第100話:誤差
深夜二時。執務室を照らしているのは、青白い魔導モニターの光と、俺のデスクにある小さな卓上灯だけだった。
モニターには、世界中の平和指数を示す巨大なダッシュボードが映し出されている。
その中央に鎮座する、世界が最も称賛し、最も信頼している数字。
紛争発生件数:0。
この数字を守り抜くことこそが、雑務課に課せられた至上命令であり、俺たちが最強と呼ばれる所以だった。
ミラが音もなく俺の背後に立ち、静かに報告書を置いた。
そこには、先日のエルフとドワーフによる武力衝突の最終的な集計結果が記されている。
「報告します。グレス・ヴァル境界森林における事案。最終的な死者数、百二十四名。負傷者、三百六十二名。破壊された魔導殻、および周辺の森林消失面積。これらすべてのデータ修正が完了しました」
俺は報告書を手に取り、その分類の欄を見た。
そこには、第1種大規模労働災害という文字が、無機質な明朝体で刻まれていた。
戦闘、殺し合い、憎悪。そんな血の通った言葉は、ミラの指先一つで、事務的な処理プロセスのなかに飲み込まれてしまったのだ。
「係長、本当にこれでいいんですか」
カイルが、デスクの隅で震える声を絞り出した。
彼の手元には、現場で回収された遺品の一部、壊れたドワーフの銀細工と、血に染まったエルフの矢羽が置かれている。
「百二十四人の人間が、明確な殺意を持って殺し合ったんです。それを事故なんて言葉で片付けて、死んだ人たちの家族に、俺たちはなんて説明すればいいんですか。不運な機械の故障でしたって? そんなの、あまりにひどすぎる」
「カイル」
俺はペンを置き、椅子を回して彼に向き合った。
「お前の言うことは正しい。感情としては、俺も同じだ。だが、この百二十四人を戦死者として帳簿に載せてみろ。世界はどう動く? エルフとドワーフの国交は断絶し、先週サニアが取り付けた資源共有条約は紙屑になる。物流が止まり、復興中の都市では資材が枯渇し、冬を越せない難民が数万人単位で餓死するだろう。戦争という言葉が一度放たれれば、それは連鎖し、増幅し、さらなる数万人の死を生む。俺たちは今、百二十四人の死を事故という名の誤差として処理することで、数千万人の日常を守っているんだ」
「それは……嘘で固めた平和じゃないですか」
「そうだ。嘘だ。だが、世界を支えるのに真実なんて必要ない。必要なのは整合性だ。帳簿が合っていて、予算が正しく執行され、人々が明日もパンを食べられるという確信。それが俺たちの提供する、平和という名の商品だ」
俺は再びモニターに視線を戻した。
ミラが提示した統計学的な計算式が、空中に浮かび上がっている。
全人口に対する、局地的な衝突の死者数の比率。
その数値が一定の閾値以下であれば、システム上は平和であると定義される。
百二十四という数字は、大陸全土の人口比から見れば、コンマ以下の微々たる誤差に過ぎなかった。
俺たちが扱うのは、命ではなく確率だ。
その冷徹な数式が、残酷なまでに完璧な世界の静寂を証明していた。
「事務屋は神様じゃない。世界のすべてを救うことはできないが、不備を最小限に抑え、破綻を先送りにすることはできる。カイル、俺たちが最強なのは、誰よりも剣が強いからでも、魔法が優れているからでもない。世界が直視したくない現実を、事務処理という名の闇に葬り去る覚悟があるからだ」
俺はペンを握り、報告書の承認欄にサインをした。
ペンの先から流れるインクが、百二十四の命を、予算執行のための単なる統計データへと変えていく。
その瞬間、この世界の歴史から一つの戦争が消滅した。
後に残るのは、適切な補償金が支払われたという、非の打ち所がない清算書類だけだ。
「事務処理、完了しました。これより、各国の報道機関に対し、労働安全基準の改訂に関するプレスリリースを発信します。あわせて、遺族への見舞金振込プロトコルを起動。名目は災害復興基金からの特別給付とします」
ミラの報告と共に、ダッシュボードの数字が再び更新された。
紛争発生件数:0。
世界は再び、完璧な平和を取り戻したのだ。
俺は卓上灯を消し、深く椅子に背を預けた。
暗闇の中、ペンの音だけが耳の奥で鳴り止まない。
勇者にはなれなかった。
英雄のように、一人ひとりの涙を拭うこともしない。
ただ、冷徹な数字の海の中で、歪み続ける世界を繋ぎ止めておく。
「まあ、世界最強の部署にはなったらしい」
俺の呟きは、深夜の静寂に吸い込まれて消えた。
窓の外には、何も知らない王都の明かりが、宝石を散りばめたように美しく輝いている。
その輝きを維持するために、俺たちは今夜も、数え切れないほどの誤差を闇に葬り続けるのだ。
平和という名の、巨大な嘘を管理しながら。




