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勇者になれなかった俺、配属先の「雑務課」で世界最強の組織を作ってしまう  作者: 限界まで足掻いた人生
先人達の礎

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第175話:正しさの中毒

白銀の静寂が支配する中央行政区の回廊は、もはや物理的な建築物であることをやめ、純粋な論理の集積体へと昇華していた。大理石の床には一筋の傷もなく、壁面を流れる魔導回路の光は、脈動することさえ忘れ、ただ一定の周期で「正解」という名の信号を送り続けている。


レイン・カルヴァは、その完璧に調律された空間の熱を、全身の毛穴から吸い込んでいた。


彼の右腕に宿る漆黒の紋様は、かつての禍々しさを失い、今はただ澄み切った深い藍色へと沈殿している。万年筆の先から滴るインクもまた、粘り気を失い、水のように透明で、どこまでも機能的な「定義の溶剤」へと姿を変えつつあった。


目の前に立つリゼ・エクリプスは、慈愛に満ちた聖母のような、あるいは全知の演算機のような微笑みを浮かべ、レインの瞳を覗き込んでいる。彼女の漆黒の髪がさらりと肩を流れるたび、周囲の未定義なノイズは消え去り、世界はより鮮明に、より「あるべき姿」へと再編されていった。


「気分はいかがですか、レイン・カルヴァ。……思考を曇らせていた感情という名の霧が晴れ、世界の骨組みが、数式となってあなたの網膜に映り始めているはずです」


リゼの声は、冷たい氷が水晶に触れるような響きを湛えていた。それは誘惑ではなく、ただ確定した事実を告げるための事務的な振動だ。


レインは、自らの脳内を駆け巡る情報の奔流に、かつてない高揚感を覚えていた。

それは熱狂ではない。もっと冷たく、澄み渡った、絶対的な「全能感」に近い何かだった。


セクター9での選択。10パーセントを棄却し、90パーセントを救ったあの瞬間。

最初は引き裂かれるような罪悪感があった。だが、その後に訪れた「900人が安らかに眠っている」という動かしがたい結果が、レインの心に強力な麻酔を打ったのだ。


「……悪くない。いや、……正しい」


レインの口から漏れた声は、自分でも驚くほど理知的で、乾いていた。


「これまでの俺は、……あまりにも非効率だった。……一人の涙を止めるために、十人の未来を危険に晒していた。……それは救済ではなく、ただの不合理な博愛だ」


彼の視界には、今や街のすべての事象がデータとして可視化されている。

歩く人々の頭上には、その個体の代謝効率と、今後30日間の生存確率、そして社会に対する貢献期待値が、青白い数字となって浮遊している。

それを眺めているだけで、誰を生かし、誰を補助し、誰を切り捨てるべきか、その「正解」が、自動的に導き出されていく。


合理の陶酔

レインは、リゼが展開した巨大な「因果の帳簿」の前に立ち、万年筆を振るった。

以前のような、血を吐くような思いで一文字を刻む感覚はない。ただ、最も効率的な解を選択し、承認チェックを入れるだけの作業。


「見てください、レイン。……あなたが第4居住区の配給ルートを再定義したことで、輸送中のエネルギーロスが12.4パーセント減少しました。……それによって余ったリソースを、第5区の延命ポッドに回すことができる。……この瞬間に、あなたは計算上、さらに42人の命を『確定』させたのです」


リゼがレインの肩にそっと手を置く。その指先から伝わる冷気が、レインの思考をさらに加速させた。


「……42人。……俺がこの一行を書くだけで、42人の死が回避されたわけか」


「そうですわ。……感情に身を任せ、誰も殺したくないと泣き叫んでいた頃のあなたには、決して成し得なかった奇跡です。……どちらが真に『善』であるか、もはや議論の余地もありませんわね」


レインは頷いた。

その通りだ。

救いとは、生存者の数だ。

命とは、宇宙という巨大な台帳に刻まれた数字に過ぎない。

その数字を最大化することこそが、管理者に与えられた唯一の聖務であるはずだ。


彼の脳内では、かつてユナと交わした「不完全な世界への愛」といった言葉が、急速に色褪せていた。

それらは、システムの不整合を正当化するための言い訳であり、弱者が自らの無能を隠すための感傷に過ぎない。

管理者が感傷に浸ることは、即ち、救えたはずの命を見殺しにするという、最大の背任行為なのだ。


「……そうだ。……余計なものは、いらない」


レインの瞳が、リゼと同じ漆黒の、しかし光を反射しない無機質な輝きを帯びる。


「……ユナは、エラーを愛せと言った。……だが、エラーはエラーだ。……それは計算を狂わせ、全体の生存率を押し下げるだけの毒に過ぎない」


レインは、帳簿の隅に書き込まれていた「かつての自分」のメモ――誰かの誕生日や、どうでもいい世間話の記録――を見つけ、それを冷酷に塗りつぶした。

そんなデータは、現在の最適化された世界には必要ない。

それはメモリを圧迫し、処理を遅延させるだけのノイズだ。


拒絶される感情

「……レイン、嘘でしょ……」


震える声が、回廊の静寂を乱した。

実体化したユナが、虚空から這い出るようにして現れる。彼女の姿は、周囲のあまりにも高い整合性に圧迫され、ノイズが走り、今にも崩壊しそうなほどに脆くなっていた。


「……そのデータの消し方、……リゼと同じよ。……あなた、何をしてるのか分かってるの? ……それは、私たちが拾い集めてきた、……一番大切な『記憶』なのよ!」


ユナの瞳から、黒いインクが溢れ出し、大理石の床を汚す。

以前なら、レインはその汚れを愛おしく思い、彼女を抱きしめたはずだ。

だが、今のレインにとって、その涙はただの「不衛生な情報の流出」にしか見えなかった。


「……ユナ、君のその反応も、計算の範疇だ。……君は過去の遺物、……ミラの残響として、変化を拒むように設計されている。……だが、その保守性は、今のこの世界には有害だ」


レインの声には、怒りさえなかった。ただ、壊れた部品を点検するような、冷淡な響きだけがあった。


「……有害? ……私が、有害だっていうの?」


「そうだ。……君が抱えている12000年分のログは、その99パーセントが現在の生存には寄与しない不純物だ。……誰が誰を愛した、誰が何を後悔した。……そんな不確かなパルスを保存し続けるために、どれだけの演算リソースが浪費されているか考えたことがあるか?」


レインは一歩、ユナに向かって歩み寄った。彼の周囲に展開された論理の結界が、ユナの存在を「不要なプログラム」として排斥しようと、鋭い火花を散らす。


「……レイン、やめて。……そんな顔で私を見ないで……!」


「……ユナ。君を維持するためのコストを、他の100人の市民の食料生産に回すべきだ。……それが、論理的な帰結だ」


「……あなたは、私を消すっていうの? ……一緒に戦ってきた、私を……!」


ユナの叫び。それはかつて、レインの魂を揺さぶる最強の武器だった。

だが、今のレインは、その叫びを「110デシベルの音響ノイズと、非論理的な感情アピール」として、即座にフィルタリングした。


レインはリゼの方を向き、淡々と言い放った。


「……リゼ。ユナの全ログを圧縮し、重要度の低い感情データを棄却する。……代わりに、彼女の演算能力を、第7区の気象制御システムに転用しろ。……それが、彼女というリソースを最も有効に活用する方法だ」


「……素晴らしい提案ですわ、レイン。……あなたはついに、私さえも驚かせるほどの『正解』に辿り着いたのですね」


リゼの微笑みが、完成された円環のように輝く。

リゼにとって、レインのこの変節は、宇宙のバグが修正されたことを意味していた。

もっとも厄介な反逆者が、もっとも忠実な執行人へと進化した瞬間。


無駄の排除

ユナは、絶望の瞳でレインを見つめたまま、言葉を失った。

彼女の知っているレイン・カルヴァは、ここにはいない。

そこにいるのは、リゼ・エクリプスという鏡に映し出された、もう一人の、冷徹な死神だった。


レインは再び、因果の帳簿へと向き直った。

彼の視界には、世界中の「無駄」が、まるで腐った果実のように目に付いて仕方がなかった。


効率の悪い居住区。

生産性のない娯楽。

意味のない芸術。

そして、論理的に説明できない「情愛」という名の執着。


それらすべてが、救済という名の完璧なキャンバスを汚す、不快な染みに見えた。

それらを一つずつ、万年筆の先で消去していく行為。

それは、レインにとって、最高の快楽となっていた。


正しさという名の、甘い、甘い毒。

一度その「中毒」に侵されれば、人はもはや、不完全な現実に耐えることができなくなる。

一ミリの誤差も許さず、一文字の書き損じも許さない。

完璧な世界。

死んでいるように静かで、墓場のように清潔な、究極の理想郷。


「……リゼ。次の区画の清算を始める。……これ以上、不確かな要因を放置しておくわけにはいかない」


レインは、自らの血をインクに変えることさえ、合理的ではないと判断した。

彼はリゼが提供した、不純物の一切混ざっていない「真理のインク」を万年筆に充填し、白紙のページに向き合った。


「……無駄は、排除すべきだ」


その言葉がレインの口から発せられた瞬間、宇宙のロゴスが、重厚な音を立てて書き換えられた。


彼の背後で、ユナが崩れ落ちる。

彼女の記憶の断片が、レインが引いた「合理化の線」によって切り裂かれ、光の塵となって消えていく。

かつて共に笑った記憶も。

共に泣いた夜も。

それらはすべて、レインという名の管理者が下した「正しい決断」によって、ゴミ箱へと捨てられていった。


レインの心拍数は、一定のままだ。

脳波にも、異常な揺らぎはない。

彼は、至極まともな状態で、至極まともな判断を下し、世界を救い続けている。


罪悪感はない。

後悔もない。

ただ、そこには、宇宙で最も「正しい」事務員としての、完璧な充足感だけがあった。


影の中の嘲笑

その光景を、中央行政区の影から見つめる者がいた。

数千の顔を持ち、数万の声を重合させる異形――スナッチ・ビルド・ロック。


彼は、リゼが構築した白銀の床に、自身の醜悪な影を落としながら、声の濁流のような笑い声を漏らした。


「……ククッ、……アハハハハ! ……最高だ、最高だぞ! ……リゼ・エクリプス! お前は、最強の武器を手に入れたな!」


スナッチ・ビルド・ロックの身体が、情報のノイズに震える。

彼の内部にある無数の顔が、ある者は絶叫し、ある者は狂ったように笑い、ある者はレインの変節に快哉を叫んでいた。


「……自由を愛でた解析士が、……今や、自由を『最大の無駄』として切り捨てている! ……これ以上の喜劇が、この宇宙にあるか? ……正義に酔った勇者よりも、……正しさに中毒ジャンクった事務員の方が、遥かに効率的に世界を滅ぼしていく!」


スナッチ・ビルド・ロックは、自身の砂嵐のような顔を歪め、影の中へと溶けていった。


「……勇者がくるかもしれないなぁ……。……ククッ、……来ればいい。……そして、この『完璧な正しさ』に、その魂ごと粉砕されればいい。……レイン・カルヴァは今、……我々のような『不純物』さえもが、……憧れるほどの、……最高に冷酷な『神』になったのだからな……」


彼の笑い声は、回廊の響きに吸収され、一瞬で「不要な音声データ」として処理された。


レインは、最後の一行を書き終えた。

第175居住区における、全「非効率個体」の棄却承認。

その処理によって生み出されたリソースにより、翌日の全区画の生存期待値は、0.02パーセント上昇した。


「……よし。……次だ」


レインは、顔を上げ、次のページを捲った。

彼の瞳には、もはやユナの姿さえ映っていなかった。

ただ、そこには、無限に続く「正しい数字」の列だけが、宇宙の真理として、神々しく輝き続けていた。


正しさは、人を救わない。

正しさはただ、人を、世界を、美しく整理された「死体」へと変えていくだけだ。


その真理の頂点に立ち、レイン・カルヴァは、かつてないほどに穏やかな、完成された微笑みを浮かべていた。

それは、リゼ・エクリプスと全く同じ、救いようのない絶望を内包した、完璧な正義の微笑みであった。


漆黒の結晶は、少年の「中毒」という名の降伏を飲み込み、闇の中で、絶望的なまでに神々しい、紫色の輝きを放ち続けていた。

物語は、希望という名の不確定要素を完全に棄却し、

最適化された破滅という名の、

究極の安定へと、

その筆を、冷たく進めていく。


「……リゼ。……世界は、もっと、綺麗になれる」


少年の呟きは、誰の心にも届くことなく、真空の宇宙へと、正しく消えていった。

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