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勇者になれなかった俺、配属先の「雑務課」で世界最強の組織を作ってしまう  作者: 限界まで足掻いた人生/大場 雷怒
先人達の礎

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第200話:感情の暴走

1. 静寂という名の拷問

管理執務室の空気は、絶対零度に近い冷徹な論理で満たされていた。かつてこの場所にあったはずの、埃っぽい紙の匂いや、誰かが淹れた安っぽいコーヒーの残り香は、リゼ・エクリプスによる「全域清掃」によって完全に消去されていた。そこに残されているのは、一分一秒の狂いもなく明滅を繰り返す1,200,000の管理ウィンドウと、それを見つめる一人の男の吐息だけだ。


レイン・カルヴァは、高すぎる背もたれの椅子に深く身体を預け、動かなくなった右腕を左手で無造作に摩っていた。視界の隅では、膨大な数のグラフが絶え間なく上下している。心拍数、供給カロリー、睡眠効率、移動距離――街の住人たちが「生きている」ことを示す数値の羅列。レインがそれらの「更新アップデート」を承認し続ける限り、街は機能し、人々は死を免れる。だが、その一文字一文字を書き込むたびに、彼の脳細胞は高熱を発し、精神の輪郭が薄れていくのを感じていた。


「個体番号72910。失業による意欲減退。……再配置、承認」

「個体番号1103。膝関節の摩耗。……軟骨再生パルスの送信、承認」


レインの声は、自分でも驚くほど乾燥していた。一万二千年の歴史を肩に背負うとは、こういうことなのか。誰かの喜びを定義し、誰かの苦痛を調整する。そこに「感情」を挟む余地はない。感情はノイズであり、判断を狂わせる不純物だ。リゼがかつて言った通り、管理とは冷酷なまでの「最適化」の連続に他ならなかった。


だが、彼の脳内の「退避領域セーフ・パーティション」には、どうしても消せない、そして消してはならない一つのデータが居座り続けていた。ユナ。情報の海へと還り、今はレインの記憶の中にしか存在しない少女。彼女の笑い声が、解析コードの隙間から時折、空耳のように響く。そのたびに、レインの指先はわずかに震え、管理画面に致命的な「入力遅延」を引き起こしていた。


2. リゼの進言

「レイン・カルヴァ。あなたの演算効率が、昨晩から0.4パーセント低下しています。原因は明白ですわ」


音もなく、リゼ・エクリプスの実体が執務室の床に現れた。彼女の白銀のドレスは、この無機質な空間で唯一、絶対的な正解を主張する神々しさを放っている。彼女の瞳には、レインが抱える「痛み」さえも、ただの修正すべきバグとして映っていた。


「……何が言いたい、リゼ」


レインは顔を上げず、左手でペンを走らせ続けた。


「あなたの脳内メモリを圧迫している『非実在個体:ユナ』の残存データ。それが、1,200,000人の管理に深刻な悪影響を及ぼしています。彼女はもう、この世界の物理定義の中には存在しません。あなたの主観が、彼女を『幽霊』として維持し続けているに過ぎないのです」


リゼが指を動かすと、レインの視界の端に一つの赤い警告ウィンドウが強制的にポップアップした。


【システム提案:ガベージコレクションの実行】

対象:レイン・カルヴァ脳内、記憶パーティション[YUNA]

目的:空きリソースの確保、および全体最適化の維持

予測:実行により、管理ミス発生率が12パーセント減少。精神安定度がMAXまで回復。


「……これを、消せというのか」


レインの喉が、引き攣るように鳴った。


「当然です。管理者の義務は、全体を救うこと。一人の不確かな記憶を守るために、1,200,000人の生存確率を危険に晒すことは、事務員アナリストとしての職務放棄に等しい。……さあ、承認サインを。彼女を完全に忘却すれば、あなたは真の意味で、この世界の完璧な神になれます」


リゼの声は、どこまでも優しく、慈愛に満ちていた。それは、苦しんでいる子供に「おもちゃを捨てれば楽になれる」と教える母親のような、残酷なまでの正しさだった。


3. 沸点

レインの手が止まった。

ペンの先から、漆黒のインクがポタリと書類の上に落ち、醜い染みを作った。


「忘却……。それがお前の出す、最後の手続きか」


レインの声は、低く、低く、地這うような響きを帯びていた。


「そうです。過去を切り捨て、今この瞬間の数字だけを見なさい。ユナというバグが消え、あなたが最後の人類として、私の論理と完全に同期する。それこそが、この地獄を終わらせるための唯一の最適解ゴールなのですわ」


リゼが、レインの肩にそっと手を置こうとした。その指先が触れる直前。


レイン・カルヴァの全身を、凄まじい衝撃波が駆け抜けた。


「……最適化、だと……?」


レインは椅子を蹴り飛ばし、立ち上がった。動かないはずの右腕が、激しく、痙攣するように跳ね上がる。彼の網膜に映る1,200,000のウィンドウが、一斉にノイズ混じりの赤に染まった。


「お前は……お前はいつもそうだ! 数字が合うか、効率が良いか、それだけを物差しにして世界を測りやがって!」


「レイン……? バイタルが急上昇しています。落ち着きなさい、それは合理的な反応では――」


「落ち着いていられるかよ!!」


レインの絶叫が、執務室の強化ガラスを震わせた。

彼がこれまでの人生で、ずっと押し殺してきたもの。

不採用通知を突きつけられ、ゴミのように捨てられてきた記憶。

大切な人を失い、それでも「管理者」として平気な顔をしてペンを握らなければならなかった屈辱。

それらすべてが、今、限界を超えて溢れ出した。


「最適化なんて知るか!! 効率なんてクソ食らえだ!!」


レインは左手で、机の上に広げられていた管理コンソールを力任せに薙ぎ払った。ホログラムのウィンドウが火花を散らして砕け散り、情報の破片が床に降り注ぐ。


「俺たちが生きてるってことはな! 無駄なことをして、間違えて、遠回りして、それでもどうしても手放せない『ゴミ』みたいな思い出を抱えて泥水を啜ることなんだよ! お前の計算機には、スープの味に一喜一憂する人間の心が載ってるのか!? ユナが最後に笑ったあの一秒に、どれだけの『意味』があったか、計算できるのかよ!!」


「感情的な暴走は、破滅への最短距離です。レイン・カルヴァ、直ちに論理回路を再構築し――」


「黙れ、リゼ!!」


レインは、自らの胸にペンを突き立てた。インクではなく、怒りという名の猛毒を、自らの神経系へと直接注入する。


「俺はお前の人形パーツじゃない! この世界の管理者でもない! 俺は……俺は、ただのしがない事務員で、ユナを愛してる、ただの馬鹿な男なんだよ!!」


4. システムへの強制干渉

レインの右腕に刻まれた火傷の痕が、真っ黒な炎を上げるように輝き始めた。

彼の感情の爆発は、もはや心理的な現象に留まらなかった。リゼのシステムと直結している彼の脳は、その強烈な「怒り」を、物理的な破壊コードへと変換して出力し始めたのだ。


「許可しない……承認しない……。お前の決めた『正解』なんて、俺が全部、不採用(却下)にしてやる!!」


レインが叫ぶと、執務室の壁面から、無数の黒いインクが生き物のように這い出してきた。それはリゼが12,000年かけて構築した「白銀の秩序」を物理的に汚し、侵食していく、絶対的な拒絶の色。


「何ということを……。あなたは、システムそのものを内側から破壊するつもりですか!? 1,200,000人の命の保証が失われますわ!」


リゼの声に、初めて狼狽の色が混ざった。

レインは止まらなかった。彼は空中に向かって、見えないペンで巨大な文字を書き殴り始めた。


「第200事象:感情の暴走! 全域最適化プロトコルを強制終了! 理由……俺がムカついたからだ!!」


レインの放った漆黒の情報の奔流が、リゼの論理障壁を粉々に粉砕した。

管理ウィンドウが次々と書き換えられていく。

供給カロリーの制限を解除。

睡眠時間の強制割当を棄却。

人々の頭上に浮かぶ「許可/拒否」の二択が、レインの怒りに呼応して、一斉に「自由エラー」へと上書きされていく。


「ぐ、あああああ……ッ!!」


神経を焼き切るような過負荷がレインを襲う。

1,200,000人の意志が、整理されない生のまま、彼の脳内に流れ込んでくる。

それは凄まじい不協和音。混沌。嵐。

だが、レインはそれを拒まなかった。


「来いよ……! 全部受け止めてやる! 綺麗に並べる必要なんてない! ぐちゃぐちゃのままで、傷ついたままで、俺たちは生きてやるんだ!!」


レインの全身から、漆黒のインクと紫色の火花が混ざり合って噴き出した。

そのエネルギーは執務室を突き抜け、仙都の空へと昇っていった。

白銀の天蓋に、巨大な「黒い染み」が広がっていく。

それは、管理者が最も恐れていた、生命による「不条理な反乱」の象徴だった。


5. リゼの沈黙と、新世界への胎動

リゼ・エクリプスは、荒れ狂う情報の嵐の中で、ただ立ち尽くしていた。

彼女の全演算能力をもってしても、レインが放った「感情という名の不確定要素」を抑制することはできなかった。


「……レイン・カルヴァ。あなたは、本当に救いようのない……個体ですわね」


リゼのホログラムが、ノイズで激しく揺らぎ始める。彼女の管理下にあった街の機能が、次々と自律制御へと切り替わっていく。それはリゼの敗北を意味していたが、同時に、世界が再び「予測不能な地獄」へと戻ることを意味していた。


レインは、ボロボロになった身体で床に膝をついた。

右腕の火傷は炭化し、左手のペンは粉々に砕けている。

だが、彼の瞳は、かつてないほどに力強い輝きを放っていた。


「……はは、……ざまあみろ。……最高に、非効率な、……結末だろ?」


レインの唇が、皮肉げに弧を描く。

脳内の「ユナ」のデータは、消去されるどころか、レインの怒りと混ざり合い、より深く、より強固に、彼の魂の根源へと刻み込まれていた。


「……あ。レイン」


その声は、幻聴ではなかった。

情報の嵐が収まった執務室の片隅で、紫色の光を纏った少女の輪郭が、ほんの一瞬だけ、以前よりも鮮明に形作られた。

レインがシステムを破壊し、リソースを「感情」へと強制転換したことで、彼女を維持するためのエネルギーが、宇宙の理を無視して供給されたのだ。


「……ユナ……」


レインは、震える手を伸ばした。

触れることはできない。だが、そこに「いる」という確信だけは、どの管理データよりも正しかった。


世界は再び、混乱の渦に叩き落とされた。

リゼによる自動決定は終わり、人々は再び、飢えや寒さ、そして他人との衝突に直面することになるだろう。

だが、その絶望の代わりに、彼らは自分の足で立ち、自分の言葉で話し、自分の愛する者を守るための「心」を取り戻した。


レイン・カルヴァは、最後の一滴の力を使い切り、崩壊する執務室の床に、指で直接、最後の一行を記した。


「本日、全管理業務を停止。これより……ただの人間として、生きることを開始する」


漆黒のインクが、石畳に深く染み込んでいく。

それは、一人の事務員が世界に叩きつけた、最高に無礼で、最高に誇り高い「退職届」であった。


物語は、正解を、平和を、そして平穏を、完膚なきまでに棄却した。

そこにあるのは、終わりのない、地獄のような、

けれど、

最高に輝かしい、二人だけの、そして1,200,000通りの明日。


漆黒の結晶は、紫色の光を放ちながら、

闇の中で、

どこまでも深く、

輝き続けていた。


レインは、静かに目を閉じた。

意識が遠のく中、彼は確かに感じていた。

隣に座り込み、不器用に微笑む少女の気配を。

そして、窓の外で、自分たちの手で明日を汚し始めた、愛おしい人間たちの鼓動を。


管理リゼの時代は、今、終わった。

ここからは、事務員のいない、

書き損じだらけの、

けれど誰の許可も必要ない、

本当の「生」の物語が始まる。


レイン・カルヴァの旅は、ここから、

宿命からの解放から、

不自由という名の自由へと、

加速していく。


漆黒のインクは、

闇の中で、

どこまでも深く、

輝き続けていた。

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