Ausblenden Ⅵ
美しい朝日と、清々しい空気の中で。
何故私は、ひどく暗い顔をしているのだろう。
昨夜、緊急の任務で、私の夫は騎士として国賊を追ったのだという。
そして今朝、帰還した騎士団の中に、私の夫はいなかった。
その事実だけを聞かされて、ぼんやりと夫の顔を思い出す。騎士団に奉仕する家系に生まれた夫は、しきたり通りにその勤めを果たすべく国の兵隊となった。そのことは私にとっても誇りであったし、たまにしか帰ってこない夫とすごす濃密な時間は、私にとっては少なからず支えになっていた。まだ小さい息子と二人ですごす中で、存在しなくとも、彼の存在は確かに大きいものだったのだ。
夫はまっすぐな人だ。忠実で、頭もいい。
だからきっと、何か考えがあるのだ。
妻である私が弱気になっていてどうするというのか。
「ロルフ」
呼ぶと、大きな目を輝かせて、息子がこちらに向かってかけてくる。小さく抱きしめると、嬉しそうに笑った。
「おかあさま?」
小さな手がスカートのすそをそ、っと握る。
「おとうさまは、いつかえってくるの?」
希望に満ちた目。確かに私を信じる瞳。
「そうね、きっと」
今は、祈ろう。
「今は悪い人を捕まえているから、終わったら、帰ってくるわ」
そう、私は信じている。
「偶然とは時にひどく残酷な運命を見せる」
男のつぶやきに、答えるものはない。
銀髪の男──アークライトの自室は、それはそれは豪華なものだった。王の計らいによって最高レベルの客人扱いを受けた奇術師は、優雅にヴァイオリンを撫でる。柔らかな手触り。つるりとした木目は光を反射するほどに磨き上げられ、アークライトの手にぴったりと吸い付くような感触は確かに持ち主を知っているかのようだ。
そっと窓に近づく。城の最上階。城の近辺が見える部屋がいいといったのは、アークライトの方だった。ここならば、城の庭も、街も、すべてを見渡すことができる。
活気のある街を見て、アークライトは苛立たしげに眉をひそめた。
「すべてを仕組んだわけでなくとも、物事は自然と美しい形を作っていくのでしょうね」
それはまるで砂でできた城のよう。
余分なものはそぎ落とされ、必要なものだけで集まり。そして。
少しでも力を加えられればあっというまにばらばらになってしまう。そんな、もろい存在。
「ヴェンツェル。貴方はとても勇敢な男だ。けれど判断を誤ると、取り返しのつかないことになる」
ああ、これだから。
実践から遠のいた騎士は、愚かな行動をとる。
「この国も、終わりが近いようですね」
静かなため息とともにこぼれた言葉は、じんわりと空気に溶ける。
アークライトは、どこか泣き出しそうな顔で、笑っていた。
「アルベールさんは、どうして騎士になろうと思ったんですか」
食糧調達も終盤に差し掛かったころ。荷物を抱えて家に戻る途中、ロランはぽつりとそう口にする。あどけなさの残る少年を横目で見て微笑みながら、アルベールは優しく答えた。
「そういう家系だった、というのもあるけれど、一番はやはり、大切な人がいたから、だな」
思い出すようにゆっくりと語られる記憶は、優しく、悲しい。
「ロラン、もし君がレティシアと再会したら、今度は必ず守り抜くんだ」
柔らかな、それでいて重たい言葉に、ロランはす、と目を細める。記憶を反芻しながら、少女の思い出を探る。非力な自分を呪い、強き者を恨んだ。それが意味のないものだと気付いたのは、ずいぶんと時間がたってしまったあと。
「決して逃げてはいけない。後悔するくらいなら、全力で相手にぶつかる。そうでもしないと、本当に大事なものをなくしてからでは遅いんだ」
愛する者を過去に置いてきてしまった青年の言葉は、重く、そして深い。ロランは苦笑して、荷物を抱えなおした。
「アルベールさんに、出会えてよかったです。ランフォードさんは本当に素敵な方たちに恵まれている」
「僕もランフォード殿に助けられたうちの一人。あの人を、姫様が気に入る理由もよくわかる。ほんとうに、」
────魅力的な人だ。
そう言って、アルベールは笑った。
暗い過去など誰もが持っているさ──そう、ランフォードは言った。その言葉は、孤独を知り、いくつもの悲しみを超えてきた人のそれだ。黒髪の騎士は、自分のことは決して語らない。彼が何を思い、どんな過去を持つのか、知る者はいない。それでも彼の言葉に説得力があるのは、ランフォード自身の存在感と、数多くの経験によるものなのだろう。
そんな彼が、珍しく焦っていることに、アルベールは気付いていた。興奮を抑えきれていない、獣のような荒々しさが隠れている。当然、気付く者は少ないだろう。けれど、彼の焦りこそが、アルベールに現実を見せていた。
「ロラン、急ごう。できるだけ早く、レティシアを救わなくては」
そう言ってわずかに歩調を速めたアルベールに、ロランは強い瞳で返す。
道中、彼らが無事でありますよう。
ロランは心の中で呟き、そっと少女に想いを馳せる。
再会したら、なんと声をかけようか。
その時までに、強くなれているのだろうか。
少女の笑顔を思い出し、つられるようにロランは少しだけ笑う。
そして、一瞬の悲劇が、起こってしまった。