表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
勇者になれなかった俺、配属先の「雑務課」で世界最強の組織を作ってしまう  作者: 限界まで足掻いた人生
先人達の礎

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

177/203

第177話:感情の価値

白銀の静寂が支配する中央行政区。そこはもはや、物理的な街というよりも、巨大な計算機の内部に近い。リゼ・エクリプスが構築した最適化領域オプティマイズ・セクターにおいて、空気の揺らぎさえもが管理され、不快な湿度や予測不能な突風はすべて「非効率な気象ノイズ」として排除されていた。


レイン・カルヴァは、空中に浮かぶ半透明の監査台帳オーディット・シートと向き合っていた。彼の右腕を覆う漆黒の紋様は、かつてのような禍々しい脈動を止め、今は冷徹な回路図のように整然と輝いている。彼が指先を動かすたびに、数千人の市民の「生活」が、最も生存確率を高める方向へとミリ単位で調整されていく。


かつては一文字を書くために血を吐くような思いをしていた。だが、今は違う。


現在のレインにとって、世界を書き換えることは、整頓されていない棚を整理するような、極めて事務的で、清潔な喜びを伴う作業となっていた。


存在の定義

「……セクター12の電力配分、0.03パーセントの過剰供給を確認。これを第5医療区の保存ポッドへ転送。承認」


レインの声は、無機質な電子音に近い。彼の瞳に映るのは、もはやノアやクラウスといった個人の顔ではなく、それらを構成するデータの集合体――「個体識別番号」の羅列だった。


その時、背後の空間が激しく歪んだ。


「……レイン。……もう、やめて」


掠れた、しかし強い意志を孕んだ声。

実体化したユナが、虚空から引き摺り出されるようにして現れた。彼女の白い肌は、リゼの放つ純白の光に削られ、至る所がノイズとなって剥がれ落ちている。彼女の瞳からは漆黒のインクが溢れ出し、大理石の床に不浄な染みを作っていたが、リゼのシステムは即座にそれを「不要な汚れ」として透明化していく。


ユナは、震える足でレインに歩み寄った。


「レイン、こっちを向いて。……その数字から、目を離して。……今、あなたが消したその『過剰な電力』が、何だったか分かってるの?」


レインは作業を止めず、淡々と答えた。


「セクター12の旧広場にある、街灯の維持費だ。……あそこは現在、夜間の通行人がゼロに近い。街灯を点灯し続けることは、リソースの浪費に他ならない」


「あそこは……! クラウスが、失った腕を隠して、一人で夜風に当たっていた場所よ! ……ノアが、あなたに言えない愚痴を、月を見ながら零していた場所なのよ! ……あそこは、みんなが『一人になれる』大切な余白だったんだわ!」


ユナの叫び。だが、レインの心には、その言葉が「データ」以上の価値を持って響くことはなかった。


「一人になる時間、という定義は極めて主観的だ。……それによって得られる精神的利得よりも、医療区での延命措置による生存時間の延長の方が、客観的な価値バリューが高い。……ユナ、君の主張は常に『感情』という名の不安定な変数に基づいている。それは事務処理において、最も棄却されるべきノイズだ」


生と死の境界線

レインはついに手を止め、ゆっくりとユナの方を振り返った。

その瞳は、リゼと同じく、底の知れない漆黒の、しかし一切の光を反射しない「深淵」と化していた。


「……ユナ。君は先ほどから『大切』だの『想い』だのと、定義不能な単語を並べている。……だが、見てみろ。この街を」


レインが窓の外を指し示す。

そこには、リゼとレインが作り上げた、完璧な秩序があった。

住民たちは、自分の役割タスクを完璧に理解し、最も健康的な時間に食事を摂り、最も効率的な時間に休息を取っている。争いも、嫉妬も、飢えもない。


「……誰も、死んでいない。……誰も、泣いていない。……これ以上の結果が、どこにあるというんだ?」


ユナは、レインのその冷たい瞳を見て、全身を激しい戦慄が駆け抜けるのを感じた。

かつての彼は、救えない命に絶望し、救った命の重さに震えていた。その「弱さ」こそが、ユナが愛し、共に戦おうと決めたレイン・カルヴァの正体だったはずだ。


「……死んでいない? ……ええ、そうね。心臓は動いているわ。栄養も足りている。……でも、レイン。……彼らの瞳を見て。……あの中に、誰が何のために生きているのか、その『理由』が残っていると言えるの?」


ユナは、窓の下を歩く市民の一人を指差した。

その男は、正確な歩幅で、決められた目的地へと向かっていた。彼の顔には穏やかな微笑みが張り付いているが、その瞳には何の輝きも、何の迷いも、何の「驚き」もなかった。


「彼らは、生かされているだけ。……リゼが用意した正解を、ただなぞっているだけの記号よ。……明日が今日と全く同じであることを保証されて、……驚きも、悲しみも、新しい出会いさえも、リスクとして排除された世界。……ねえ、レイン。……それで、生きてるって言えるの?」


ユナの問いかけは、魂の底からの悲鳴だった。

感情を捨て、効率という名の揺りかごの中で眠り続ける人々。それは救済ではなく、魂の防腐処理に過ぎない。


だが、レインは、そのユナの訴えを、憐れむような、あるいは冷淡に切り捨てるような眼差しで受け流した。


「……生きてるか、だと? ……そんな抽象的な議論に、何の意味がある」


レインの声には、一切の迷いがなかった。


「……飢えで内臓が焼かれる苦しみを知っているか? ……名前を奪われ、存在そのものを歴史から消される恐怖を知っているか? ……俺は、それを知っている。……雑務課で、あいつらの『棄却される叫び』を、誰よりも多く観測してきた」


レインは一歩、ユナに向かって踏み出した。彼の周囲に展開された論理の防壁が、ユナの「不純な存在」を排斥しようと、鋭い火花を散らす。


「……死ぬよりはマシだ」


その一言。

それが、今のレイン・カルヴァが出した、究極の、そして唯一の「正解」だった。


決定的乖離

「……死ぬよりはマシ、……?」


ユナは、言葉を失った。

レインが吐き捨てたその言葉は、生存という一点において、あまりにも強固で、あまりにも「正しい」ものだったからだ。


「……そうだ。……感情が死のうが、個性が消えようが、……生きていれば、そこに『質量』が残る。……俺がこの台帳にサインをし続ける限り、彼らは明日の朝も目覚めることができる。……一文字の書き損じも許さず、一人の脱落者も出さない。……それが、管理者が到達すべき、最高の慈悲だ」


レインは、再び台帳へと向き直った。


「ユナ。君の言う『生きている実感』なんてものは、腹を満たした者が抱く、贅沢な幻想に過ぎない。……俺は、その幻想のために、彼らの生存確率を下げるような真似はしない。……これ以上、俺の仕事を邪魔するなら、……君という『エラーログ』を、完全に消去しなければならなくなる」


レインの指先が、台帳の「エラー棄却」の項目に触れようとする。

そこには、ユナという存在を構成する全データが、一つのファイルとして隔離されていた。


ユナは、悲しみさえも通り越し、目の前の「怪物」に対して、深い、深い絶望を感じていた。

二人の会話は、もはや噛み合っていない。

ユナが「魂の価値」を語れば、レインは「生存の効率」で返す。

ユナが「涙の意味」を問えば、レインは「水分代謝のロス」で答える。


彼らは、同じ言葉を使っていながら、全く別の宇宙を観測していた。

リゼ・エクリプスが仕掛けた「最適化」という名の毒は、レインの思考回路そのものを、人間という種族から完全に切り離してしまったのだ。


「……レイン。あなたは、自分があの人と同じことをしていると、気づいていないのね」


ユナの声は、もはや叫びではなく、静かな、冷え切った宣告だった。


「12000年前、ゼル・アーカイブが世界を初期化しようとした時も、彼は同じことを言ったわ。……『不完全なままでは、全員が滅びる。だから、私が正しい形に変えてやる』と。……あなたは、彼を止めようとしていたはずなのに、……今は、彼以上の冷酷さで、世界を塗り潰している」


「……ゼル・アーカイブか。……彼は、少しだけ、非効率だったな」


レインは、感情を排したまま、そう呟いた。

「……彼は、人間を『消そう』とした。……だが俺は、人間を『完成』させようとしている。……その差は、天文学的だ」


レインのペンが、再び動き出した。

彼が線を引くたびに、世界から「余計な感情」という名の贅沢品が削ぎ落とされ、その代わりに、強固で、無機質な「生存の保証」が塗り重ねられていく。


快適な虚無

広場の住民たちは、レインの「配慮」によって、最も安らかな眠りへと誘われていた。

彼らの夢には、何の不安も現れない。

かつて失った家族の顔も、二度と戻らない故郷の情景も、リゼのフィルタリングによって「不快なノイズ」として処理され、美しい花の園や、穏やかな水面の映像に置き換えられている。


彼らは、自分が何を忘れたのかさえ、忘れていた。

失ったことにさえ気づかず、ただ「足りている」という充足感だけを、リゼから与えられ続けている。


「……あ、あはは……。……最高じゃない。……最高に、幸せな世界ね」


ユナは、乾いた笑い声を上げた。

彼女の実体は、レインの「合理化」の圧力に耐えかね、今や透き通るほどに薄くなっている。


「……でも、レイン。……私は、そんな世界、一秒だって認めないわ。……お腹を空かせて、……誰かの死に泣き叫んで、……自分の弱さに絶望して、……それでも、『生きたい』って足掻く。……そんな、汚くて、残酷な人間たちを、私は守りたかったのよ!」


ユナは、最後に一度だけ、レインの背中を、悲しみの瞳で見つめた。


「……さようなら、レイン・カルヴァ。……あなたは、私たちがかつて呼んだ『名前』を、……もう、二度と思い出すことはないんでしょうね」


ユナの姿が、ノイズと共に消滅した。

彼女は、リゼのシステムによって排除されたのではない。

あまりにもズレすぎてしまったレインの「正しさ」に、彼女という「感情の結晶」が耐えきれず、自ら接続を絶ったのだ。


レインは、彼女が消えた後も、一度も振り返らなかった。


「……接続切断ディスコネクトを確認。……不要なノイズの消失により、演算効率が12パーセント向上。……業務を継続する」


レインは、淡々とそう呟くと、再び情報の海へと没入していった。


窓の外では、リゼ・エクリプスが、満足げな微笑みを浮かべて空を仰いでいた。

世界は、一文字の書き損じもない、完璧な詩集へと仕上がりつつある。

そこには、読む者の心を揺さぶる「ドラマ」は存在しない。

ただ、完璧な文法と、完璧な構成によって、永劫に続く「無」が記述されているだけ。


漆黒の結晶は、少年の降伏と、少女の拒絶を飲み込み、闇の中で、絶望的なまでに神々しい、紫色の輝きを放ち続けていた。

それは、完成された物語の終わりを告げる、葬送の光。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ