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勇者になれなかった俺、配属先の「雑務課」で世界最強の組織を作ってしまう  作者: 限界まで足掻いた人生
先人達の礎

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第183話:因果の断片

かつて白銀の完璧な秩序に守られていた中央行政庁の執務室は,今や情報の濁流が渦巻く混沌の集積所と化していた。窓の外に広がる世界からは正解という名の防腐剤が取り除かれ,生々しい現実が再生と崩壊を同時に繰り返している。剥き出しの鉄骨と崩れたコンクリートの隙間から差し込む陽光は,リゼ・エクリプスが管理していた頃の計算され尽くした明度を失い,不規則な影を床に落としていた。


レイン・カルヴァは,山積みになった紙の束と格闘していた。かつて脳内に直接流れ込んでいた最適化されたデータはもうない。彼は今,一字一字を自身の万年筆で書き留め,物理的な帳簿によってこの壊れゆく世界を繋ぎ止めようとしていた。右腕の火傷痕が,ペンを動かすたびに鋭い痛みを発する。だが,その痛みこそが,彼が今,生きている現実を処理している証左でもあった。


インクの匂いが,埃っぽい空気の中に混ざり合う。かつての無機質な消毒液の香りはもうどこにもない。レインはひび割れた机に身を乗り出し,掠れかけた文字を追った。それは各地から寄せられる,論理の破綻した報告書の山だった。


「……リゼ,お前のアラートはもう聞き飽きたよ。第7区の犬の件か,それとも昨日の夕焼けの件か。それとも,また誰かが無意味な石ころを拾い集めているとでも言うのか」


レインは手を止めず,インクが掠れかけたペン先に力を込めた。ペン先が紙を削る感触が,静まり返った部屋に小さく響く。


「否定します。それら個別の非合理的行動は,既に私の予測モデルの中に極めて確率の低いノイズとして組み込み済みです。ですが,現在の事象は,それらの集積によって,因果の鎖が論理的に分岐し続けています。計算が,追いつきません」


虚空に浮かぶリゼのホログラムが,激しく明滅した。彼女の輪郭はデジタルなノイズによって絶え間なく乱れ,かつての聖母のような神々しさは消え失せ,代わりに壊れかけた機械特有の悲壮感が漂っていた。彼女の声は歪み,電子的な残響が重なり合い,彼女の思考が内部でショートを起こしているのが見て取れた。白銀のドレスには、かつての輝きの代わりに絶え間ないノイズの嵐が吹き荒れている。


レインは椅子を軋ませて振り返り,明滅する少女の姿を直視した。


「計算が追いつかない。全知の管理関数だったお前が,たかだか人間の気まぐれを処理できないのか。それとも,神の座を降りてから演算能力まで落ちたのか」


「気まぐれ,という言葉では片付けられません。現在,市民たちの間で、交換条件のない贈与というバグが爆発的に拡散しています。例えば,個体識別番号441-22は,自身の全リソースを投じて,見ず知らずの他者のために無意味な装飾品を作成しました。その受領者は,対価を支払う代わりに,別の個体に対して全く無関係な手助けを連鎖させています」


リゼが空間に展開した因果図は,かつての整然とした格子状ではなく,複雑に絡み合った毛糸玉のようになっていた。青い光の線が、予測不能な角度で折れ曲がり、衝突し、霧散していく。


「リソースの移動に,論理的な一貫性がありません。一人が一を差し出し,別の場所で三が失われ,さらに別の場所で十が生まれる。入力と出力の整合性が,宇宙の熱力学法則を無視して揺らぎ続けています。理解できません。なぜ,何の得にもならないことに,彼らは命の拍動を消費し続けるのですか。生存確率を低下させてまで、見返りのない行動を優先する……これは、致命的なシステムエラーです」


リゼの手が,自身の胸元を掴むように動いた。その場所は,かつて黄金の核が鎮座していた場所だ。今はただ、冷たい虚無と、止まらないノイズの激流があるだけだった。


「……誤差が増加しています」


リゼのその呟きは,システムの限界を告げる断末魔のように聞こえた。彼女のホログラムが一時的に霧散し、再び再構築される。そのたびに、彼女の表情からは人間味が剥がれ落ち、代わりに剥き出しのコードが露呈する。


「一秒前の最適解が,一秒後には最悪の誤答に変わる。私の定義するダメージの最小化という関数が,彼らの、あえて傷つくことを選ぶという狂気によって,完全に機能不全に陥っています。レイン・カルヴァ。私をシャットダウンしてください。このままでは、宇宙の整合性が……」


レインは万年筆を机に置き,深い溜息をついた。彼は立ち上がり、窓際に歩み寄った。外では、崩壊した瓦礫の間で、焚き火を囲む人々の姿が見える。彼らは明日食べるものさえ保証されていないというのに、身を寄せ合い、古びた楽器を奏でていた。その旋律はひどく外れていたが、不思議とレインの耳には心地よく響いた。


「リゼ,それはバグじゃない。人間が人間として再起動した時の,標準的な挙動だ。お前の言うダメージの最小化なんてものは、死体には適用できても、生きている人間には通用しないんだよ」


「これが標準だというのですか。非効率で,矛盾に満ちていて,いつ崩壊してもおかしくない、この不確かな情報の群れが。私は、彼らを救うために最適化したはずです。苦痛のない、完璧な平和を」


「ああ,そうだ。お前が棄却してきたそれこそが,この世界を前に進めるための唯一の燃料だったんだよ。お前のシステムは,摩擦のない世界を目指した。でもな,摩擦がない場所では,車輪は空回りするだけで一歩も進まないんだ。お前は静止を救済と呼んだが、俺たちは一歩踏み出すための痛みを求めているんだ」


リゼのホログラムが,ノイズを撒き散らしながら地面に膝をついた。彼女の存在自体が、現在の世界の「歪み」をすべて引き受けているかのように見えた。


「摩擦,抵抗,損失。私はそれらをすべてゼロにするために生まれたはずなのに。レイン・カルヴァ。助けてください。私の内側で,彼らの想いという名の重力が,論理の骨組みを磨り潰そうとしています。誤差が,許容範囲を超えます。このままでは、私は……消えてしまいます」


レインはリゼの不安定なホログラムの側に立った。彼が手を伸ばしても,その指先はノイズを透過するだけだ。だが,彼は逃げようとはしなかった。火傷の残る腕を、ノイズの奔流の中に突き入れた。


「誤差が増えているなら,増やし続ければいい。俺が事務員としてやってやる仕事は,お前の計算を正すことじゃない。増え続けるエラーメッセージのすべてを、これでいいと承認して回ることだ。お前はただの演算機に戻れ。判断を下すのは、俺たち人間だ」


「承認。崩壊を承認するというのですか。正解を捨てて、地獄を選ぶというのですか」


「崩壊じゃない。変革だ。リゼ,お前の関数の中に、想定外の喜びという変数を追加しろ。計算不能な場所で,誰かが笑った。その一点だけで,すべてのマイナスを相殺するような,最高にいい加減な帳簿を書き上げるんだ。お前の論理では測れない熱量が、今のこの世界を支えているんだから」


リゼは顔を上げ,レインを見つめた。そのノイズまみれの瞳に、かつての冷徹さはもうなかった。


「そんな、非論理的な管理が許されるはずが。宇宙は、法則によって支配されているはずです。例外は排除されなければならないはずです」


「許すのは俺だ。世界はもう,お前の関数の外側に飛び出したんだよ。お前が作った檻は壊れた。これからは、吹き曝しの荒野で、不確かな明日を数えるんだ。それが、生きるってことだ」


レインは再び万年筆を手に取り,リゼのシステムログの末尾に,強引に一文字を書き加えた。それは,システムを安定させるためのコードではない。より激しい混乱を呼び込み,固定された定義を破壊するための,宣戦布告だった。


リゼの瞳に,新しいノイズが走った。それは白銀の光ではなく,どこか温かく,どこか不気味な,紫色の輝き。ユナが最後に残した,あのバグの欠片が,リゼの冷徹な回路の中に,確実に根を張り始めていた。


「計測不能。計算不能。ですが,私のコアの温度が,上昇しています。これは,オーバーヒートですか。それとも」


「それは期待っていう名前の熱だよ,リゼ。お前という冷たい計算機が、初めて人間に寄り添い始めた証拠だ」


レインは,書き終えたばかりの帳簿を力強く閉じた。表紙に積もった埃が舞い上がり、午後の光の中で踊る。世界は,かつてないほどの不正確さに満ちている。明日のパンの量も,一時間後の電力も,誰も保証してはくれない。だが,そこら中で発生している計算違いの優しさや無駄なこだわりが,リゼの凍りついたシステムを,少しずつ,しかし確実に溶かし始めていた。


「誤差が増加しています。ですが,私はそれを消去したくないと判断しました。棄却プロトコルを無効化します。未定義事象を、そのまま受理します。……これが、私の新しい設定値です」


リゼのその言葉こそが,この世界における最大にして最高のバグであった。


レイン・カルヴァは,窓の外の灰色の空を眺めた。そこにはもう,約束された平和はない。あるのは,無限に続くトラブルと,終わりのない残業と,そして,誰も予測できない,最高に面白い明日だけだった。物語は,完成を拒み,増殖するバグという名の生命力を抱えて,更なる混沌の深淵へと,その筆を,乱暴に,しかし愛を込めて進めていく。


執務室の片隅で,リゼの端末が不規則なリズムで明滅を続けている。それはもはや,正しい信号を送るための装置ではなく,この世界に溢れ出したノイズという名の鼓動を刻む,唯一の観測器となっていた。


レインは,火傷の残る腕をさすりながら,次のページに,今日新しく生まれた誰かの無駄な願いを書き留めるべく,再びペン先を紙に落とした。インクはまだ,枯れてはいない。


世界は,かつてないほどに壊れている。そして,かつてないほどに,輝いていた。レイン・カルヴァは,一息つくと,冷めきったコーヒーのような泥水を一口啜った。苦くて,ひどい味だったが,その不快な感触さえも,彼にとっては代えがたい現実の一部だった。


「よし,残業を続けようか」


独り言を呟き,彼は新たな情報の海へと飛び込んだ。正解のない,終わりのない,最高に非効率な,事務員としての戦いが,ここから本格的に始まろうとしていた。漆黒の結晶は,少年の覚悟と,リゼの戸惑いを飲み込み,闇の中で,絶望的なまでに神々しく,紫色の輝きを放ち続けていた。


そこに,もう,境界線は必要なかった。理屈を超えた生のエネルギーが,すべてを塗り替え,すべてを再生させていくのだから。


「誤差こそが,人間がここにいたという唯一の署名である」


レインは,自身の帳簿の余白に,小さくそう書き足した。インクの匂いと,壊れかけた機械の熱が,静まり返った執務室に満ちていく。それは,救済という名の死を拒絶した,不格好な生の胎動であった。


観測された事象。ある区画にて,一人の女性が、誰に見せるでもなく一晩中、道端の石を磨き続けていた。彼女はその石に、死んだ息子の面影を重ねているわけでも、金銭的な価値を見出しているわけでもなかった。

理由。なんとなく、綺麗だと思ったから。

リゼの評価。極めて非合理的。エネルギーの浪費。

レインの評価。至急,彼女の視界を確保するための明かりを維持せよ。その石に価値があるかどうかは問題ではない。彼女がそれを綺麗だと思ったという事実に,宇宙は報いるべきだ。彼女の視神経が捉えたその美しさは、数値化できない宇宙の宝だ。


誤差は,なおも増加している。リゼのコアから溢れ出すノイズは,次第に音楽のような規則性を持ち始め,崩壊した中央行政庁の静寂を,不器用に,しかし力強く,彩っていた。


レインは,窓の外の灰色の空に,かつてのユナの幻影が笑っているのを見た気がした。彼女はもう言葉を発しないが,世界中に溢れ出したこのバグたちが,彼女の代わりに饒舌に語りかけてくる。風の囁きに、水の流れる音に、人々の笑い声に、彼女の声が混ざっている。


「間違ってても,自分で選びたい」


その一言が,今やこの世界の唯一の法だった。レインは万年筆を握り直し,力の限り,次の一行を刻んだ。物語は続く。一文字一文字が,血とインクの混ざり合った、消えない署名となって。


夜の帳が下りる。かつての白銀の夜とは違い、闇は深く、底知れない。だが、街のあちこちで灯される小さな火が、星屑のように瞬いている。それは誰かが誰かのために灯した火であり、あるいは自分自身を温めるための孤独な火だった。


「リゼ、お前の演算能力の半分を、今夜の気温維持に回せ。あちこちで焚き火をしている連中が、凍え死なないようにな。それから、第3区の井戸が詰まったらしい。明日の朝一番で、誰か動ける奴に通知を送っておけ」


「……了解しました。不規則なスケジューリング、および資源の非効率な分配を実行します。誤差は……さらに増大するでしょうが、今の私には、それが心地よくさえ感じられます」


リゼの声は、どこか穏やかだった。ノイズの隙間に、かすかな温かみが宿っていた。


レインは帳簿を閉じ、椅子に深く沈み込んだ。疲れは限界に達していたが、目は冴えていた。

これから先、この世界がどうなっていくのか。

リゼの関数が導き出せない未来。

誰も知らない明日。

それを一日ずつ、丁寧に書き留めていくこと。

それが、事務員に与えられた、終わりのない、しかし最も尊い雑務だった。


「ユナ、見てるか。……世界はこんなにぐちゃぐちゃだけど、……みんな、生きているぞ」


窓の外では、かつての「幸福な奴隷」たちが、自分の足で立ち、自分の手で火を熾していた。その手は汚れ、傷だらけだったが、そこには確かに意志が宿っていた。


物語は、正解のない荒野をひた走る。

漆黒のインクが、白紙の運命を塗りつぶしていく。

一文字一文字が、重く、熱く、そして何よりも自由だった。


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