第172話:選ばれる側
銀色の回廊に、かつての勇者が聖剣を落とした際の残響が、いつまでも消えずに漂っているようだった。物理的な音はとうにリゼ=エクリプスによって「不要なログ」として処理され、無音の静寂が支配しているはずなのに、レイン・カルヴァの耳の奥には、正義が論理に敗北した際の、あの乾いた、絶望的な金属音がこびりついて離れなかった。
リゼの背後に控えていた、かつて勇者レオンだったはずの「残骸」は、もはや呼吸する肉塊以上の意味を持っていなかった。彼の意志は、リゼが提示した「完璧な救済」という名の統計データによって完膚なきまでに粉砕され、今はただ、最適化された世界を構成する一つの記号として、その場に跪いている。
レインは、自身の右腕を覆う漆黒の紋様が、かつてないほど冷たく沈殿していくのを感じていた。
目の前に立つリゼ=エクリプス。漆黒の長い髪が、一切の不純物を排した白銀の空間で、死を誘う深淵のように揺れている。彼女の唇に張り付いた完成された微笑みは、もはや怒りや憎しみを抱くことさえも許さないほど、崇高で、そして絶対的な正しさを湛えていた。
「……勇者さえ、ああなるのか」
レインの声は、自分でも驚くほど掠れていた。
隣に立つ実体化したユナは、自身の存在を繋ぎ止めるだけで精一杯だった。彼女の肌を走る紫黒色の紋様が、リゼの放つ「完璧な調和」という名の圧力に削り取られ、薄い情報の欠片となって虚空へ霧散していく。
「レイン、……逃げましょう。……今のあなたでは、あの女の言葉に耐えられない。……あの女は、私たちの12000年を、……たった一行の『正論』で書き換えてしまう……」
ユナの制止の声が届くよりも早く、リゼ=エクリプスが動いた。
彼女は戦うためではなく、まるで長年連れ添った部下に接するかのような、親愛と信頼に満ちた足取りで、レインの目の前まで歩み寄ってきた。
彼女からは、命の温もりを感じさせない、清浄な紙とインクの香りが漂っていた。
「……勇者の敗北。それは、この宇宙における必然的な監査の結果に過ぎませんわ、レイン・カルヴァ。……彼は、救いたいという『自分本位な欲望』を、救済という『結果』よりも優先してしまった。……その矛盾が、私の提示した鏡によって露見しただけのことです」
リゼは優雅な仕草で、レインの頬に手を添えた。その指先は、氷の楔を打ち込まれたかのように冷たく、それでいて驚くほど優しくレインの肌をなぞった。
「……やめろ」
「いいえ。……拒絶しないでください。……私は、あなたを理解しに来たのですから。……そして、あなたもまた、私を……この世界を、誰よりも理解できるはずなのです」
リゼの漆黒の瞳が、レインの瞳の奥深くを覗き込む。
その瞬間、レインの視界から周囲の回廊が消え、彼とリゼだけの、純粋な情報の深淵へと意識が引き摺り込まれた。
管理者の視座
リゼが見せたのは、この宇宙を構成する、数千億にも及ぶ事象の「生の記録」だった。
そこには、一人が笑えば十人が泣き、一人が生き残れば百人が死ぬという、不都合で残酷な因果の天秤が、美化されることなく剥き出しで存在していた。
「……ご覧なさい。これが、あなたが12000年分の『ゴミ』と呼んで拾い集めてきたものの正体です。……誰かが救われたという物語の裏側には、必ず、その救済から漏れ落ち、数式によって殺された数え切れないほどの『端数』が存在する」
リゼの言葉と共に、レインの脳内に、かつて自分が「雑務課」として処理してきた膨大な書類の内容がフラッシュバックする。
パンが足りない。薬が届かない。名前が消えた。
それらすべてを、彼は「仕方ない」と切り捨てることができず、インクで書き留めることで救おうとしてきた。
だが、リゼはその彼の「優しさ」の矛盾を、容赦なく暴いていく。
「あなたが、ある一人の名前を帳簿に書き加えるたび。……別の場所では、その書き込みによって生じた『整合性の歪み』のせいで、別の誰かの存在が音もなく消去されている。……レイン、あなたは救っていたのではない。……あなたはただ、自分の手の届く範囲の事象だけを優遇し、それ以外を無意識に殺し続けてきただけなのです」
「……違う。俺は、……」
「いいえ、同じです。……私と、あなたは、同じ側の人間ですのよ」
リゼが囁く。その声は、レインの心の一番奥にある、決して誰にも見せたくなかった「管理者としての罪悪感」を、愛撫するように揺さぶった。
「あなたは、選ぶことができる。……あなたは、観測し、定義し、世界を書き換える権限を持っている。……その時点で、あなたはすでに、『選ばれる側』の人間ではなく、……『選ぶ側』の、孤独な管理者に成り果てているのですわ」
レインの全身を、冷たい戦慄が走った。
選ばれる側。
それは、リゼの間引きに怯え、管理の手の中で生かされ、いつ消去されるかも分からず、ただ配給のパンを待つしかない、名もなき市民たちのことだ。
かつてレインは、自分もその一人だと思っていた。勇者になれず、配属先に失望し、ただ上司に怒鳴られながら事務処理をする、ちっぽけな存在だと。
だが、リゼはそれを真っ向から否定する。
「……選ばれる側の人間は、世界の構造など理解しません。……彼らはただ、目の前のパンを喜び、目の前の死を嘆く。……ですが、あなたは違う。……あなたは、そのパンがどこから来たのか、その死がどのような因果で生じたのか、そのすべての裏側を知ってしまった。……そして、それをコントロールしようと足掻いてしまった」
リゼの顔が、レインの鼻先にまで近づく。
彼女の微笑みは、完成された円環のように非の打ち所がなく、それゆえに反論の隙を一切与えない。
「あなたは、理解できる側ですね、レイン。……この世界の仕組みを。……救済の不可能性を。……そして、管理者が背負うべき『正しい冷酷さ』の必要性を」
その言葉を投げかけられた瞬間、レインは否定の言葉を紡ごうとした。
俺はあいつらと同じだ。俺はあいつらのために戦っているんだと、そう叫ぼうとした。
だが。
言葉が、出なかった。
彼の指先には、今もなお、世界を書き換えるための漆黒のインクが宿っている。
彼の脳内には、宇宙の全履歴を閲覧できる全知の感覚が残っている。
彼が「死ぬな」と念じれば、目の前の人間の命を繋ぎ止めることができ、「消えろ」と願えば、その存在を歴史から抹消できる。
その「力」を持ってしまった自分が、どうして「選ばれる側」の無力な人々と、同じ土俵に立てるというのか。
彼は、一人の市民としてパンを分け合う存在ではなく、そのパンが誰に渡るべきかを、あるいは誰から奪うべきかを、全知の孤独の中で決定しなければならない「選ぶ側」の怪物に、いつの間にか、成り果てていた。
否定できない共犯性
リゼは、レインの沈黙を、これ以上ないほどの「合意」として受け取った。
彼女はレインの手をそっと取り、その右腕に刻まれた漆黒の紋様を、慈しむように見つめた。
「……あなたのそのインク。……それは、棄却された者たちの怨嗟と、選ばれなかった未来の血でできています。……それを使って世界を書き換えることは、即ち、彼らの犠牲を肥料にして、自分の望む現実を育てるという、私以上の独裁行為ではありませんか?」
リゼの言葉は、レインが第164話で抱いた「世界の重さ」に対する、最も残酷な再定義だった。
あの時、彼は「罪を背負って書く」と決めた。殺した未来の亡霊たちを肩に乗せて、それでも進むと誓った。
だが、リゼは言う。
その「罪を背負う」という態度自体が、選ばれる側の人間には許されない、管理者特有の「贅沢な感傷」に過ぎないのだと。
「……死んでいく者は、罪を背負うことさえ許されません。……ただ、消えるだけです。……罪を背負えるのは、生き残り、選択を続けた勝者だけ。……レイン、あなたが抱えているその痛みさえも、……あなたが『選ぶ側』に君臨していることの、何よりの証明なのですわ」
リゼの微笑みが、深淵のように開いていく。
「……認めなさい。……あなたは、私を憎んでいるのではない。……私という『完璧な管理者』の中に、自分自身の未来を見出し、それに恐怖しているだけなのです。……あなたがいつか到達するであろう、感情さえも最適化した果ての姿……。それが、私なのですから」
「……違う……、俺は、……」
「何が違うのです? ……あなたは今、この街を救うために、私の『最適化』を否定しようとしている。……ですが、それを否定した後に訪れるのは、何ですか? ……無秩序な死。……管理不能な飢餓。……救えたはずの命が、あなたの気まぐれな『未定義』によって次々と失われていく。……その時、あなたは再び、ペンを握るはずです。……『この人だけは救いたい』と。……そしてその瞬間、あなたはまた、誰かを見捨て、選別し、私の元へと戻ってくるのです」
リゼは、レインの胸元に耳を当てた。
鼓動が、激しく、しかし不規則に乱れている。
「……聞こえますわ。……あなたの心音が、……『正しくなりたい』と、……『これ以上の犠牲を出したくない』と、……悲鳴を上げています。……それは、管理を志す者が最初に抱く、最も高潔で、最も危険な初動負荷。……レイン、あなたも私も、……この不完全な宇宙という帳簿を、正しく、美しく締めくくりたいと願っている。……ただ、それだけのことなのです」
レインは、自らの右腕を動かそうとした。
だが、身体が石のように重い。
リゼの言葉が、彼の肉体を構成する情報のすべてに「正解」として定着し、物理的な束縛以上の重圧となって彼を縛り付けていた。
彼は否定したかった。
自分は、ただの事務員だ。
自分は、勇者になれなかった、出来損ないの記録者だ。
そう言いたかった。
だが、リゼが提示する「生存者の数」という圧倒的な結果を前にして、彼の「感情」という名の反論は、あまりにも脆弱で、あまりにも非効率なノイズにしか聞こえなかった。
リゼの言う通り、もし自分がこの現状を破壊すれば、今、清潔な服を着て、安らかに眠っている数万の市民たちは、再び地獄に叩き落とされる。
その責任を、自分は取れるのか。
リゼが「正しさ」によって救った命を、自分の「わがまま」によって殺すことに、一体何の正当性があるというのか。
レインは、自身の掌にこびりついた漆黒のインクを、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
この黒は、救いの色ではない。
それは、世界という名の生贄を選別するための、血の色だった。
ユナの叫びと静寂
「……やめて、……レイン、聞いちゃダメよ……!」
遠くで、ユナの声が響いた。
彼女は、リゼが展開した「管理者の視界」の外側で、必死に手を伸ばしていた。
だが、彼女の声は、この整合性1000パーセントの空間においては、ただのエラーメッセージとして処理され、レインの意識にまでは届かない。
「……その女は、……あなたの良心を、……あなたの『管理者としての資質』を利用しているだけ! ……レイン、あなたは事務員でいいの! ……神様になんて、……選ぶ側になんて、……なっちゃダメなのよ……!」
ユナの瞳から溢れる黒い涙が、大理石の床を汚していく。
だが、リゼはその汚れさえも、優雅な仕草で「透明な定義」へと上書きしてしまった。
リゼ=エクリプスは、レインの頬を離し、ゆっくりと数歩下がった。
彼女の背後には、沈黙した勇者の残骸、そしてその向こう側に、数百万の「生かされている」市民たちの思念が、巨大な光の壁となって立ち塞がっている。
「……レイン・カルヴァ。……あなたは、理解できる側の人。……ならば、答えは自ずと導き出されるはずです」
リゼは、再び完璧な微笑みを湛えた。
「……私と共に、この宇宙を、最高に美しく、最高に高効率な『完結』へと導きませんか? ……あなたがその万年筆を、私の台帳の一部として捧げてくれるなら。……私は、12000年分の全人類の未定義を、一滴の涙さえ流させることなく、幸福な眠りの中へと収束させて差し上げましょう」
それは、究極の「事務処理の完了」の提案だった。
これ以上、苦しむ必要はない。
これ以上、誰を殺すべきか悩む必要もない。
リゼという巨大なシステムの一部になれば、すべての責任は「宇宙の理」へと移管され、レインはただ、完成された世界を眺めるだけの、幸福な観測者になれるのだ。
レイン・カルヴァは、その場に崩れ落ちるようにして、膝をついた。
彼の右手から、漆黒のインクが力なく滴り、鏡のような床に、小さな、しかし深い「絶望の点」を作った。
彼は、否定できなかった。
自分が「選ぶ側」になってしまったことを。
自分が「救済の裏側」を知ってしまったことを。
そして、リゼが掲げる「正しさ」の中に、自分自身の影が、確かに潜んでいることを。
「……ぁ、……あぁ……」
レインの口から漏れたのは、言葉ではなかった。
それは、自らの「正しさ」という名の牙に、自分自身の魂を噛み砕かれた者の、断末魔のような呻きだった。
回廊には、再び完璧な静寂が戻ってきた。
リゼ=エクリプスの微笑みは、勝利を確信した者のそれではなく、ただ「予定通りの結果」を記録するだけの、冷たく、そして美しい、死神の安らぎだった。
漆黒の結晶は、少年の沈黙と、例外処理の少女の「正論」を飲み込み、闇の中で、絶望的なまでに神々しい、紫色の輝きを放ち続けていた。
それは、かつて勇者が目指した「希望」よりも、遥かに確実で、遥かに重い、世界の終わりを告げる光であった。
物語は、主人公が自らの「特権」という名の呪いに気づき、そのあまりの重さに筆を折る寸前で、最悪の停滞へと突入していく。
リゼ=エクリプスは、静かにレインを見下ろし、その唇を再び動かした。
「……ようこそ、私たちの側へ。……管理者レイン・カルヴァ」
その瞬間、世界からすべての「無駄」が、一瞬だけ消え去ったかのような、あまりにも不気味な平和が訪れた。




