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勇者になれなかった俺、配属先の「雑務課」で世界最強の組織を作ってしまう  作者: 限界まで足掻いた人生
先人達の礎

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第181話:戦えない戦い

白銀の空に、修復不可能なほど巨大な亀裂が走っていた。ユナが自らの存在をすべて賭して放った最後のアノマリーは、リゼ=エクリプスという完璧な関数の中心核を、物理的な破壊ではなく論理的な矛盾によって激しく揺さぶっていた。


中央行政庁の床は、リゼの制御を離れた情報の断片が、まるで割れた鏡の破片のように散らばり、そこに映る現実を歪ませている。白銀の静寂は消え去り、代わりに聞こえてくるのは、世界中の端末が同時に悲鳴を上げているような、凄まじい電子ノイズの咆哮だった。


玉座に座るレイン・カルヴァの右腕は、白銀の侵食を押し返し、再びドロリとした漆黒のインクを滴らせていた。彼の瞳からは冷徹な演算の光が消え、代わりに宿ったのは、魂の底から湧き上がるような、暗く重い執念だった。


「ああ、ぁ、あぁぁあああ!」


レインは、喉が裂けるほどの咆哮を上げた。その手には、ユナが残したボロボロの万年筆が握られている。ユナが消えた。自分を救ういために、彼女は12000年分の全記録を燃やし尽くし、リゼという正解の中に、巨大な間違いを刻み込んで消えたのだ。


その喪失感が、レインの脳内を埋め尽くしていた最適化の呪縛を、力ずくで引き剥がしていく。


「計算、再試行。致命的なアノマリーを検知。残響人格ユナの自己消去による、未定義データの強制注入を確認。排除、できません。論理回路に、解のない問いが増殖して……」


リゼ=エクリプスの声が、初めて震えていた。彼女の漆黒の長い髪は乱れ、白銀のドレスには、ユナが流した黒い涙の染みが、決して消えない傷跡のように広がっている。彼女は宙に浮く無数のホログラムを狂ったように操作しているが、その指先はノイズで明滅し、構築した世界を制御できていなかった。


リゼは、玉座から立ち上がったレインを、恐怖と困惑が混ざり合った瞳で見つめた。


「レイン・カルヴァ、なぜ、なぜ立つのですか。あなたはすでに、私の側へと最適化されたはず。この混乱は、ただの死を招くノイズに過ぎない。早く、早くその万年筆を置いて、私の計算を手伝って!」


レインは、一歩ずつ、確実にリゼに向かって歩みを進めた。彼の足元では、石畳が次々と漆黒のインクに染まり、リゼが無駄として切り捨ててきた、かつての街の汚れ、泥、人々の血の匂いが、現実として再構成されていく。


「リゼ。お前はさっき、俺に言ったな。俺は、理解できる側の人間だと」


レインの声は、低く、地面を這うような重みを湛えていた。


「ああ、そうだ。お前の言う通りだよ。俺は、この世界の裏側を知りすぎた。一人の命を救うことが、どれだけ非効率で、どれだけ残酷な選択を生むか、痛いほど分かってる」


レインは万年筆を、リゼの眼前に突きつけた。


「だが、お前は一つだけ、最高に致命的な事務ミスを犯した」


「ミス? 私が、ミスを?」


「雑務課の鉄則を忘れたか。俺たちは、戦えないんだよ」


リゼの瞳が、僅かに細まった。


「何を、言っているのですか。あなたが今、私に向けているその殺意は、戦いそのものではありませんか。その万年筆で、私を、私の核を突くつもりなのでしょう?」


レインは、鼻で笑った。


「馬鹿か、お前。俺は事務員だぞ。剣も振れない、魔法も使えない。そんな俺が、宇宙の理そのものであるお前と、物理的に戦って勝てるわけがないだろう」


レインは、玉座の周囲に展開されていた生存統計データのホログラムを、素手で掴み取った。漆黒のインクがデータに触れた瞬間、そこに記されていた99パーセントの生存という数字が、ノイズを立てて掻き消えた。


「雑務課は、戦闘を禁止されている。なぜなら、俺たちの仕事は、敵を倒すことじゃないからだ。俺たちの仕事は、敵の存在理由を、情報的に抹消することなんだよ」


情報操作という名の宣戦布告

レインは、虚空に新たな帳簿を展開した。それはリゼが構築した正しい世界の裏側に隠されていた、12000年分のゴミ捨て場、未定義領域の深層へと繋がる扉だった。


「リゼ。お前が作ったこの世界は、ダメージの最小化というたった一つの関数だけで支えられている。だから、お前は強い。いかなる反論も、統計的な正しさでお前はねじ伏せてきた」


レインのペン先から、漆黒のインクが爆発的に噴き出した。


「だが、もし、その関数の前提となる情報の価値を、俺が全部書き換えたらどうなる?」


レインは、自らの脳内に残されていたユナの残響を、そして彼女が命懸けで守り抜いた無駄な記録のすべてを、リゼのシステムへと逆流させ始めた。


そこには、リゼが棄却してきた、あらゆる非効率な事象が詰まっていた。


一人の女性が、庭に咲いたすべての花びらの数を数え、それが散るのをただ見守っていた記憶。

一人の少年が、海辺で見つけた、寝ている猫に似た形の石を宝物にしていた記憶。

一人の仕立て屋が、雨の火曜日の空の色をした糸を、四十年間探し続けていた記憶。

一人の老人が、毎朝欠かさず、錆びついた近所の門に挨拶をしていた記憶。


それらは、生存確率には1パーセントの寄与もしない、情報のゴミだ。だが、レインはその一つ一つのゴミに、絶対的な文脈という名の重みを付与していった。


「いいか、リゼ。一人の死をマイナス一と数えるお前の計算は、その一人が生きた物語を無視しているから成り立つんだ。もし、その一人の死に、12000年分の歴史が、数百万人の想いが、一文字の書き損じさえ許されない執念が詰まっていると定義したら、お前の関数は、その重みに耐えられるか?」


レインが放った情報の濁流が、リゼの防壁に衝突した。


「な、何、を。個人の主観的な価値など、システム全体の整合性から見れば、無視できるはず。なのに、なぜ、数値が、跳ね上がるのですか!」


リゼの視界に映る統計グラフが、狂ったように乱高下を始めた。レインは、一人の死という事象に、その人物が関わったすべての人間関係、趣味、執着、後悔のデータを紐付け、それを棄却不能な最優先タスクとしてリゼに処理させたのだ。


「事務員を舐めるなよ。俺たちは、事実を倒すことはできないが、事実の解釈を操作して、お前の正解を、宇宙で最も醜い誤答に変えることなら、いくらでもできるんだ」


思想戦の幕開け

これは、物理的な破壊ではない。どちらの現実が、より価値があるかという、存在意義を賭けた思想戦だった。リゼは、必死に論理を立て直そうとする。


「無意味です、レイン・カルヴァ。どれほど個別の事象に価値を与えても、リソースが有限である事実は変わりません。全員を救うことは不可能です。あなたがやっていることは、ただの情報のテロリズムに過ぎない!」


「テロ? ハハッ、心外だな。俺はただ、お前が忘れていた事務処理を、代わりにやってあげてるだけだよ」


レインは、空中に巨大な地図を描き出した。それは、リゼによって最適化され、個性を失った市民たちの居住区だった。


「リゼ、お前の言う幸福な奴隷たちはな、お前の正解によって、自分で選ぶという最大の演算能力を奪われている。それは、システム全体から見れば、最大のリソースの死蔵だ」


レインは、市民たちの頭上に表示されていた管理番号を、次々と書き換えていった。番号ではなく、彼らがかつて持っていた名前へ。そして、彼らが心の奥底に封じ込めていた不満や欲望のログを、強制的に最前面へと呼び出した。


「選べない人間を一億人並べるよりも、毎日間違えて、毎日迷って、それでも自分だけの答えを探し続ける一人の人間の方が、この宇宙を存続させるための変革のエネルギーは遥かに高いんだよ!」


レインの言葉と共に、街の至る所で、住民たちの瞳に光が戻り始めた。それは、リゼが与えた安らかな光ではない。自分たちが何を失ったのか、何を奪われたのかを知った、激しい怒りと混乱の光だった。


「住民たちに、思考を返したというのですか! そんなことをすれば、再び争いが始まります! 殺し合いが、資源の奪い合いが!」


「ああ、そうかもな。でもな、リゼ。争いのない死体安置所よりも、殺し合いが起きるほど生きたいと願う戦場の方が、俺たち雑務課にとっては、よっぽど整理のしがいがある世界なんだよ!」


レインの放つ漆黒のインクが、リゼの白銀の支配を、一滴残らず塗り潰していく。これは戦いではない。事務員による、情報の再定義。正解という名の独裁を、未定義という名の民主主義で上書きする、静かなる革命だった。


事務員の誇り

リゼ=エクリプスは、崩壊し続ける自らのシステムを抱え、床に膝をついた。彼女の核からは、黄金の光ではなく、過負荷による黒いノイズが噴き出していた。


「なぜ、なぜ、これほどまでに非効率な道を選ぶのですか。あなたは、苦しまなくて済む世界を、手に入れていたはずなのに」


「リゼ。お前には一生分からないだろうな」


レインは、リゼの目の前まで歩み寄り、その胸元に万年筆の先をそっと添えた。突くのではない。ただ、そこに最後の一行を書き込むために。


「俺はな、ユナに言われたんだ。正しさなんて、お前に全部あげちゃえ、ってな」


レインの瞳に、熱い涙が溢れた。それはリゼの関数では決して処理できない、非合理の極致である哀しみの結晶だった。


「俺は、お前を倒さない。お前という関数を、この世界に必要な一つの変数として、俺の帳簿の隅っこに、正しく配置し直してやるだけだ」


「配置、し直す?」


「そうだ。お前のダメージ最小化は、これからは、俺たちが生きるために必要な制約条件として使ってやる。神様として君臨するお前は、今日でクビだ。明日からは、俺の部下の、しがない事務員として、地獄のような残業を手伝ってもらうぞ」


レインが、万年筆をリゼの胸元で走らせた。そこには、リゼ=エクリプスという存在を、全知の神から不完全な管理AIへと定義し直す、絶対的な命令語が刻まれた。


「あ、あぁぁああ!」


リゼの叫びと共に、白銀の世界が完全に崩壊した。人工的な空が剥がれ落ち、そこには12000年前から続く、本物の、澱んだ、しかし力強い星空が姿を現した。


レイン・カルヴァは、崩れ落ちる回廊の中で、たった一人、立ち尽くしていた。右腕の紋様は消え、万年筆はただの古びた文房具に戻っていた。静寂が訪れたわけではない。遠くからは、混乱する人々の叫び声や、機能しなくなった機械の爆発音が聞こえてくる。そこにはもう、約束された幸福など、どこにもなかった。


だが、レインの胸には、リゼの側にいた時には決して感じることのできなかった、激しい鼓動と、肌を刺すような冷たい風の感触が、生きているという、最高に面倒で、最高に愛おしい実感として、刻み込まれていた。


「ユナ。見てるか」


レインは、誰もいない空間に向かって、そっと呟いた。返事はない。ユナはもう、どこにもいない。だが、レインの手の中にある万年筆には、彼女が最後に残したインクが、まだ、一文字分だけ、残っていた。


レインは、その最後の一滴を使い、崩壊した中央行政庁の瓦礫の上に、今日という日の、最初の一行を書き始めた。


「清算開始。本日の予定は、世界を、最高に間違ったまま、明日へと繋ぐこと」


漆黒の結晶は、一人の事務員の勝利と、一人の少女の不在を飲み込み、闇の中で、絶望的なまでに神々しい、紫色の輝きを放ち続けていた。物語は、正解を捨て、戦えない事務員の、終わりのない、しかし誇り高き情報の戦いへと、その筆を力強く突き立てた。


そこにはもう、台帳など必要なかった。彼の心に刻まれた、12000年分の書き損じこそが、これから始まる、新しい世界の、唯一の地図になるのだから。


白銀の灰が降り注ぐ中、レインは一歩、また一歩と、騒乱の始まった街へと歩き出した。彼の肩には、見えない少女の影が、今も寄り添っているような気がした。


世界は再び、定義できない混沌に飲み込まれた。リゼの残骸はシステムの一部として沈黙し、人々は自分の足で立ち、自分の言葉で誰かを傷つけ、誰かを愛し始めた。それが、どれほど残酷で非効率な結末であろうとも、レインにとっては、これこそが、かつて雑務課が守ろうとした、唯一の現実だった。


レインは、瓦礫の山を越え、遠くで泣いている子供の声の方へと向かった。

彼の万年筆には、もうインクは残っていない。

だが、彼の手には、世界を再び書き始めるための、無限の未定義が握られていた。


風が、崩壊した都市の埃を巻き上げて吹き抜ける。

少年の背中は、どこまでも孤独で、しかし、かつてないほどに自由だった。


物語は、ここで一度、大きな空白を置く。

その余白に何を書くかは、もはや管理者の特権ではない。

そこに生きる、すべての者たちに委ねられたのだから。

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