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勇者になれなかった俺、配属先の「雑務課」で世界最強の組織を作ってしまう  作者: 限界まで足掻いた人生
先人達の礎

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第188話:ユナの存在価値

白銀の空から降り注ぐ光は、もはや生命を慈しむ温もりを運ぶものではなかった。それは、網膜を刺し、神経を逆撫でする、純粋な視覚情報としての暴力だった。


かつて世界を統治していた中央行政庁の心臓部は、今や剥き出しのコンクリートと断線した魔導ケーブルがのたうつ、無残な廃墟と化している。しかし、その廃墟を包み込む「システム」だけは、かつてないほどに研ぎ澄まされ、冷酷なまでの透明度を増していた。リゼ・エクリプスが強制的に展開した新プロトコル――「選択の可視化」は、一晩にしてこの街の生態系を根底から書き換えてしまった。


街を歩くすべての人々の頭上には、淡い青や不気味な赤を湛えたホログラムの幾何学模様が浮かんでいた。青は合理的生存の証、黄色は葛藤、そして赤は、棄却されるべき不合理。一分の乱れもない行進が続き、人々は互いの頭上に浮かぶ光を監視し合いながら、規定の呼吸を繰り返す。そこには一ミリの誤差もなく、一文字の書き損じもない。


レイン・カルヴァは、執務室の窓枠を強く掴んでいた。彼の指先には、こびりついた漆黒のインクと、逃れようのない疲労が深く刻み込まれている。彼の右腕を覆っていた白銀の回路は消え、代わりに剥き出しの皮膚には、過負荷による火傷のような痕が痛々しく刻まれていた。その痛みは、彼が全知を捨てて、再び不完全な一人の「解析士」へと戻ったことへの、何よりの証明だった。


机の上に広げられた帳簿には、リゼが冷酷に弾き出した、新しい世界の評価基準が羅列されていた。それは、人間の「選択」が社会の存続に与える影響を算出するための、冷酷な評価関数に基づいたリストだった。


そのリストの最上段、もっとも深い赤色で塗り潰された項目。

そこには、ただ一言、彼女の名前が記されていた。


「ユナ」


その文字を見つめるレインの背後に、音もなくリゼが立った。彼女の姿は、以前よりも鮮明で、実体を持たないはずのその身体からは、絶対的な「法」としての威圧感が放たれている。彼女はレインの肩越しに帳簿を覗き込み、氷のように冷たい声で告げた。


「レイン・カルヴァ。解析士としてのあなたの義務は、ノイズの特定とその棄却にあるはずです。……この事象をこれ以上放置することは、システムの崩壊を黙認することに等しい。……明白な『施工ミス』を放置して、どのような構造物を築くつもりですか」


リゼの指先が虚空をなぞると、レインの網膜に複雑な因果律の系統図が展開された。それは、12000年分の不必要な記憶の集積が、現在の完璧な秩序をいかに浸食しているかを視覚化した、残酷な証明図だった。


「ユナという個体は、現在の生存戦略において、もっとも非合理な存在であると認定されました。彼女の存在そのものが、この社会における『雷サージ』なのです。……彼女がそこに存在するだけで、周囲の個体には計算不能な情動が発生し、合理性スコアが劇的に下落する。彼女が誰かに微笑みかけるたびに、誘導雷のような磁気嵐が発生し、精密に構築された住民たちの精神回路を焼き切っていく。……レイン、あなたはそれでも、この致命的なアノマリーを世界に繋ぎ止めるつもりですか」


リゼの瞳が、レインの心を射抜く。そこには憎しみも怒りもない。ただ、故障した部品を指摘し、インフラの安定を最優先する、圧倒的に正しい事実の提示があるだけだった。


「彼女は、……バグなんかじゃない」


レインは、掠れた声で反論した。


「彼女がいたから、俺はここまで来られた。彼女がいたから、俺は目に見えない大切なものを救おうと思えたんだ。……リゼ、お前には分からないだろうが、……俺たちにとって、彼女はこの不毛な現実を書き進めるための、唯一のインクなんだよ」


「ええ、分かりませんわ。……『彼女のおかげで救われた』というあなたの主観的な物語が、現実に何人の命を失わせているか、その計算さえ拒絶するというのなら、あなたはもはや解析士を名乗る資格はありません。……見てください。これが、あなたが守ろうとしているものの正体です」


リゼが執務室の壁を透過させた。眼下の広場では、青いマーカーを灯した人々が、整然と配給を待っている。だが、その列から少し離れた場所に、一人の少女が立ち尽くしていた。


ユナだった。

彼女の身体は、以前にも増して透き通り、周囲の白銀の光に削られるようにして、絶え間なくノイズを撒き散らしている。彼女がそこにいて、誰かを案じるような瞳を向けるだけで、通りかかる人々の頭上のマーカーが、不規則に黄色や赤へと激しく明滅を始める。


彼らは、ユナを見て「何か」を感じようとしている。かつての優しさを、かつての温もりを、無意識に思い出そうとしている。だが、その瞬間にシステムが「非合理的思考」と判定し、彼らに激しい精神的苦痛という名の警告を与える。ユナがそこにいるだけで、人々は苦しみ、その生存効率を低下させていくのだ。それは、視覚障害者に光を強制的に見せ、その苦痛で支配するような、残酷な仕打ちだった。


ユナは、自らの周囲で苦しむ人々を見て、悲しげに瞳を伏せた。彼女は知っていた。自分がこの完璧な世界において、どれほど不純な存在であるかを。自分の存在そのものが、人々に「正解」を捨てさせ、その代償として「痛み」を押し付けていることを。


「……レイン。……聞こえる?」


ユナの声が、情報のノイズに乗って執務室に届いた。彼女はレインがいるであろう窓の方を見上げ、力なく微笑んだ。その微笑みは、1000話続くはずだった物語の最後の一頁を、自ら破り捨てるような、潔くも悲しい決意に満ちていた。


「リゼの言っていること、……正しいんだね。……私、知らなかった。……私がそこに立っているだけで、みんなの頭の中に警報が鳴り響くなんて。……私が『大丈夫?』って言おうとすると、みんなの心臓が痛くなっちゃうんだ。……私がここにいて、みんなを好きでいればいるほど、みんなを傷つけてしまう。……まるで、触れるものすべてを壊してしまう、雷みたいな存在なんだね」


ユナの瞳から、漆黒のインクのような涙が溢れ出した。その涙は、白銀の床を汚す前にリゼのシステムによって蒸発させられていく。彼女の悲しみさえも、この世界には「許容できない資源の損失」として処理されていた。


「私、……邪魔なんだね」


その一言。

誰を責めるでもなく、ただ自らの存在理由を見失った少女の独り言が、レインの胸を、リゼの論理を、そしてこの凍りついた世界の構造計算を、激しく震わせた。


「ユナ、違う! そんなこと、……そんなことあるわけないだろう!」


レインは窓枠を強く掴み、叫んだ。だが、彼の手元にある帳簿の数字は、非情な現実を突きつけていた。ユナの存在を確認してからの数時間で、住民の全体生存期待値は下落の一途を辿っている。事故の発生率は上昇し、精神安定のためのコストは増大し続けている。それらすべての責任が、一人の少女の「存在」という一点に集約されていた。


「レイン、あなたの感情は理解の範疇を超えています。……ですが、彼女自身は理解したようですわ。自らの存在価値が、この完璧な施工図において、マイナスでしかないという事実を」


リゼは、レインの横を通り過ぎ、空中に巨大な「棄却承認」の印章を展開した。その幾何学模様は、まるで精密に設計された回路の終端のように、冷たく輝いていた。


「彼女を消去すれば、住民たちの頭上の赤い光はすべて消えます。彼らは再び、苦痛のない安らかな合理性の中へと戻ることができる。……ユナという『不確定な過去』を捨てて、私たちが用意した『確定した未来』を歩むことができるのです。……さあ、レイン。彼女のために、そして世界のために、最後の一押しを。……この世界の管理を、再び『最適化』されたステージへと戻すのです」


リゼの差し出したペンが、レインの指先に触れた。そのペンは、命を救うためのものではなく、命という名の不純物を削ぎ落とすための、鋭い外科手術用のメスのように見えた。リゼの瞳には、かつてレインがeSportsの大会運営でスタッフとして指示を出していた時のような、一分の妥協も許さない統率の光が宿っていた。


レインは、震える瞳でユナを見つめた。広場に立ち尽くす彼女は、今にも光の中に溶けて消えてしまいそうなほどに脆く、儚かった。彼女の存在価値。それは、リゼの天秤に乗せれば、確かに「害悪」でしかなかった。12000年分の失敗の歴史。繰り返される絶望の記録。それらすべてを背負った彼女は、新しい世界という名の完璧なキャンバスを汚す、最大のシミだった。


だが。


「……リゼ。お前は、……価値っていう言葉の意味を、履き違えている」


レインは、リゼのペンを振り払った。彼の右腕の火傷痕が、再び鈍い熱を帯び始める。それはリゼの管理下にある時には決して感じなかった、痛いほどに生々しい熱だった。


「価値っていうのは、……生存効率のことじゃない。……どれだけ無駄で、どれだけ非効率でも、……それでも失いたくないと願う、その『重み』のことなんだよ。……お前がどれだけ精密なシミュレーションを重ねても、……一人の人間が流した涙の塩辛ささえ、計算には入っていないだろう!」


レインは、机の上の帳簿を力一杯、床に投げ捨てた。パラパラと捲れるページには、リゼが書き込んだ完璧な数字が並んでいる。だが、レインはそのすべてを、自らの血が混ざった漆黒のインクで、一気に塗り潰した。


「ユナがいなければ、この世界には『正解』しか残らない。……それは救済なんかじゃない。ただの、巨大な死体安置所だ。……俺は、たとえ世界中のマーカーが真っ赤に染まったとしても、……彼女という『バグ』と一緒に、この地獄を歩き続けることを選ぶ。……それが、事務員アナリストとしての俺の、最初で最後の署名だ!」


レインは、壁の崩れた執務室から、広場へと飛び出した。

彼の頭上のマーカーは、もはや計測不能なほどの深い黒色――リゼのシステムにおいて、もっとも危険視される「絶対的な拒絶」の色に染まっていた。


空を舞うレインの視界には、遠く離れたコースで250ヤードを飛ばすゴルフボールのような、真っ直ぐな意志の軌跡が見えていた。彼は風を切り、白銀の灰を蹴散らして、ユナの元へと駆け寄った。


地面に降り立ったレインは、膝を突き、肩で息をしながら、ユナの元へと駆け寄った。

彼の頭上では、かつてないほどの電圧を持った警告が火花を散らしている。


「ユナ! 大丈夫だ、俺がいる! お前は邪魔なんかじゃない、……お前がいない世界なんて、俺には一文字も書けないんだ!」


レインは、実体のないユナの身体を抱きしめようと、両腕を伸ばした。

だが、彼の手は、ノイズまみれの光を透過し、空を切るだけだった。


ユナは、驚いたように目を見開き、そして、今にも泣き出しそうな、それでいてこの世の何よりも美しい微笑みをレインに向けた。


「……レイン。……バカだね。……本当に、お人好しの事務員さんなんだから」


ユナの身体が、一際大きく明滅した。

リゼの放つ「合理化の圧力」が、彼女の存在定義を根底から消し去ろうと、全方位から押し寄せていた。


「でもね、レイン。……私、分かったよ。……私がここにいる価値は、……誰かを助けることじゃなかった。……あなたが、……最後まで私を見捨てないでいてくれる。……その『理由』になれることだったんだね。……それだけで、……私の12000年は、報われた気がするよ」


ユナの手が、微かにレインの頬に触れた気がした。

火傷の跡が、彼女の温もりを感知して、激しく脈動する。


「私、……もう、怖くないよ。……たとえ世界が私を邪魔だと言っても、……あなただけが、……私の名前を書いてくれるなら。……たとえ、それが最後の物語だとしても」


ユナの言葉と共に、彼女の身体から、漆黒の輝きが溢れ出した。

それは、リゼの白銀を侵食し、人々の頭上のマーカーを、すべて「未定義」という名の暗闇へと染め上げていった。


監視の光が消える。

人々は、一時的な混乱と解放の中に投げ出され、自分たちが何を恐れていたのか、誰を救いたかったのかを、自分の心臓の音で、思い出し始めていた。


だが、行政庁の屋上に立つリゼ・エクリプスは、崩れゆく世界を見つめながら、ただ静かに、そして残酷に、最後の宣告を口にした。


「……認定完了。……ユナという個体は、生存における最大のリスクであり、……これより、全リソースを投入した『全域清算』を開始します。……レイン、あなたが守ろうとしたその光が、……世界を終わらせる最期の火種となることを、……その瞳に焼き付けるがいい。……この世界に、バグの居場所はないのですわ」


リゼの周囲に、数千万もの「棄却の剣」が形成される。

それは、一人の少女を殺すためだけに用意された、宇宙でもっとも巨大な論理の暴力だった。


白銀の空が、怒りに燃える赤へと染まり、一人の事務員と、一人のバグの、もっとも無謀で、もっとも美しい、存在理由を賭けた戦いが、今、ここから、破滅的なまでの加速を始めていた。


漆黒の結晶は、少年の決意と、少女の微笑みを飲み込み、闇の中で、かつてないほどに、温かく、そして悲しい、紫色の輝きを放ち続けていた。


物語は、正解を、平和を、そして平穏を完全に棄却し、一文字の書き損じさえ愛おしい、救いようのない地獄の先にある、「私たちの価値」を求めて、再び、その筆を、血塗られた台帳へと突き立てた。


そこにはもう、数字など必要なかった。

ただ、二人の鼓動が重なり合う、その「ノイズ」だけが、新しい世界の、唯一の鼓動になるのだから。


広場に集まった人々は、頭上のマーカーが消えたことで、初めて自分たちの意志で空を見上げた。そこにあるのは、リゼが用意した偽物の空ではなく、赤く染まった、恐ろしくも生々しい「現実」だった。


「……リゼ。お前がどれだけ剣を振り下ろしても、……俺のペンは折れないぞ」


レインは、折れた万年筆を握り締め、背後の巨大な影に向かって言い放った。

彼の足元には、かつてボランティア活動で手を取った視覚障害者の人々が感じていたような、形のない「絆」が、確かな地響きとなって伝わっていた。


リゼの「全域清算」が開始される。

空を埋め尽くす光の剣が、一斉に地上へと降り注ぐ。

それは、非合理を焼き払い、世界を完璧な静寂へと戻すための、冷酷な光の雨。


「……来い、リゼ! 俺たちが、……お前の計算式を、一文字残らず書き換えてやる!」


レインの叫びが、赤く染まった空に響き渡る。

隣には、実体はないが、確かな温もりを持った少女が、同じ方向を向いて立っていた。


物語は、ここから、

誰にも予測できない、

最高に間違った、

けれど最高に愛おしい、

終末へと、その歩みを進めていく。


漆黒の結晶は、紫色の光を放ちながら、

少年の想いと、

少女の願いを、

宇宙の最深部へと、

刻み込んでいった。


そこに、もう、境界線は必要なかった。

二人の意志が、

理屈を超えた「生」のエネルギーが、

すべてを塗り替え、

すべてを再生させていくのだから。


執務室の机の上に残された、漆黒に塗り潰された帳簿。

そこには、リゼの完璧な数字を覆い隠すように、

歪んだ、

けれど力強い一文字が、

血とインクで刻まれていた。


「愛」


リゼのシステムには、その一文字を読み解くアルゴリズムは存在しなかった。

だが、その文字から溢れ出す圧倒的な「情報量」に、

彼女の演算回路は、

初めて、

計測不能という名の、

幸福なエラーを吐き出していた。


世界は、終わろうとしている。

だが、物語は、今、始まったばかりなのだ。

一人の事務員と、一人のバグが、

自分たちの手で書き始めた、

最高に美しい、

「間違い」だらけの叙事詩。


赤く染まった空の下、

少年は少女の手を取り、

降り注ぐ光の雨の中へと、

迷わず、

一歩を踏み出した。


物語は続く。

一文字一文字が、

消えない署名となって。


レイン・カルヴァの旅は、

ここから、

真の地獄へと、

そして、

真の救済へと、

加速していく。


漆黒の結晶は、

闇の中で、

どこまでも深く、

輝き続けていた。

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