Ausblenden Ⅲ
「あの、」
無事に馬を売り、資金を得ることができたアルベールとオデットは、二人でランフォードに指示された家に向かっていた。
二人は元々面識がない。微妙な空気が流れるのは当然だった。
オデットは眉間にしわを寄せたまま睨むように地面を見つめていたし、アルベールは考えこむように空を仰いでいた。
だからこそ、アルベールが言葉を発したとき、オデットはひどく驚いたのだ。高めのテノールが耳に届く。
「何故、僕が黒なんですか。」
アルベールの表情は堅い。オデットは少しだけ目を細めると、ふ、っと笑った。妖しい、笑みだった。
「何、もしかして気にしてた?」
アルベールの脳裏には、オデットの屋敷へ行ったときに出されたカクテルが映っている。薄暗い黒。味は甘い蜂蜜だった。それなのに、色は何処までも染まらぬ黒。酷く暗い、暗澹とした、
ほかならぬアルベールには、最も似合わない。太陽のような暖かい光、蜂蜜色のような彼とは正反対の、黒。
「深い意味はないわ…気にしないで?味は普通だったでしょ?」
そう明るく言うオデットは、視線をアルベールには寄越さない。
「…シャルロッテ姫は紅、ランフォード殿は青、そしてラ・ファイエット閣下は緑、貴女は白。そして僕が、黒。」
くすり、と、オデットは笑う。
アルベールは静かに立ち止まった。
ざわりと、風が鳴る。
「僕はあれからしばらく考えた。これは仮説ですけど…シャルロッテ姫が紅であり、ランフォード殿が青であるのはあの方達の指輪の色であると考えられる、それがあの方達を守る色であるかぎり、貴女がその色を選ぶのは必然。そしてラ・ファイエット閣下が緑なのは、光の三原色だから。シャルロッテ姫が紅で、ランフォード殿が青ならば緑が閣下なのは自然の流れです。そして…相反する黒と白が僕と貴女、そのことが何も関係しないとは言わせません。」
アルベールの瞳は鋭くオデットを射ぬく。今の彼は、どこか昔を思い出させる。団長だった頃の、あの、
「…そうね、あれはあまりにあからさますぎたかもしれない。」
オデットは可笑しそうに笑った。金の瞳が猫のように細められ、振り向くと真っ直ぐにアルベールを見つめる。金と蜂蜜がぶつかる。空気が振動する。
「でも大丈夫、あたしの読みは当たったの。貴方は本物だった。」
オデットの紅い唇が、歪む。
「本、物、」
言葉を噛み締めるようにして繰り返すアルベールの瞳は、暗い。
「何も気にすることはない。いずれ、すべてがわかるから。」
少しだけ寂しそうに笑ったオデットの黒髪が、ゆらゆらと風に踊っていた。
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「貴方が、ロラン、なの…?」
カントリー調の室内は、温かな色合いでまとめられており、外見と同じくとてもかわいらしい作りになっていた。薄いレースで出来たカーテンは風に踊り、小さな林檎の形をした小物や硝子の靴のモチーフが小さな机に飾られている。家具はすべて木で出来ていて、手で触るとさらりとした木の匂いがした。
テーブルに向かい、シャルロッテ、ランフォード、そしてリシャールは、ロランと名乗る少年に出された紅茶を飲みながら静かに空気を味わっていた。まだ少年の声は甘く、そして涼やかに耳元を掠め、どこか人を安心させるようだった。シャルロッテは暖かな紅茶にため息を漏らしながら、そっとつぶやいた。
「ここは幸せで満ちているわ。ねえロラン、わたしは貴方のことを、このランフォードづてにしか知りません。どうか貴方のお話を聞かせてくださいませんこと?物資の調達はそれからでも遅くはないはずよ。」
深い蒼の瞳はわずかな揺らぎを見せる。その奥には、“家族”というものへの憧れか、兄の面影か。どちらにせよ、シャルロッテはこの少年をひどく気に入っていた。
「ロラン、この姫様は好奇心の塊みたいな方だ。差し支えなければ話してほしい。それに、閣下には君の事はあまり話していないしね。協力してもらうのだから、お互いのことは信頼できたほうがいいだろう。」
「ランフォードさん…そうですね!あまり面白くはないですけど…姫様、どうかお聞きください。」
「ありがとう。」
シャルロッテは優しく笑った。
「僕は、実はフィリーネ出身ではないんです。幼い頃の記憶は曖昧ですが、どこか遠い、海のある街で生まれたのだと思います。」
──数年前。港町
「ロラン、待って!」
銀色の髪を躍らせながら、小さな少女が輝く太陽を背に丘を駆け上がった。潮の香りを含んだ風は草木を揺らし、爽やかな冷たさがほてった頬に気持ちがいい。丘に座り込む少年に追いついた少女は、肩で息をしながらころころと鈴を鳴らすように笑った。
「ねぇ、ほら、あそこ!」
少年は少女を見ることなく、海の向こうを指差した。
遥か遠くに、帆に風を受けながら進む大きな船が見えた。途端、少女は笑顔になる
「あれ、おとうさまの船なの?」
「そうだよ。帰ってきたんだ!」
少年は立ち上がると、遠くに見える船に向かって大きく手を振った。少女もまけじと手を振る。ふたりでぴょんぴょん跳びはねながら、大きな船と太陽を輝く瞳で見つめていた。
*
「僕には友達がいました。銀色の髪の、かわいらしい女の子です。僕と彼女の父親はよく外国にいく商人で、たまに帰ってきては面白いものをたくさん持ってきてくれたのです。」
語るロランの瞳は優しい。
「珍しい食べ物、綺麗な石、新しい技術…僕たちの父は町の英雄でした。それが…」
その瞳が、ふいに揺れる。
「ある日、壊れてしまったのです。」
*
「ロラン!」
銀の髪の少女は走る。よろめきながら、解けたリボンを気にすることもなくただ走る。彼女の瞳は恐怖によって見開かれていた。彼女はいつもの丘に小さな背中を認めると、速度を落として溜め込んでいた息を吐き出した。瞳に涙がにじむ。もう、限界だった。
「ロラン…!」
少年は振り返ることなく、ただじっと、夕陽の沈むさまを見つめていた。町の喧騒と離れたここは、不気味なほどに静かだった。
「ロラン、たすけて、お母さんが…!」
少女が彼に近づく。ゆっくりと視線を合わせた少年の表情は、絶望そのものだった。
「え、」
少女は目を見開く。少年はただ一言、静かに、と言った。
*
「僕たちの父を乗せた船が海賊に襲われたのです。そのまま彼等は船員を皆殺しにしたあげく、そのまま町に入り込みました。いつも通り帰ってきたのだろうと、まったく警戒しなかった町の人は次々に襲われ…僕の母も、彼女の母も連れ去られてしまいました。そこで…」
ロランは、ふと目の前の黒髪の男に視線をそらす。
「ランフォードさんに、あったのです。」
*
「いいか、少年。こいつらは子供を狙ってる。連れ去られたくなかったら町の隅までいくんだ。ここには丘があるだろう?そこでしばらく身を隠せ。」
あちこちで広がる炎によってあつくなった風に黒髪を躍らせ、灰色の瞳の青年はにやりと笑う。
「大丈夫、かならず助ける。」
*
「そして僕は、彼女とともに丘にとどまることにしたのです。けれど…」
*
「こんな町はずれなんかにゃだれもいねぇよ!」
「けどボスがこっちに子供が逃げたっていってたんだから捜すしかねぇだろうが…」
「ちっ…めんどくせぇ…」
がさりがさりと草を掻き分ける音。無遠慮な侵入者に、少年達は息を殺した。どくどくと心臓が鳴る。向こうに聞こえるのではないかと思えるほどに、全身の血液が沸騰しているかのようだ。近づいてくる音に、ぎゅっと目をつぶった。頭の中で鳴り響く警報。そして。
「みーつけた。」
眩しさに目をあけると、そこには。
手にしたランプを掲げて汚らしく笑う、汚らわしい男二人。
*
「僕は抵抗しました。彼女を守るのに必死だった。向こうはナイフを振り回していて、敵うはずはありませんでしたけど。」
*
「ちっ…めんどくせぇなこの餓鬼。そこのお嬢ちゃんだけ連れていきゃいいんじゃねぇのか?」
「…それもそうだな。おらいくぞ!」
所々傷つけられた箇所から血が滲んで、視界が霞んでいく。目の前で泣き叫びながら男達に抱えられる少女に無意識に手をのばすも、力が入らずすぐにだらりと地面にたたき付けられた。
最期に聞いたのは、彼女が必死に自分を呼ぶ声。
*
「そして意識を失った僕を見つけてくれたのは、ランフォードさんでした。街の人はほとんど連れ去られ、殺されていました。残された人々も、傷だらけでした。でも、両親を失った身寄りのない僕はランフォードさんに救われたのです。それからあちこちを経由して、ランフォードさんの役に立つのならと、僕はこの街に留まることにしました。ここならば国と国の境目ですから物資や情報も流れてきますし、安定した生活が保障されたからです。と同時に、もしかすると彼女の行方がわかるのではないかと思っていました。少し後悔しています。僕がもう少し強かったら、彼女を失わずにすんだのに。もしもまた会えるのなら、きちんと謝りたいのです。」
ロランは自嘲ぎみに笑った。ランフォードはきっと悔いているだろうとシャルロッテは思う。彼がもしその場に留まっていれば、少女は連れ去られることはなかった。けれど、そうすれば街の人々はだれひとり助からなかったかもしれない。どういう経緯にせよ、彼がその場に居合わせた以上、なるべく多くの人を助けたはずだ。
「俺はあの時とある任務で彼等の船に潜伏していたんですよ。そしたら彼等は他人の船に乗り移りはじめた。どういうことかとついていってみれば……もし一人でなかったら、もっと多くの人を助けられたかもしれません。これは俺の罪の一つだ。」
ランフォードの独白に、ロランは力無く笑った。
「いいえ、貴方のおかげで僕はこうしてここにいる。本当に感謝しているんです。」
シャルロッテは、静かに瞳を閉じた。名もしらぬ少女に思いを馳せる。せめてこんな状況でなければ、一緒に探してやれたものを。
「ねぇ、その女の子、名前はなんていうのかしら?」
ロランは、穏やかに笑った。
「レティシア。レティシア・アントワーヌ」
歌うように紡がれた名前に、シャルロッテは驚きのあまり目を見開いた。
「レティシア!? レティシアですって!?」
「嘘だろ…」
ランフォードの顔色が変わった。
「え、なんです? まさか彼女を知っているんですか!?」
空気がゆらぐ。心拍数が上がる。
「知っているもなにも…彼女は王室付きのわたし専属の使用人よ…!」
ロランの瞳に映るのは、あの日の彼女の最後の笑顔。