Ausblenden Ⅴ
獲物を目の前にした獣の吐息というのはどこか荒々しく静かで、そして焦りと欲によって染め上げられた脳が理性との勝負に勝った瞬間にそれは一瞬の輝きとともに燃え尽きる。そんな絵に描いたような獰猛さをもった獣はすぐに賢者によって捕獲されてしまう。荒々しさは時として静寂に負けるのだ。静かな怒りほど脳を支配しうる凶器はない。そして冷気を含んだ静けさは狡さと賢さに彩られ、人の世に溶け込んでいく。
ヴェンツェル・エドゥアルト・アメルハウザーは酷く焦り、苛立ち、そしてよくわからない恐怖と寂しさに見舞われていた。何故このような行動に出たのか、自分で自分がわからなかった。ただ、彼は実直で、何があろうとも命令に従うタイプの人間ではなかったことだけは確かだ。彼は、己で考え、時として命令外の行動もとれる男だった。もし、彼が任務遂行のために仕事熱心にならなければ、あるいは変わっていたのかもしれない。
「(ラ・ファイエット閣下)」
すっかり太陽が昇りきった明るい空を見上げながら、まだ世界が闇に包まれていたときを思い出す。嫌な、夜だった。国に逆らった元騎士一行を追い、連れ帰るという決して楽ではない任務であったが、それでも人数では圧倒的に有利、ランフォード・ウィルヘルムは強いが、敵が彼一人ならば問題はないと、そうみな確信していただろう。
「(俺達も…なめられたものだ)」
下級騎士だったアルベール・エルヴェシウスが、ランフォードとほぼ変わらぬ実力の持ち主であったなど…誰も予想しなかっただろう。それどころか、ブルートローゼ国の騎士団は、見事に気絶させられてしまったのだ。こんなことがあってはならないだろう。それでも、騎士団長であるリシャール・クリストフ・ドゥ・ラファイエットが戦闘に加わらなかったことは、確かに敗因の一つであるように感じられた。何故か彼は、馬車に向かったきり、こちらには戻らなかったのだ。
ヴェンツェルは唇を噛んだ。何故信頼を寄せていたリシャールが、戦いに参加しなかったのか。それどころか、何故か彼はランフォード一行と共に戦場を後にし、こうして境界の町まで来ている。
「(きっと…何かお考えがあってのことだろう)」
ヴェンツェルはひどくまっすぐな男だった。騎士として国に仕える身分であった家柄のためか、穢れをしらぬ危ういまでの白さをもっていた。ふらりと現れた異邦人であるランフォードの方が位が上などと、はじめは受け入れることはできなかった。それでも団長が決めたことならと、リシャールに忠誠を近い、今日まで真面目に働いてきたのだ。
裏切られた可能性を、捨てきれたわけではなかった。それでも、自分だけでも彼を信じなければ、逆賊を捕らえることなどできない。そう思っていた。どちらにせよランフォード一行は死罪なのだ。その判決が変わることなどない。国の意向は絶対だった。
「(あれは…?)」
一行を追って町まで来たものの、彼らはばらばらに行動していた。リシャールを追い、気づけば一軒の家にたどり着いていた。彼らの様子をひそかに見張っていたものの、しばらくして家から出てきたのはアルベールと少年、そして一人の女と、ランフォードだった。リシャールは現れない。まさか、彼は幽閉されているのではないか──そんな考えが浮かび、ヴェンツェルはじっとしていられなくなる。
スパイとして彼らについていき、最終的に不安視した彼らに幽閉されたか。考えうる最悪の状況だが、やつらがばらばらになった今こそ行動すべきだと、ヴェンツェルは思う。中に入ることも考えたが、様子がわからない敵地に入りこむのは危険だ。ならば…
「(ウィルヘルム殿に勝てる気はしないな…できるだけ有利に立てるほうがいいだろう。女の情報は不確かだ。仲間でない可能性もある。となると…)」
顔見知りで、なおかつ一行だと判明しているアルベール。そして、彼についていった少年。おそらく彼がロランだ。ならば。
「(はじめから、ロラン狙いでいけば、あるいは)」
彼らを降伏させ、国に連れ帰ることもあるかもしれない。
当然、アルベールに反撃させることも考慮しなければならないが、ロランさえこちらの手にしてしまえば流れを変えることはできるかもしれない。緊急だ。自分が動かなければ、何も変わらず、リシャールの身の安全も確保できるとはかぎらなくなる。そこまで一瞬で考えると、ヴェンツェルはゆっくりと息を吐き出した。今回は、単独の戦いだ。こんなことは今までなかった。
瞳を閉じれば、国で待つ妻と子の姿が瞼の裏に浮かび上がる。まだやんちゃの盛りだ。今自分が、死ぬわけにはいかない。
「(閣下…かならずや、逆賊を捕らえてみせます)」
胸に誓うと、そっと物陰から移動する。
茶色の髪をなびかせて笑うアルベールと、小柄な少年を目指して。
ヴェンツェルは、駆けた。
「Nur wer die Sehnsucht kennt,Weiß, was ich leide!」
太陽の届かぬ暗黒の世界で、少女は唄う。
「Allein und abgetrennt」
少女とよく似た少年も、重ねて唄う。
「Von aller Freude,」
「Seh' ich ans Firmament」
闇にこだます声は、冷たく美しい。
「Nach jener Seite.」
ざわざわと異形の気配で満ちた空間で、心底楽しそうに唄う二人は、机に広げられたチェスの駒を弾いて遊ぶ。
「Ach! der mich liebt und kennt,」
「Ist in der Weite.」
蝋燭の炎が揺れる。闇色のワンピースから覗く白い足は、リズムをとるように動く。
『Es schwindelt mir, es brennt』
ざわめきが叫ぶ。
『Mein Eingeweide.』
少女も少年も、ざわめきに答えるかのように唄い続ける。
「「Nur wer die Sehnsucht kennt,Weiß, was ich leide! 」」
張り上げた声は、じくじくと世界を浸食した。