幻夢の残滓、警笛を鳴らす黒猫
土蜘蛛を粉砕した一撃は、重苦しく淀んでいた空間の境界をも食い破った。 バリバリと視界がガラスのように割れ、生理的な嫌悪感を煽る紫の霧が、夜風に押し流されていく。
気がつけば、零は元いた寂れた商店街の路地裏に立っていた。 アスファルトの硬い感触、遠くで聞こえる深夜の走行音。ようやく禍々しい領域を抜けたのだという実感が、肌を刺す空気と共に伝わってくる。
だが、安堵は長くは続かなかった。 左腕一本で強引に支えている悠真の体が、あまりにも冷たく、そして『軽い』のだ。
「ちょっと、いつまで寝てんのよ」
零は、預けた悠真の重みに眉を寄せた。 さっき一瞬だけ反応した悠真の言葉。お風呂という単語に反応し、いつものように顔を赤らめて毒づいたはずの幼馴染。だが、その直後にガクンと膝をついた彼は、先ほどよりも一層、ただの『モノ』に近い質感を帯びていた。
「……ねえ、ルナ。こいつ、ちっとも起きないんだけど」
背後にいたルナ(偽物)が、慈しむような嘘の笑みを浮かべて悠真の頭を撫でる。
「……大丈夫よ、零。慣れない異界で疲れ果てただけ。少し休ませれば、すぐにいつもの彼に戻るわ」
「そう……? さっき喋ったし、大丈夫よね」
零は拭いきれない違和感を覚えながらも、商店街の入り口にある古い神社の境内に、わずかながらの清浄な気配を感じ取った。
「……いいわ。こんな重いもの引きずって歩けない。一旦、安全な場所に置くわよ」
零は神社の拝殿の横、雨露を凌げる軒下に、悠真の体を横たえた。 「ここで待ってなさい。……あんたの『中身』、私がぶっ叩いて連れ戻してやるから」
一人、闇に包まれた参道を通りへ向かって歩き出す。 カツ、カツ、とローファーの音が静まり返った街に響く。 その時だった。
「――そこから離れて! 早くっ!」
鋭い声が頭上から降ってきた。 街灯の天辺から、一匹の黒猫が音もなく飛び降りてくる。艶やかな毛並みと知性に満ちた金色の瞳。紛れもない、本物の猫だ。 黒猫は零の前に立ちふさがり、毛を逆立てて背後を威嚇した。
「あんた……何? 猫が喋ってんだけど」
「零、気にしないで。そいつはただの野良猫よ。出口はあっち。あの路地の先が現実への近道だわ」
背後の偽ルナが、急かすように暗い路地を指し示す。 零は不信感を抱きつつも、ルナの言葉に従い歩き出した。偽ルナは悠真の体を背後から支えるようにして、零を暗がりへと誘う。
だが、その路地に足を踏み入れようとした瞬間、空間が爆ぜた。
「――いい加減にしろ、その薄汚い手でそいつらに触れるな!」
轟音と共に、路地の奥から放たれた霊力の奔流が、零の隣にいた偽ルナを直撃した。 偽物のルナは衝撃で後方へと吹き飛ばされ、同時に彼女が支えていた悠真の体が、するりと地面へ落ちる。
「な、なになに!? 今度は何なのよ!」
爆煙の中から、さらに不機嫌そうな顔をした、本物のルナが姿を現した。
「零、あんたね……。ちょっと目を離した隙に、あんな見え透いた化け物に騙されるなんて、バット振り回してるだけの筋肉脳なの?」
「……え、ルナ? あんた、本物? でも、さっきまで一緒に……」
零は混乱し、地面に力なく転がった悠真と、本物のルナを交互に見た。
「ねえ、ルナ。悠真が変なのよ。さっき、私のお風呂の誘いにちゃんと反応して喋ったのに、今は全然起きないの。これ、どういうこと?」
本物のルナは、冷ややかな視線を地面の悠真に投げかけ、吐き捨てるように言った。
「……零。期待させて悪いけど、それはただの反射だよ。魂を抜き取られた体は、強烈な記憶や刺激にだけ、神経が勝手に反応することがある。例えるなら、首を落とされた鶏が走り回るようなものさ」
「反射……? じゃあ、あいつは?」
「今の彼は、中身のないただの抜け殻。さっきの言葉は、彼の魂が最後に残した残響に過ぎないよ。それよりもあいつをどうにかしないといけないね」




