏やかだと思いますが」
「そんなことないよ。志岐くんが入ってきてくれてうれしいよ」
空を見るのは大好きだけど、一人は寂しい。だからずっと、わたしは仲間が欲しかったんだ。
同じ時間を共有できる――本当の仲間が。
「そう……ですか」
わたしたちは空を見上げる。何よりも空が好きだから。
そこに、何かがありそうだから。
県立広雲高校は小さい。県下でも有数の小さな学校で、生徒数も百余名程度。校舎も一つで、近くに立っている中学校よりも小さいという有様だ。ただ、ここには園芸科もあり、ハウスや畑などもあり、敷地だけは広い。わたしたちが活動の拠点にしている丘は、畑の先にある。広雲などという、一見公立学校に似つかわしくない名前は、元々私立だった高校の経営権を、どういう経緯があったのか、そもそも可能なのかどうかは定かではないが、県が得たということらしい。と、生徒たちの間でまことしやかにささやかれている。
今、わたしは一年生の教室に向かっている。去年まで使っていた廊下を歩いているだけなのに、なんだか全く違う場所を歩いているような錯覚にとらわれる。不思議な気分だ。
突然やってきた上級生に、一年生たちは少しだけ怪訝そうな視線を送ってくる。それには構わず、目的の教室の戸を開いた。開かれた戸の音に、教室にいた生徒の視線が集まる。やはりみんな、怪訝そうな表情をわたしに向ける。
「ねえ、志岐くんいない?」
たまたま近くにいた女の子に声をかける。
「あ、はい」
女の子はトトトと走っていき、教室の隅で本を読んでいた志岐くんに声をかけた。志岐くんはわたしに気付くと小さく会釈をして、流れるような動作で本をしまった。それから流水のようにこちらに来て、不思議そうな笑みをもらした。
「伊空先輩が来るなんて珍しいですね。何か良いことでもありましたか?」
――何か良いことでもありましたか?
なんて勘がいいのだろう。わたしですら、この思いつきに身震いしているくらいなんだから。
「あのね、志岐くん。明日か明後日、一日暇な日ない? 欲を言うなら明日」
わたしはこの土日のいずれかを利用し、志岐くんともっと打ち解けるための計画を立てた。なぜ明日を推すのかと言えば、単純に天候の理由だ。
「え? ……あ、すいません。明日は夕方まで家にいないんです」
「じゃあ、明後日の朝四時にいつもの場所ね」
「あ、朝ですか?」
少しばかり速すぎる時間に志岐くんは驚いたようだったけれど、すぐにうなずいてくれた。
「伊空先輩の言うことなら何の心配もいりませんね」
「どういう意味かな?」
「信頼しているという意味ですよ」
恥ずかしげもなく平然と言ってのける。
「ふうん? あ、わかってると思うけど、少しくらいはお金持ってきてよ?」
志岐くんは普段、家から学校が近いという理由で昼食代以外のお金を持ってきていない。聞いた話によると、友達と遊ぶ時ですら持っていないこともあるらしい。
「わかってますよ。高校生に向かって何言ってるんですか」
呆れてしまったのか、わざとらしいため息をついた。
あの……わたし先輩だよ?
「なによ」
「いえ、なんでもありません。それより、はやく教室に戻らないと遅刻しちゃいますよ?」
志岐くんはそう言って時計を示した。始業まであと二分だ。ここから自分の教室まではそれほど離れていないけれど、のんびりしている時間はない。
「じゃ、明後日ね」
志岐くんと別れて教室に駆ける。
次の授業は何だったかな? 覚えていないけれど、何の授業であれ遅刻は嫌だ。遅れて教室に入った時の視線、あの言いようもない気まずさは大嫌いだ。
わたしが席について一息ついたところで、始業のチャイムが鳴った。なんとか間に合った。
間に合いはしたけれど、それと授業を真面目に受けることとは別のことで、窓際の席にいるのを良いことに外を眺めている。
今日は雨が降っていて、灰色の雲が空を埋めている。地面に打ち付けられる雨は無数の柱のようで、それを登れば空にも上れるように思える。時折吹く風が、雨を窓に叩きつけてわたしの視界を歪める。
「伊空さん? 授業は退屈ですか?」
突然声をかけられた。先生は呆れた表情でわたしを見ている。わたしなんかに構わず授業を続けてくれたらいいのに、といつも思う。わたしが外を見ている程度のことで授業を中断するから、みんなのやる気がそがれてしまうんだ。
まあ、わたしが外を見なければいいだけの話なんだけど、それは無理な相談。
「残念ながら、その通りです」
「そうですか」
元々あまり関わるつもりもなかったのだろう。先生は授業を再開した。その程度で引くなら、そもそもわたしに声をかけないでほしい。
雨が入らない程度に窓を開ける。外の空気が教室に流れ込んできて、新鮮な気持ちになれた。思ったよりも教室の空気がこもっていたらしい。
雨の匂いがする。
雨も夕方には止み、外は雨によって作られた水たまりがあちらこちらに点在している。子どもたちがそれを飛び越えたり、わざと足を入れてしぶきを立てたりして遊んでいる。その横を通る大人たちは、それを一瞥し、特に感慨もなく通りすぎていく。
忘れたころに横を通り過ぎる車が水たまりの上を走り、水しぶきをあげる。水たまりで遊んでいた子どもたちは、その水しぶきに「わっ」と声を上げ、すぐに笑い始める。それを見た大人の人は「危ないよ」と一声かけ、子どもたちも素直にそれに応じて歩を進める。
わたしもこんな時があったんだなって、少しだけ懐かしく思ってみたり。でも、よく考えて見れば、わたしは水たまりで遊ぶより、雨雲を見ていた。
……変わってないなぁ。
人はそんなに簡単には変わらないってことかもしれない。月日はわたしたちを確実に成長させるけれど、変化はさせない。
進めるけれど、終わらせない。
終わらせないけれど、進める。
「もうひと雨来て、明日の深夜に止むのが理想かな」
ぐずついた空は、わたしの願いも叶えてくれそうに思うけれど、このまま風が雲を取り払っていくのだろう。自然は思うようにはならない。思うようになったとしても、それはきっとたまたまでしかなくて、思うようにできるようになったとしたら、それはただの勘違い。
自然を思うがままに、なんて、なんて傲慢なことだろう。
「自然は自然に、ありのままに見るのが一番だよね」
空を見上げることに、自然を見ることに理由なんて考えたこともないけれど、もしかしたら、わたしは小さいころからそんなことを考えていたのかもしれない。考えていなくても、そうどこかで思っていたんだ。それともこれは後付けの理由なのかな? 自分でもよくわからない。
自分のことなんて、わたしはわからない。
夏の雨は湿気をもたらすけれど、少しだけ涼しいと感じることができて好きだ。雨上がりのさっぱりとした空気は、じめじめとした嫌な気分を紛らわしてくれる。明後日には志岐くんと遊ぶから、明日にでもまた降ってくれないかな?
そうすればまた涼しくなって、いい感じ。
あ、でも、昼は暑いけれど、朝は寒いかな。もう暦の上では秋なんだし。朝には虫もたくさん鳴いているわけだから。
どうなんだろう。
「暦の上では秋って言いますけど」
翌日の夕方、何もすることがなくて、いつもの活動場所にやってきた。そこにはなぜか志岐くんがいて、結局、いつもの活動のようになった。奇遇だね、なんて話した後、志岐くんは唐突にそう言った。
「ぼくとしては金木犀が香らないうちは秋って思えませんね」
金木犀。
秋に甘い香りを漂わせる庭木で、小さい可憐な花を咲かせる。
「そうだね。わたしもそうだよ」
わたしは暦よりもそちらを優先するしね。
「わたし思うんだよ」
「なんですか?」
「芸術の秋、スポーツの秋、読書の秋、そして食欲の秋っていうじゃない?」
食欲の秋はまあ、ネタで言っているのだろうけど。それでもかなり言葉だけは浸透している感がある。
「なんですか? 伊空先輩も食欲の秋を支持する人なんですか?」
志岐くんは呆れ気味に言った。
え? わたしが呆れられた?
「ち、違うよ。ただね、金木犀ってとてもあまい匂いがするからさ、その甘い匂いで食欲がわくんじゃないかなって」
「食欲の秋とか言っているような人に、そんな情緒的な思考があるなんて思えませんよ」
「それは偏見だよ」
「偏見を受けるようなものは、受けるだけの理由があるんですよ。その偏見がどのようなものであっても。いや、理由というかきっかけかもしれませんね。理由と言えるほど積極的なものではないかもしれません」
なんだか、色々なところから批判を受けそうだなあ。
「志岐くんっていじめの相談を受けたらさ、『君にもなにか悪いところがあったんじゃない?』って聞きそうだよね」
「どうですかね? いじめの場合は何でも理由になりますから」
頭の良さも。
運動能力の高さも。
何でも理由になりますから。
「でも、最初に一度聞くと思いますね」
「どうして?」
「だって、本当に理由なくいじめられているとは、誰も言い切れないじゃないですか。もしかしたら明確な理由やきっかけがあって……誤解を恐れずに言うと、いじめられてしかたないと思えるようなことをしでかしておいて、それに自分が目をつぶって、いじめられてるから助けてって、そんなことを言ってるかもしれません」
助けを求めるのは当然ですけどね、と志岐くんは続けた。
「志岐くんは、そこを自覚しなくちゃいけないって言うわけだ。自分に理由がある場合はそこを直すべき、謝るべきだって言いたいんだね?」
「そうですね。直すことが可能なことならですけど。どうにもならないことをネタにしていじめてるようなやつなんて、人間的に終わってますよ。いや、いじめをする時点で、ですね」
人間的に終わっている。
そう言った志岐くんの声には、どこか暗さがあった。
「いじめって、中途半端に頭がいいからあるんだって思うんですよ」
「ふうん?」
「馬鹿な奴なら、いじめる箇所も見つけられなければ、そもそもいじめという行為自体が頭にないんです。頭のいい奴はいじめという行為は知っていますが、いじめるなんて効率の悪いことはしないんです。殺人と同じですよ。リスクは高いくせにリターンがやたらと低いんです。ハイリスク・ロウリターンの極みですよ」
「リスク・リターンで考えるような問題でもないと思うけどね」
そんな損得勘定だけで動かれても困る。
「いえ、そんなものですよ。人が人を殺さないのは、リターンが見合わないからです。人一人の命を奪った重みと罪悪感を一生背負うというのは、人一人を殺したリターンに対して大きすぎる。負の要素が大きすぎます」
「志岐くんって、損得勘定で普段から動いてるの?」
「まさか」
志岐くんは首を振った。
「ぼくはそこまで生きることに徹底していませんよ。損得勘定『だけ』で生きるのは野生だけです」
生きることに徹底。
利益と自分の命を守ることを徹底して追求すること。
「たとえば伊空先輩。次のような場合、伊空先輩ならどうしますか? よくある設問ですが、崖から二人の人物が今まさに落ちようとしている。どちらも大切な人で、片や家族の誰かで片や恋人という状況。どちらも限界が近い。助けられるのはおそらく一人だろう。伊空先輩ならどうします? 助けは呼べないものとします」
家族。
恋人。
二人を助けたいけれど、そんなことはできっこない。それをしたら三人で崖から落ちることは考えるまでもない。
「わから――」
「わからないっていうのはナシですよ。そんなことをしていたら、絶対に二人とも落ちちゃいます」
わたしはどうするんだろう?
そんな状況に陥ったことがないから、想像もつかないけれど。だけど、どちらを助けても、助けられなかったどちらかを思って後悔するんだろう。
どっちだろう。
「はい、時間切れです」
「え?」
「言ったじゃないですか。どちらも限界が近いって」
それはそういう意味だったのか。
「ねえ、志岐くん。今の質問で何が知りたかったの?」
「ぼくは伊空先輩がこの設問に『答えられるか』ということが知りたかっただけなんですよ。どちらを選ぶのかも興味はありますが、大切なのは答えられるかです。そして、答えられなかったとしても、無理だと口に出すか出さないかも」
「ふうん? じゃあ、志岐くんはわたしにどういう判断を下したの?」
「いえ、判断っていうほどすごいものじゃないですよ。単に、家族と恋人が同じくらいに大切であること、それから……こっちは言わないのが華ですね」
なんだろう。すごく気になる。
「じゃあさ、もしわたしがどちらかを選んだらどうだった?」
「そうですね、ぼくはそれを損得勘定で選んだとみなします。選ぶという行為には、かならずそれがついてまわりますから。ま、本当にそういう状況に陥ったら、どちらを選ぶのかは自分ですらわからないでしょうね」
自分ですら、わからない。
「人はそういう時、自らの本能によって助けます」
「本能……」
「はい。本能です。だから、質問をしていてなんですが、この質問には本来的に意味なんてないんですよ。答えられるか否か、それだけが問題なんです」
わたしには志岐くんが言っていることがよくわからなかった。
「ていうかわたしたち、どうしてこんな話してるんだっけ?」
元々、秋について話していたはずなんだ。それなのにどうして『本能』を語っちゃってるんだろう。
「先輩が振ったんじゃないですか」
「わたし?」
全然覚えがないんだけど……。でも、志岐くんが言うのだからそうなんだろう。わたしなんかより、よっぽど頼りになるんだから。
「忘れたなら忘れたままでいいですよ」
そう言って、志岐くんは視線を空に戻した。
西が少し赤みがかってきた空に、白い雲がひとつふたつ。上空に流れる風が、白い塊を流していく。視界の中をいくつかの雲が流れて行って、同じ姿を見せない。
「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」
「『方丈記』の冒頭ですね?」
「うん。鴨長明が川の流れを見たのと同じように、わたしたちは雲の流れを見てるんだなって」
それに無常を感じるかどうかは別だけど。少なくとも、わたしは雲の流れから無常を感じとったりはしない。
できないって言うべきなのかな?
「長明はどうして川の流れであそこまで強烈な無常感を感じとれたんでしょうね? 何度読んでもぼくには不思議ですよ。まあ、言ってることはわかりますけど」
「わたしたちってさ、どうして空を見るんだろうね?」
「好きだから、じゃないですか?」
好きだから。
もちろんそうだ。
「それだけなのかなって、思ったんだよ」
それこそ無常感じゃないけど、なにかを感じているのかもしれない。
「自分がどうしてそれが好きなのか、なんて、そんなこと考えるのは野暮ですよ。好きな理由なんて、好きだからってだけで十分なんです。分析しちゃいけませんよ」
空の赤がだんだんと東に広がっていく。青から赤に変わるのは、変わり始めてからは早いものだ。
「それと同じで、自分が感じているものが何かなんて、そんなこと考えちゃいけないんです。分析しちゃいけないんです。感じているものは考えずに感じ続けて、言語化しないのが一番です」
無理に言語化したら鮮度が落ちちゃいますよ、と志岐くんは言った。
感じたものは、感じたままに。
「さて。じゃあ、空も赤くなってきましたので、ぼくはそろそろ失礼します」
ゆっくりと立ち上がって服についた草を払うと、志岐くんはわたしに小さく頭を下げて歩いて行った。
「わたしも帰ろっかな」
昔はさておき、今は一人じゃ味気ない。感じることは感じるままで、そのままでいいけれど、誰かと共有したいとは思う。
そして、約束の日。
約束の時間よりすこし早くやってきたのだけど、志岐くんはすでに到着していた。太陽すらまだ出ていない暗い丘に、志岐くんの姿が浮かぶ。
「おはようございます。伊空先輩」
「うん、おはよう。志岐くん」
昨日の夜に降った雨で、地面が濡れている。志岐くんはそれを予想していたようで、大きめの敷物を持参していた。志岐くんはその上に寝転んでいて、一人、暗い空を見上げている。
わたしもその敷物の上に寝転んだ。自分で持ってきた敷物を使うなんて野暮はしない。
「こうやって寝転んでいると、遠足にでも来た気分です」
「似たようなものだよ」
わたしは遠足気分できているわけだし。
「そういえば伊空先輩。ここで何が見えるんですか?」
「んー、内緒。まあ、待ってれば始まるからさ」
自然のことだし、条件も色々とあるから、確実に起きるとは限らないけど。でもそれだからこそ面白いとも思うわけで。
「そうですか」
志岐くんは一つ息をついて、ここに来るまでに買ってきていたらしい缶コーヒーを飲んだ。コーヒーの匂いが漂って、すぐに消えた。
「香りって、長持ちしませんよね。開けた時だけです」
「それはものによるんじゃないかな……」
それに缶コーヒーにそれを期待するのも酷な気がする。最近は香りを重視したものもあるとは聞くけれど、どうなんだろう。
「わたしのぶんは?」
「ありますよ」
あるんだ……。
冗談で聞いたのに、志岐くんはカジュアルバッグからもう一本、同じ缶コーヒーを取り出した。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
受け取ると、ほのかにあったかい。夏も終わって、秋が始まろうとしているこの時分、やっぱり早朝は寒い。それもまだ日が出ていないというのだからなおさら。
「伊空先輩は、卒業したらどうするんですか?」
「んー、そうだね……」
来年の今頃には、もう就職か進学かの決定はしておかなくちゃいけない。早いなあ。
「進学、かな」
「進学ですか」
「うん。別に何の仕事がしたいっていうのはないんだよね。でもわたしは言葉が好きだからさ、文学系の学部に入りたいとは思うんだよ」
さらに詳しく言うならば、日本文学科。まあ、進路はとても限られちゃうだろうから、そこに進んだらある程度レールが敷かれてしまうのだろうけど。
「言葉が好きっていうのは、わかる気がします」
「そう? うれしいなあ。あんまりわかってくれる人いないんだよ?」
クラスメイトとそんな話をしたら、みんなよくわからないと言っていた。小説が好きでもなく、物語が好きでもなく、言葉が好き。
日本語。
それ自体が好き。
それがわからない、と。
「そうなんですか? 言葉ってとても深いですから、ぼくとしては興味が尽きないんですけどね」
言葉の深さは、少し興味を持ってみないとわからない。外から眺めているだけじゃ、全く気付かない深さがある。それに気付けただけでも、もしかしたらわたしは恵まれているのかもしれない。
一陣、冷たい風が吹き込んだ。それに誘われて、くしゃみをしてしまった。
「大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫」
本当はもうちょっと服を着てきたら良かったなんて思っているけど。まあ、日が出たら温かくなるし、少しの我慢だ。
東の空が、ほのかに明るくなり始めた。
日の出だ。
「伊空先輩はこれを待っていたんでしょう?」
「そうだね。でも、本当に待っているのはもう少し後だよ」
見えてほしいな。
見えるかな。
太陽が昇っていく。
徐々に視界が開けていく。
昨日の夜に降った雨の影響で、山の上の方に霧が発生していて、山を白で包んでいる。ところどころ木々が霧を突き破って、その緑を外界にさらしている。
空には薄い雲。空の青が透けて見えるくらい、かすかな雲だ。ただ、その雲がフィルターの役割を担い、本来深蒼である空は淡い青へと姿を変えている。
「へぇ……」
太陽が額をさらして、町に光を注ぐ。明るく照らされていく町はまだ眠りの中で、静かな雰囲気を漂わせている。
視線を空に戻すと、薄い膜を光が貫通し、その貫いた膜を強調するように浸透していく。霧の中から光が飛び出し、いくつもの光の帯となって空を駆ける。あるものは空へ、あるものは町へ、その進路を作っている。それはさながら太陽へ続く一本の道で、乗れば歩けるのではないかとさえ思う。
さらに、昨日降った雨の影響で全体的に濡れていて、それが日の光を反射している。反射した光はきらめいて、わたしたちの目を刺激する。
「日の出って実は初めて見るんですけど、こんなにきれいなんですね」
「日の出はいつみてもきれいだけど、今日はちょっと特別かな」
「そうなんですか?」
風が吹いて白が動く。
景色も大きく動いた。
「一昨日と、昨日の晩に雨が降ったでしょ? 霧が発生しやすくなってたんだよ。山にかかってるあの霧は、雨の次の日が見やすいんだよ」
「なるほど」
気温の急激な変化は、山に霧を発生させやすい。今までの生活の中で、この景色の名残のようなものを見てきた。その経験からの発見だ。
「お昼ごろでもたまに見えますよね、こういうの」
「そうだね。でも、こうして見るのって格別でしょ?」
「はい。伊空先輩はすごいですね。自分でこういう景色を見つけられるんですから」
「そんなことないよ。たまたまだよ、たまたま。初日の出を家族で見たときにね――その時が初めてだったんだけど、今みたいに霧がかかってたんだよ」
それまでも空は大好きだったけれど、もしかしたら――その一件がわたしに火をつけたのかもしれない。空がわたしを魅了した瞬間だったのかもしれない。
「あ……風が吹き出したみたいですね」
言われてみれば、空に漂う雲は流れ始め、雲や霧が流れている。それに伴い、空をかける帯も形を変え、ときには姿を消している。寿命はあまり長くなさそうだ。時間が経つことによって、日は高くなり霧よりも雲によって帯を作り出しているけれど、風向きから考えて雲ももうすぐ無くなって快晴となる。そうなるほど、『上』の風は強いようだ。
「最後まで見るのもいいですが、良いところで切り上げるのもまた良いものです」
志岐くんは上半身だけを起こして言った。
「綺麗なものが終わる、その前に切り上げるのも」
「兼好は終わりと始まりこそ見るべきものだ、って言ってるよ?」
「……伊空先輩は何でも知っていますね」
「ははは、何でもなんて知らないよ」
何でもなんて知らない。
「さて――と。さあ、志岐くん。行こうか」
「え?」
志岐くんは呆けたように、間抜けな声を出した。
「行くって……どこへ?」
「どこって――わかってるくせに」
「いや……さっぱりわかりませんけど。今日はこれを見に来たんでしょう?」
「そうだよ。でも、お小遣いも持ってくるように言ったじゃん」
「は、はあ」
「今日はわたしと一日遊びましょう」
今日の目的は、志岐くんともっと仲良くなることにこそあるんだから。
「え、あ、はい」
敷物を片づけ、それをカバンに詰める。
「さ、行こうか」
意気込んで歩を進めると、朝露で湿った草で滑って転んでしまった。
「いたっ――くぅ……やってくれるね」
「…………」
志岐くんを見れば、笑うでも呆れるでもなく、ものすごく自然に手を差し出してくれた。
「ありがとう」
志岐くんの手を取って立ち上がる。すぐに手を離すかと思ったけれど、志岐くんはわたしと手をつないだまま歩き出した。
「志岐くん?」
「また転んだら大変ですから」
「そうだね」
肌寒さの中に、ぬくもりをひとつ。
右手に優しさを感じながら、わたしたちは丘を下った。目覚めの遅いこの町はまだまだ眠りの中で、開いている店なんてコンビニくらいしかない。ただ荷物を置きに家に戻るのもなんだか間抜けな気がして、そうすることはしなかった。
眠っている町の中を歩く。
まだ手は離れない。
一日――日が沈むまで志岐くんと一緒にいたけれど、結局、昼食を食べている時以外で手が離れることはなかった。
「一日中手をつないでたね」
別れ際、家まで送ってくれた志岐くんにそう言った。
「そうですね――」
志岐くんはそこで言葉を切って、いたずらな笑みを浮かべた。
「転んで怪我でもしたら大変ですから」
ふたりがただ延々と語り合っているだけの内容でしたが、いかがだったでしょうか?
普段、ゴテゴテした物を書いているので、たまにはこういうものもいいものでしょう。きっと。
感想をお待ちしています。