わたしの尻尾
風吹き抜ける廊下を駆け抜ける。
階段の手すり掴んで一段飛ばし。
午後の踊り場に光溢れる。
そして、たわわな尻尾が波を打つ。
オオカミのような、イヌのような、毛並みの豊かなひと房がわたしの腰から生えている。
正直、つらい。早く抜けてしまえ。クラスメイトたちの尻尾は次々と抜け落ちて、オトナへのステップを登り続けているというのに、わたしだけは未だに尻尾が生えたままなのだから。
×××××
朝の支度を整えながら、テレビの血液型占いをチェックをする。人間を四通りに振り分けるんだから、占う方も気楽なものだ。とりあえず誰かはよくて、誰かが悪い。それでわたしたちは納得をする。
「なんだってー?O型は最悪なの?ラッキーアイテムは『身近な人』って何?」
朝っぱらからテンションをどん底に陥れるメディアに文句を言いながら、わたしはわたしで制服のスカートを履き、尻尾穴に納めるとスカート上部をクリップで止める。身体をねじって腰から生えた尻尾を自らの目で確かめると、山奥でひっそりと見つかった滝のように光って見えた。ゆらりゆらりと動かす意思もないのに揺れている尻尾を見ていると、占いが呼んでいる凶事を吹き飛んでいくような気がしてきた。きょうも毛並みがきれいだ。
ブラシは滑らかに毛並みをとき、絹のような毛先がきめ細やかに光る。手触りは高級ホテルのソファーのよう。結構気にって入るのだろうか、この尻尾……と、ふと思いもしない感情がよぎる。吹っ切ろうとテレビに目を移すと、移り気な彼は『新作ゲーム発売に行列!』と、のほほん顔で次の話題を報じていた。
「綾の尻尾はきれいだよね」
「からかわないでよ……」
中だるみな中学生二年のわたしは、大学生の姉からからかわれた尻尾のことが気がかりでしょうがない。一年生は新入生の緊張、三年生は受験の緊張、しかし二年生はとくに気にすることがないので中だるみになるのだ。と、担任教師からお叱りをこの間受けたばっかりだ。なるほど、オトナのいうことはなかなか筋が通っていてむかつく。わたしの目の前にいるオトナ、他の言葉で言い換えれば『姉』という人物。彼女の言うことも担任と同じように反論が出来ないことが非常に悔しい。どうせ、きれいでスイマセンだ。
しかし、学校へ行けば男子からどうせからかわれるんだから、慣れっこなのだ……だなんて、自分で自らの精神を蔑むのはどうやら悪い癖らしい。男子は尻尾を持たないから、わたしたちの尻尾のことなんか「おもちゃ」程度ぐらいしか思っていないんだろう。小さな頃はよく男子から摘まれたりされたっけ。
早く尻尾が落ちてくれれば、早く尻尾穴の無いスカートを履くことが出来るようになれるのに。さっきまで心地よく触っていた尻尾のことが何だか疎ましく感じた。自分の存在のように。
「今度、尻尾用のシャンプー探してきてあげようか?」
「いらない!」
「むにーっ」
あまりにも姉がうるさいので、予定よりも早く家を出る。台所から母親が何かを話しかける。だけど、この部屋に居ることは少し苦痛になってきたので失礼。
玄関へ廊下を歩いてゆくと、いつもはなんとも感じない尻尾が不思議と重く感じ出した。
「行ってきます」の挨拶の後に見られる光景は、尻尾を揺らしながら駆けて行く女子小学生の群れだ。彼女らは『尻尾落ち』の時期を迎えることを何も考えていないんだろう。赤いランドセルを揺らしながら、波打つように朝の風に乗って彼女らは尻尾をなびかせる。
『尻尾落ち』。わたしたち女子の腰から生える尻尾が、ある年齢になると自然と抜け落ちること。
『尻尾落ち』の原因は良く分かっていないと聞く。学校の保健の先生も、ネットで見つけた偉い大学病院の先生の話でも、揃って言葉を同じくするというので間違いない。身体の性徴の現われだとか、精神的な構造だとか、環境のためだとかと聞くが原因の決定打が見つからないことが現状。原因を突き止めることが出来ればノーベル賞ものだそうだ。
田舎に住む同い年のいとこは、ついこの間『尻尾落ち』があり、家族揃って『尻尾送り』を行ったと聞く。
広い庭を持ついとこの家では、落ちた尻尾を供養するために『尻尾送り』の儀を行っている。それを知らせようと、ピースサインをして『尻尾送り』の風景の写メを送ってきたいとこは、少し清々しい笑みを浮かべていた。
古い田舎では家の女子が尻尾を落とすと、母なる土に帰るという意味で各家庭の庭に埋めてやる。家長が穴を掘り、尻尾を落とした女子と母親が小箱に納めた落ちた尻尾を穴に入れる。そして家族全員が揃って土を被せて儀式の終了というわけなのだが、わたしの住むような街ではいかんせん庭がない。神社の境内を借りる家もあると言うのだが、家の場合はきっと田舎の本家で行うのだろう。まあ、『尻尾落ち』の時期が来ればのことだが。
風が吹く。暑い夏を少しでも忘れさせようと、わたしたちを冷やす。
尻尾も同じように風に乗る。一度落ちた尻尾は、もう二度と戻らぬ。
もしかして、尻尾で風を感じる夏は今年で最後かもしれない。根元から揺れる尻尾、毛並みの隙間を縫うように空気がすり抜ける。わたしはけっして尻尾が落ちることはないんじゃないんだろうか、と言う不安。もちろんそんなことは誰も知らない。杞憂かもしれない。
『杞憂』と言う言葉は、天が落っこちてきやしないかと不安になった男のことを元に生まれた言葉らしいが、わたしは尻尾が落ちなくて不安になっている女だ。今ここで、『杞憂』の男と出会ったら、少しだけ彼の気持ちが分かる自信がある。そうか、朝の占いもわたしや彼のような「どうでもよい悩みごと」を吹き飛ばしてくれる為に存在しているのだ。
「綾ー!忘れ物!!」
背後から聞こえるのは、今朝わたしの尻尾を「きれい」だのとのたまわったオトナだ。
化粧っ気のない姿、色気と無縁の髪型。何もかも諦めたオトナこそ、わたしたち青少年の憧れや希望をそぎ落とす厄介な存在だと、この姉にはやく気付かせてあげたい。
息を切らせてわたしにすっと差し出したものは、お弁当箱だった。
朝、ばたばたと玄関に急いだもんだから、お弁当箱の存在をすっかり頭から飛ばしてしまっていたのだった。水色の布に包まれたお弁当箱のさわり心地は、わたしに人の温かさを教えてくれた。
「ごめん……ありがとう」
肩で息をする姉の姿に尊敬はできなかったが、この朝に出会った者の中でいちばん格好よかった。
「ねえ、大学の授業……始まるんでしょ?」
「大丈夫!一限目は出席しなくても、試験さえよければ単位くれるから。それに、きょうは初回限定版の予約開始日なんだよね!」
「もしかして、朝テレビで紹介してたゲームの……?」
わたしの問いかけに微笑み返しをする姉は、自分が誉められたかのような得意気な顔をして、くるりと踵を返した。彼女の身体を追い駆けるように姉の尻尾が回る。姉も『尻尾落ち』を体験していない。しかし、わたしのような悩みの片鱗を見せることはない。
「早く予約をしなければ」とか「ネット予約もいいけど、店頭予約の方が実感湧くんだよね」と、子どもじみた言い訳をしながらわたしの側から駆け逃げる。
オトナを拒否した姉の尻尾は、何故か誇らしく瞳に映った。
おしまい。