第96話:分断
事務机の上に広げられたスラムの地図には、昨日までなかったはずの「境界線」が引かれていた。それは俺が発行を許可した臨時身分証の登録データに基づき、ミラが視覚化した住民の分布図だった。
「報告します。スラム内部での武力衝突の発生頻度が、先週比で三倍に跳ね上がりました。負傷者は現時点で四十名。事態は深刻です」
ミラの指が空中をなぞると、地図が四つの色に塗り分けられた。中央部を占める人族、地下遺構に潜むドワーフ、廃棄された公園を占拠するエルフ、そして外縁部の廃屋を拠点とする獣人。かつての戦争で「連合軍」として魔王に立ち向かったはずの種族たちが、この狭いスラムの中で、互いに牙を剥き出しにしている。
「同じ貧困の中にいて、どうして手を取り合えないんですか。みんな、今日食べるものにも困っているはずなのに」
カイルが悲痛な声を上げた。彼は昨日、支援物資を届けに行った際、人族の居住区に入ろうとした獣人の子供が石を投げられる場面を目撃していた。
サニアが溜息をつき、手元の資料を整理しながら答えた。
「カイル、皮肉なことに、人は余裕がなくなればなくなるほど、自分たちと『違うもの』を排除しようとするの。共有できるリソースが限られているからこそ、それを身内だけで独占しようとする本能が働く。平和という名のシステムから零れ落ちた彼らにとって、種族というアイデンティティは、自分を守るための最後の砦なのよ」
ドワーフたちは、かつて自分たちの技術を重宝した人族が、平和になった途端に安価な工場労働力として自分たちを扱ったことを根に持っている。エルフたちは、自然を壊して作られたこの都市そのものを忌み嫌い、自分たちの聖域を犯す者を許さない。獣人たちは、戦時中に斥候として使い潰された記憶が新しく、他種族への不信感が骨の髄まで染み付いている。
俺はモニターに映る「分断の境界線」を見つめた。
「戦争という巨大な敵がいなくなったことで、彼らを繋ぎ止めていた唯一の絆が消えたんだ。魔王という共通の悪がいれば、種族の違いなんて些細な問題だった。だが、平和な空の下では、隣の家から漂う食事の匂いや、水汲み場の順番待ちといった『小さな差異』が、命に関わる対立に変わる」
かつて俺たちが整備した「世界最強の管理システム」は、国という大きな単位での戦争を止めることには成功した。だが、個人の感情や、長い歴史の中で積み重なった種族間の確執までを事務的に解消することはできなかったのだ。
「係長、どうすればいいんでしょう。このままじゃ、スラムの中で小さな戦争が始まってしまいます」
カイルの問いに、俺はすぐには答えられなかった。
「……事務的に解決するなら、物理的な壁を作って隔離するのが一番コストが低い。だが、それは問題を先送りにするだけで、新しい不備を生むことになる。彼らが望んでいるのは、パンだけじゃない。自分たちの種族が誇りを持って生きられる場所だ」
俺はペンを取り、白紙のページに「多種族合同自治委員会」と書き込んだ。
「サニア、各派閥のリーダーを招集しろ。彼らが互いに不信感を持っているなら、その不信感を『契約』という名の不備のない書類に変えてやる。互いに依存しなければ生きていけない仕組みを、このスラムの管理規約の中に組み込むんだ」
「……非常に困難な交渉になりますね。彼らは言葉すら交わそうとしないでしょうから」
サニアが懸念を示す。その時、部屋の隅で黙って話を聞いていた勇者が立ち上がった。
「俺が行こう。あいつらにとっちゃ、俺はかつて一緒に戦った仲間の代表だ。少なくとも、いきなり殺し合いを始めるのは止められる」
勇者の瞳には、昨日の少年から受けた問いの答えを探そうとする決意が宿っていた。
「頼む。俺たちはその間に、各種族の特性を活かした『役割分担』の草案を作る。ドワーフの技術でインフラを整え、獣人の身体能力で物流を支え、エルフの知識で衛生環境を改善し、人族がその全体の調整を担う。互いに欠けている部分を補い合わなければ、スラムそのものが自滅するという現実を、数字で見せつけるんだ」
平和な空の下で、人は自由を手に入れた。だが、その自由は同時に、誰かを憎む自由、誰かを拒絶する自由も孕んでいる。
「同じ貧困」という共通項は、必ずしも連帯を生むわけではない。むしろ、それは生存をかけた醜い奪い合いの引き金になる。




