番外編 クレオメの花言葉は『秘密のひととき』
※この話は十二話と十三話の間の出来事になります。
王城の一室で目を覚ましたアルベルトが、謁見の間に向かうために支度を整えていた頃。
アレクシアとレナードの二人も、無事レナードの私室へと戻ることが出来ていた。
元来た道を慎重に引き返した彼らは、部屋に入るとベッドの側に置いたアレクシアの姿をした幻影魔法を消し、手早くベッドからクッションを取り出し、元の位置に戻した。
柔らかな朝の光が、場違いなほど清々しく差し込んでいた。
そうして偽装を解き、レナードの目覚めを王に知らせ、「しばらくリストニア侯爵令嬢と二人で話がしたい」と時間を作った。
扉をぴっちりと閉め、さらに防音機能搭載の隠匿魔法までかけた上で、ようやく二人は息をつく。
「あ〜……感謝しすぎて音を置き去りにするかと思った……」
「あら、懐かしゅうございますわね。わたくしも好きな漫画でございましたわ」
扉を閉める前に城に仕える侍従から受け取っていたトレーを、アレクシアが部屋の中央にあるテーブルに置く。白い陶磁器のカップに注がれた紅茶と、丸い焼き菓子が乗っていた。
「昨夜から何も口にされてらっしゃいませんでしょう?よろしければ、お召し上がりになって」「あぁ、ありがとう。喉もカラカラだよ」
「ふふっ、わたくしもです」
二人でテーブルにつき、紅茶を口にする。神妙な顔でレナードがカップを見下ろした。
「これ、飲んでも大丈夫なんだよね……」
「この状況で殿下に毒を盛るメリットはございませんわ」
「それもそうか」
また一口飲む。
それから焼き菓子を口に運んだ。
「さっきは時間がなくて言いそびれていたけれど。改めて礼を言うよ、リストニア侯爵令嬢。まさか本当に……本当に同じ時間軸の同じ趣味の転生者がいるなんて……」
「わたくしも同じ気持ちですわ。殿下があの時、お兄様とクリストフ殿下がお二人でお話しをされている時に『クリアルが…!』と小声で叫んでくださらなければ、同志の存在に気付くことは出来ませんでした」
それは、舞踏会の夜の出来事だった。
ワルツを踊り終えて王のもとへ戻ってきた二人は、互いの兄の不在を知った。聞けばゆっくり話をしたいと、ヴォルフガングを護衛に残しバルコニーへ向かったのだという。
アレクシアはすぐにピンと来た。複雑に絡み合う王城の陰謀ルートに存在する、クリストフの好感度アップイベントだ。
ただしこのイベントは、「負けイベ」とも呼ばれている。返答が選択肢ではなく、入力式だからだ。運営側があらかじめ指定したワードを、クリストフとの会話の中で整合性を持ちつつどれだけ自然な流れで入力出来たか、で点数が決まる。なお、こちらを試すようなクリストフの台詞に対し、肯定的な返答をしても否定的な返答をしても全てマイナスになるという噂が存在している。じゃあどうすりゃいいんだよ、である。
そんな高難易度のイベントを前にして、アレクシアの胸中は落ち着いてなどいられなかった。理由は一つ、それがとある激レアイベントへの分岐の一つだったからだ。そしてさらに言うなら、もし彼女の兄が万が一にもここで満点を叩き出すような逸材であるのなら。
おそらくクリストフは、アルベルトに落ちる。
急な坂道を、転がるように。
それが機械仕掛けの神の仕業なのか、それとも見えない引力(脚本)のようなものなのか。それはアレクシアにも分からない。
けれど。
『外』ではなく『内』に生きる者たちからすれば、それはきっと。
運命と呼ばれる何か、なのだろう。
バルコニーに視線を向けたアレクシアは、兄の姿を思い浮かべた。
ソシャゲ版のアルベルトと同じように、気高く、慈悲深く、温かい。そしてどこか、可愛らしい人だ。一応今は年上となった男性に抱く感想ではないのだが。
アレクシアが知るソシャゲ版アルベルトは、時折儚げな印象が混ざることがあった。
もちろんそれはそれで最高なのだが、この世界で共に生きるアルベルトは、もう少し朗らかだ。例えば、アレクシアの舞踏会のドレス選び一つとっても、妹の為と言うよりも、当人が一番楽しんでいるという雰囲気があった。
だからこそアレクシアも気兼ねなく、あれもこれもと試着出来たのだ。
ソシャゲ版だとドレス選びについては「アルベルトはタウンハウスに仕立て屋を呼び、アレクシアに最も似合うドレスを選んだ」の一文で終了している。だからまさか、兄からダンスの誘いを受けるなど想像もしていなかった。今思い返してもあそこで自然な流れでヴォルフガングとアルベルトのワルツを見られるように仕向けられたのはグッジョブと言える。ベストワークアワードがあれば、確実に一位だ。あの場で猿叫を上げてトルソーを兜割りしなかった自分を褒めてやりたいとアレクシアは思っている。
それは、さておき。
表面上はいつもの顔で、アレクシアは広間の壁際にある丸テーブルに腰を落ち着けた。ヴォルフガングが給仕を勤める。「ヒンッ!ヴォルフガングが淹れたお茶!お兄様にも飲ませたい!」と心の中で絶叫していると、すぐ隣から「……ヴォルフガングが淹れたお茶!」と小さな悲鳴が聞こえてきて。
……おや?と思った。
何気ない会話をしながら観察していると、第二王子レナードはどうにも自身の兄クリストフが向かったバルコニーの様子が気になるようだった。
それは隠そうとはしているものの、兄を慕い心配していると言うよりも……。
「あの時僕がうっかり溢してしまった『クリアル』の単語に、君が『このとわですか?』と返してくれたからこそ、今がある。君に心からの感謝を」
「正拳突きなさいます?」
「それはやめとく」
二人で微笑み合い、紅茶を一口。
「それにしても、まさか兄上が一瞬でリストニア侯を名前で呼び始めるようになるとは。あの人、ああ見えて結構疑り深いのに」
「それほどの難易度ということなのでしょう。舞踏会でのお二人の会話イベントは重課金すれば高得点が取れてクリアルベストルートにも入れる仕様ですが、その場合は今回わたくしたちが目にした超激レアイベント『終わりと始まりの雨』は見られない決まりのはず」
「会話を終えて戻ってきた二人を見た時の君、相当驚いていたからね」
「殿下こそ。しかしその後の呪の発現の際、意識を失う最後の瞬間にわたくしに意志を託されたのは本当にさすがでした」
「そりゃあ、隣で『ひょっとして……あの激レアイベントが見られる!?』なんて震えてる人がいたらね」
この時にはアレクシアもレナードも互いに『同じ世界の同じ嗜好』の人間だと気付いていた。
「ソシャゲ版『このとわ』こと『このとゲ』の醍醐味は、頻繁なアップデートによって生み出された膨大なシナリオと分岐でございました。それをいざ自分の身に降りかかってみると、予想通りにストーリーが進まない、『知らないルートてんこ盛りの、直前まで何が起きるか分からない世界』になるとは。ひょっとするとわたくしたちがいた世界も、わたくしたちが知らずにいただけで同じだったのかもしれませんわね」
「……わぁ、怖い……」
「神の見えざる手、とはそうしたものなのですわ、きっと」
音もなく、アレクシアがカップをソーサーに置く。
「殿下が前世を思い出されたのは、いつですの?」
「今の君くらいの年齢の頃かな。落馬してね。頭を打った瞬間に思い出した。君は?」
「わたくしは……」
問われて、アレクシアは自身のあの日の記憶を思い返した。
「殿下はご存知でしょうか、アレクシアには死亡ルートがあるという話を」
「好みのシナリオじゃなかったからプレイはしていないけど、一応はね。かなり後になって実装された、魔物討伐隊の荷物にこっそり紛れて襲われる話だ。一度入ってしまうと回避不可な上にアルベルトが唯一闇堕ちするルートだからファンの間でも賛否両論で……、て」
レナードの目が驚きに丸くなる。
「ご想像通り。わたくしは、その瞬間に前世を思い出しました」
「……よ、よく生きてたね」
レナードが驚くのも無理はない。アレクシアの知識の中でも、あれは絶対に不可避のバッドエンド一直線ルートだった。
「間一髪のところでヴォルフガングに助けられまして。わたくしの不在を知ったお兄様が必死で探してくださっていたそうなのです」
「なるほど……」
「運営側が後日回避ルートをアップデートする予定だった?それとも『この世界を生きる』お兄様は、それを回避できる能力があった?…どちらなのかは分かりませんけれど、結果として、わたくしは生き残りました。……ある意味では、あの日まで生きていた『アレクシア・リストニア』は死んだのかもしれませんが。…だって、別人の記憶があるのですもの」
異なる二つの記憶が同時に存在すると言うのは、なかなかに厄介なものだ。言語は自然に切り替えが出来たとしても、感情はそうはいかない。
「その気持ち、分かるよ。僕も兄上が側にいなければ、かつての僕の人格に引き摺られていたかもしれない」
「還暦の腐紳士の?」
「そう。勤め上げた会社で再雇用中だった、給与の半分をソシャゲとBL同人誌に注ぎ込んでいた腐紳士の」
冗談混じりの言葉に、アレクシアも「ふふ」と笑う。
「クリストフ殿下のこと、お慕いされてらっしゃるのですね」
「家族としてね。側で見てきて、弟として支えていきたいと思っているよ」
「……わたくしも同じです。『このとわ』は、媒体によって設定に違いがありますから、ソシャゲしか知らないわたくしには、わたくしが見ているお兄様がどの媒体のお兄様なのかは存じません。けれど、わたくしにとっては今ここにいるお兄様こそが本物の『アルベルト・リストニア』なのですわ」
その言葉は力強く、何より輝かんばかりの愛に満ちていた。
そしてその気品溢れる表情のまま、彼女は続ける。
「しかしながら、それはそれとして。可能な限りオリジナルイベントの発生やスチル回収には努めたく」
「オリジナルイベント?」
やはりレナードはそこが引っかかったらしい。アレクシアは、ほんの少しだけ自慢げに「ええ」と口元を引き上げた。
「舞踏会の準備の折お願いして、お兄様とヴォルフガングお二人のワルツを鑑賞いたしましたの」
「はっ!?えっ!?そんなイベントあった!?なにそれ、ずるい!!!」
ガタリと椅子から立ち上がるレナードを、どうどう、とジェスチャーで落ち着かせ、お代わりの紅茶を注ぐ。
目の前の美少年が渋々座り直したのを確認してから、彼女は再び口を開いた。
「ですからオリジナルイベントなのです。正確には、シナリオでは一文だけだった出来事が拡大した結果と申しますか……。殿下にもお心当たりがあるのではなくて?」
「た、たしかに……。設定だと兄上は単に『婚約者はまだいない』程度だったけど、実際はよく父上と『生涯を共にする者は自分で決めたいのです』って揉めていたよ」
「なにそれ!それでお兄様に落ちるとかドチャクソメロいんですけど!!」
ガタリと立ち上がったアレクシアに、今度はレナードが彼女のカップに紅茶を注ぐ。
自身の言葉遣いに気付き咳払いをしたアレクシアが、「失礼いたしました」と腰を下ろした。
そうして二人で顔を見合わせて、テーブルに突っ伏す。
「「…………全員、尊いっ!」」
お互いの嗜好を確認した結果、アレクシアは『ヴォルフガング×アルベルト』固定(ただし兄アルベルトの意思を最も尊重する)で、レナードは『クリストフ×アルベルト』固定(ただしクリストフ腹黒ルートは避けたい)であることが判明した。
カップリングが別れてしまったのは残念だが、許容範囲ではあるだろう。二人とも最終的には「ハッピーエンドなら良し!」なのである。
その後は情報交換が緻密に行われた。観たかったシーンやイベントを語り合う。ヴォルフガングの日常の忠犬エピソードを聞くたびに、レナードは「これ、兄上巻き返せるかな〜」と頭を抱えていた。
そろそろ王からの呼び出しがくる時間だ。アルベルトの方にも、同じ知らせが行くだろう。
最後の紅茶を飲んだところで、アレクシアがため息をついた。
「せっかくお会いできた同志なのですけれど……。辺境の侯爵家と王家。お兄様がこのまま領地に戻ってしまえば、今後王都に参る機会は多くはございません。それはクリアル派のレナード殿下にはお辛い現実でございましょう」
その言葉を聞いて、レナードはテーブルに額を押しつけモゴモゴと呟いた。
「それなんだけど……、ごめんよ、僕は多分ここで脱落だ……」
「あら?何故ですの?」
「母上が謀叛人なんだよ?一族全てが処刑される。当然、僕も」
それは、抗いようのない残酷な事実だった。王家に対する反逆は、つまりは国家転覆罪。かつてのレナードが生きた平和な世界でも似たような罪状があり、そこでさえも死刑だったと記憶している。
「せっかく『このとわ』の世界に生まれたのに……腐の夢だった『壁』になれるのに……」
「わたくしもですけど……なぜ人は腐ると壁になりたがるのでしょうね」
レナードの嘆きに、アレクシアは「よしよし」と金褐色の柔らかな髪を撫でる。
それから「でも」と優しく声をかけた。
「大丈夫ですわ。だってお兄様がいらっしゃいますもの」
「……えっ?」
「わたくし、お兄様を信じておりますから。……ご覧になられました?お兄様の手。いつも回復が追いつかないほどたくさんの傷がございますの。……見えないだけで、きっとお身体のいたるところにも」
アレクシアは考える。自分がもし、設定上のアルベルトのような『チート』を持っていたとして。実際に魔物たちと毎日、毎日、終わりなき戦いを繰り広げられるだろうか、と。
答えは、否だ。
兄には『王やレナードの盾になる』と意気込んではみせたが、昨夜の広間の戦いではあまりの恐怖に一歩も動けなかった。
あんな恐ろしい存在と、兄は戦いを続けているのだ。
アレクシアを、人々を守るために。
しばらく前。
アルベルトが行方不明になっていた時期があった。あとになって本人に聞いた話では、バジリスクを討伐していてうっかり地下の古代神殿に落ちてしまい出口を探して彷徨っていた、とのことだったが。
見つかるまでの間、リストニアからは太陽が消えてしまったかのようだった。
当然アレクシアもまともな食事など取れず、げっそりとやつれていった。
——どれほど経ったか。
ある日、城の正門がにわかに騒がしくなった。嘆きと喜びが一気に爆発したかのような、感情のうねりが空気を震わせていた。
『閣下が……!?』
早朝だった。
顔色を紙よりも白くした侍女が、騎士からの知らせを受けてそのまま卒倒した。
夜着のまま、上着も羽織らず、靴も履かず、アレクシアは部屋から飛び出した。
ああ!ああ!お兄様!どうか、女神様!あの人をわたくしから、ヴォルフガングから、リストニアから奪わないで!
そんなことを叫びながら走っていたように思う。
外に出ると、昨夜からの雨で地面はぬかるんでいた。
——けれども空は。
嘘のように、晴れていて。
地平線から上る太陽を背に、馬上のヴォルフガングが手負の獣のような気配を纏ったまま。
意識のないアルベルトを、抱いていた。
『……お、兄様……』
騎士団の者たちも、ヴォルフガングの気配を恐れて誰も近付けない。
だがこの時のアレクシアはそれが出来た。兄への愛が、剣聖が放つ殺気という恐怖に優っていた。
アルベルトは全身に傷を負っていた。特に右足からの出血がひどい。顔色も、まるで血の気を感じられなかった。
けれどもアレクシアには分かった。ヴォルフガングがまだ、かろうじて正気であったから。
『……生きて…らっしゃるのね』
問いかけると、そこでようやくヴォルフガング自身もここがリストニア城であると気付いたようだった。
ゆるゆると、顔を上げる。
母を探す幼子のように視線を彷徨わせ、腕の中のアルベルトを見つけ、何度も縋るように抱きしめる。
それから、静かにアレクシアを見つめ。
アルベルトを探し、名を呼び続けて枯れ果てた喉から、最後の一欠片の様に声を絞り出した。
『っ…、生きて、おられます……』
アレクシアは、彼が涙を流すのを初めて見た。
どれだけ課金しても、そんなルートはどこにもなかった。噂にも聞かなかった。
アレクシアも、声をあげて泣いた。
ここはゲームの世界ではない。リセットなどない、死の危険が常に薄皮一枚隣にある世界。
それをこの瞬間になって、本当の意味で受け止めたのだ。
「お兄様はいつも、誰かのために行動なさいます。それがいかに困難であるか、『大人であった』わたくしたちは知っておりますでしょう?」
「……うん」
「ですから、大丈夫なのです。わたくしがずっと側で見てきた『アルベルト・リストニア』なら、必ず殿下をお救いくださいますわ」
本当は、それが心配なのだと兄には伝えたいのだけれど。
それはきっと自分の役目ではないのだと、理解していた。
「……ありがとう、リストニア侯爵令嬢。僕も、信じるよ」
「ええ、ぜひそうしてくださいまし。わたくしたち、まだまだ語り合わなければ。——そうですわ!」
しんみりとした空気を払拭するように、アレクシアが手をポンと叩いた。
名案を思いついた、とニコリと笑う。
「殿下。わたくしと婚約いたしましょう」
「……、…っ!?こ、婚約!?」
「年齢もちょうど良いですし、お互いの素性も把握済み。今の陛下なら、リストニアとの関係が深まるとなれば反対はなさらないはず」
「い、いや、でも……君はいいのかい?一生の事だろう?」
「だからこそですわ。その辺の貴族に嫁いでリストニアから離れるよりも、こちらに輿入れすればクリストフ殿下もいらっしゃいますし。王子妃ともなれば、家を出た後でも兄に会う都合もつけやすいですから」
先程までの真面目な空気はどこへやら。かなり割り切った言い方をするアレクシアに、レナードはまだ困惑した様子を見せている。
しかしアレクシアには切り札があった。
とっておきの。
「それにわたくしと結婚すれば、お兄様を義兄と呼べますわよ」
「よろしくお願いします」
レナードは即落ちした。
同時に誰かが控えめに扉をノックする音が届く。
「入室を許可する」
「失礼いたします」
答えたレナードに、扉を開けた侍従が恭しく一礼する。
「レナード殿下、並びにリストニア侯爵令嬢。謁見の間にて陛下がお召しでございます」
「わかった。リストニア侯爵令嬢と共に向かうと伝えてくれ」
音もなく立ち上がったレナードが、大国の王子らしい所作と気品をもって、アレクシアへと手を差し出した。
「では、共に参りましょう。僕たちが信じる彼のもとへ」




