Ausblenden Ⅸ
──数か月前
「閣下、お呼びでしょうか」
その日、リシャールは夕食後にランフォードを部屋に呼びつけた。重要な任務のため、そして、彼と話をするため。ランフォードがあちこちの国へふらりと出かけるのはよくあることで、それを利用して極秘任務につかせることはしばしばあったが、今回は同じ大陸というわけではない。船を利用しての遠征に、ランフォードを同行させようというのだ。リシャールは国を空けることはできず、代わりに海外文化に明るいランフォードを、と外交官が申し出た。そのような所まで彼の噂が飛んでいることに驚きつつ、本人と話をしてから、とリシャールは保留にしていた。
「今回はどこです?」
「ロジェ共和国、遥か南の島国だ」
リシャールの言葉は、どこか懐かしいような、それでいて悲しみを孕んだ色をしていた。それに気づかないふりをして、ランフォードは薄く笑う。
「めずらしく…遠征ですね。いいでしょう、引き受けます」
「ランフォード君、まだ僕は詳細を語っていないのだがね」
月光に照らされたリシャールの顔は、驚くほど白い。生気のない顔で、冷たい青の瞳で、ランフォードを射抜く。返すように柔らかく微笑みながら、ランフォードは肩をすくめた。
「どちらにせよ、俺が断る理由なんてないんです。どこにだって行ってみたい、好奇心旺盛なもので」
真意のわからぬあいまいな微笑みは、どこか立ち入ることを許さぬ強い意志を秘めている。リシャールはため息をつくと、ベッドサイドのブランデーをとり、二つのグラスに注いだ。飴色のそれは澄んだ空気に濃厚な香りを見出す。
「よい旅を」
「ありがとうございます」
静かにグラスを傾け続け、やがて空になると、ランフォードは黙って窓の外を見つめる。
美しい夜空に浮かんだ真っ白な月は、いつもよりほんの少しだけ大きかった。
「ねぇ閣下、貴方は、誰かを愛したことがありますか」
「……珍しく饒舌だな。妙な疑問を持つくらいなら早く休むことだ」
表情をぴくりとも変えぬ上司を一瞥し、ランフォードは苦笑する。
「俺は今まで誰も愛したことがないんです。恋人はおろか、家族の記憶すら曖昧だ。だからこそ、幸せなのかもしれませんね」
ただ黙って空のグラスを見つめるリシャールに礼をすると、ランフォードは静かに部屋を出た。残されたリシャールは、自嘲気味に笑う。
「どちらにせよ、永久の幸せなどありはしない」
独り言に返事をするように、梟が鳴いた。
月夜の晩を思い出した後で、リシャールはふと疑問に思う。あれは数か月前のこと。姫がランフォードと出会ったのはつい一ヶ月前のはず。この一ヶ月で、彼が遠征に言ったことはない。ならば、彼女の発言はなんだったのか。
「確かに、ランフォードは私と会ってから遠征にはいかなくなった。けれど一度だけ、彼がひどく遠くへ行ってしまったと感じたことがあったの」
それは、兄が死んだ、一週間後のこと。
「姫様、あの、ランフォード殿が、今夜は来られないそうです」
少し言いにくそうにそう伝えたレティシアに、シャルロッテは疑問符を投げかける。今夜は訓練もないし、兄の死後落ち着いた時間が過ごせていない自分を慰めるために現れると、そう約束したはずだ。いずれにせよ、来るといったのはランフォードなのである。
「…理由を、聞いていて?」
今までこのようなことがなかった分、シャルロッテは少し動揺していた。いいにくそうに指先を動かしながら、レティシアはそっと囁くように告げる。
「ご気分がすぐれないとかで…図書室に籠ってしまっているようなのです」
「気分が悪くて図書室って…どう考えてもおかしいでしょうに」
何か、あるのかもしれない。
ふとそう思い、読んでいた本を置くと、シャルロッテはぱたぱたとレティシアに駆け寄る。悪戯を思いついたような顔で、そっと囁く。蠱惑的な、妖艶な笑みだった。
「いいわ。私も今からいく。着替えを準備して頂戴」
「っいけません姫様、このようなお時間にお外に出られるなど…!」
「大丈夫よ、マントを着ればばれやしないわ」
そうして泣きそうな顔のレティシアを連れ、シャルロッテが図書室についたとき。すでに廊下は蝋燭で明かりを保つだけで、隅々には闇が広がり、あたりは静まりかえっていた。大理石の廊下がかつかつと鳴っていた。息を潜めて、それでもどこか楽しそうに、二人の少女は城内の図書室の扉を開ける。
そこには、燭台をテーブルに置き、読書にふける黒髪の青年がいた。陰影がくっきりと闇夜に浮かび、漆黒の髪を闇に溶けさせ、灰色の瞳は真剣に文字を追っている。その表情は、どこか儚かった。
「姫、何故ここに」
その声に、色はなかった。どこか諦めたような、それでいて堅い言葉だった。
「何故って…貴方こそ、どうしてこんな」
「一国の姫がこのような夜更けに城内を歩いてはいけません。早くお戻りください」
兄を亡くし、弱った自分を慰めた彼ではない、と。唐突にそう思った。一人の騎士として、姫を案ずる言葉ではあっても、シャルロッテを案じている言葉ではない。彼が発した言葉に愛情はなく、ただたんたんとした、機械的な言葉だった。徐々に広がる寂しさに、シャルロッテは何も言葉が出てこない。
「約束を守らなかったことは申し訳なかったと思います。けれど、貴女は姫君だ。行動には責任を持っていただかなければ」
耐えられなかった。この男が誰なのかわからなくなってきていた。
小さな声で詫びると、シャルロッテは駆けだしていた。慌てて追ってきたレティシアを振り返ることなく、ただひたすらに走って自室に戻ると、ベッドにもぐりこんだ。訳が分からなかった。言いようのない寂しさに襲われ、その夜、シャルロッテは深い眠りにつくことはなかった。
「でもね、次の日にはけろっと元にもどっていたの。昨夜のお詫びとか言って、シフォンケーキを持ってきたくらいに」
あれから、ランフォードが遠くへいったと感じることはなかった。けれど。
「なんだか、今の彼には、何を言っても私の言葉は通じない気がするの」
それは確かな感覚。そしてあの時のように元にもどることなく、彼とは距離を置かなければならなくなってしまった。それがどうしようもなく不安で、そして寂しかった。
「きっと次に会うときは、元に戻っていますよ、姫様」
ふいに口を挟んだのは、オデットだった。柔らかく微笑みながら、そっとシャルロッテの手を取る。
「リベルハイトで会おうと、彼は言った。今は信じて、私たちも進まなければいけません」
「道中、彼の話をしましょう。もしかすると、何かがわかるかもしれない」
二人の慰めが、心に染みわたっていくようだった。
シャルロッテは泣きそうな顔で笑顔を作ると、ゆっくりと立ち上がる。一行は、馬を手にし、そして山へと向かう。砂漠へ向かった彼らの無事を祈りながら、リベルハイトを目指した。




