亀裂の先の世界
あの空間の亀裂――。そこへ飛び込んだ瞬間の、五臓六腑がひっくり返るような浮遊感は、今も肌に残っている。
零はローファーで瓦礫を踏み締め、右肩の金属バットを一度だけ握り直した。
亀裂の向こう側に広がっていたのは、夕闇を煮詰めたような紫色の空と、重力を失ったかのように捻じ曲がった神楽坂の街並みだった。街は完全にめちゃくちゃだ。ビルの三階ほどもある大きさの『ぬいぐるみ』が、綿をはみ出させながら路地を塞いでいる。
その影から這い出してきたのは、ドロドロとした泥のような形状の異形――禍津だった。
「邪魔だよ、掃除の時間だね」
零が低く呟くと同時に、金属バットが唸りを上げた。一閃。霊力を帯びた打撃は、雑魚の頭部を木っ端微塵に砕き、黒い霧へと変えていく。だが、倒しても倒しても、連れ去られた悠真の気配は掴めなかった。
そんな絶望的な迷路の中で、彼女が出会ったのは一匹の『獣』だった。
禍津塚の不気味な光の中に佇むその姿は、猫というにはあまりに巨大で、しなやかな狼のようだった。銀色の毛並みが月光に似た輝きを放っている。零は一瞬、バットを構え直したが、その獣の瞳と視線が合った瞬間に、喉の奥から名前が漏れた。
「禍津……でかいわ……。でも、その目の色、もしかして……ルナ?」
零が問いかけると、巨大な銀色の狼は、かつての愛猫が甘える時のように喉を低く鳴らした。
『……零。君が、あの空間の亀裂に飛び込んでいくのが見えたよ。だから、迎えに来たんだ』
ルナは零の足元に歩み寄り、冷酷な事実を告げる。
『でも、零……聞いて。君が入ってきたあの場所からは、もう二度と元の世界へは戻れない。あの亀裂は一方通行……入った瞬間に、君のいた日常との繋がりは完全に断たれたんだよ』
退路は消えた。その重い言葉を、零は風になびく黒髪を払う動作一つで受け流した。 紫の闇の中で際立つ彼女の美貌には、恐怖も絶望も微塵も浮かんではいない。
「戻れない? ……ふん、まあ、何とかするわよ。自分のこの力(能力)が何なのか、私にもよくわかってないけれど」
零は不敵に口角を上げ、金属バットを右肩で軽く弾ませた。
「あいつを見つけるまで、私は絶対に帰らない。……悠真を連れ戻したその時に道が塞がってるんなら、その時また、私のやり方でブチ開けるだけ。あんたも知ってるでしょ? 私が、言ったことは必ず通すってこと」
その傲慢なまでの自信と、凛とした美貌。 ルナは、かつての飼い主が、正体不明の力を秘めたまま、運命にさえ従わない女であることを再確認した。
『……ふふ。やっぱり、そう言うと思ったよ。君なら、そう答えるってね』
ルナがゆっくりと歩き出し、先を促す。
『なら行こう、零。世界を壊してでも幼馴染を奪い返す、美しい羅刹様』
「当然。私のからかい相手を、勝手に連れ去った落とし前……きっちりつけさせてやるわよ」
その声は、かつての面影を残しながらも、この異界に相応しい響きを持っていた。ルナは零の制服の袖を軽く食んで、静かに先導し始める。この化け物じみた異界において、唯一信頼できる導き手との再会だった。
ルナに連れられて歩くうち、零はこの世界に存在する『奇妙な法則』に気がついた。
街の各所には、まるで見えないドームで守られているかのような、澄んだ空気の領域が点在していたのだ。それは、禍々しい異界の中にポツンと浮かぶ『結界』だった。
最初に立ち寄ったコンビニの結界内では、信じられない光景が広がっていた。街がこれほどめちゃくちゃになっているというのに、棚には『あの日』のままの新鮮なサンドイッチや、キリッと冷えたペットボトルのお茶が、何故か欠かさず補充されているのだ。
「誰がやってるのか知らないけど、趣味がいいじゃない。……お腹だけは困らないってわけね」
零はバットをテーブルに立て掛け、賞味期限の概念が消えたコンビニの棚から、お気に入りのグミを手に取った。
ルナが鼻先で指し示した二箇所目の結界は、調理器具やガスが生きているファミレスの跡地であり、三箇所目は、ふかふかの砂場がそのまま清潔なベッドとして機能している公園だった。そこには料理も、仮眠を取れる場所も揃っている。
三つの拠点を繋ぐように探索を進めながら、零の胸にはひとつの疑問が渦巻く。
「誰がこんなものを作ったのか……まあ、私の美貌の秘訣はあまり食べないことだから対して問題ないんだけどさ」
零は最後の一つになったグミを口に放り込み、行儀悪く足を組んでルナを睨んだ。
「……で、改めて聞くけど。あんた、なんでそんなにデカくなって、しかもペラペラ喋ってるわけ?」
『驚かせてしまったね。でも、これが私の本来の姿なんだ』
銀色の狼――ルナは静かに目を伏せ、厳かな声で語り始める。
『零、君の体の中には、かつてこの異界を恐怖で支配した最強の鬼、
「羅刹」の魂が宿っている。君が子供の頃から禍津を退け、
そのバット一本でねじ伏せてこられたのは、その魂が持つ特殊能力だよ。
君自身、まだ自分の力の正体も、使い方もわかっていないだろうけど』
「羅刹の魂……。私の美貌にぴったりの名前じゃない。で、あんたは?」
『私は、かつてその羅刹様に仕えていた月神君が人の子として転生したことを知り、いつか目覚めるその時まで守護するために、猫の姿を借りてずっとそばにいたんだ』
「月神ね。猫の時より、今のデカい方が頼りがいがあっていいじゃない」
零は不敵に口角を上げると、立て掛けていたバットをひょいと肩に担いだ。
「まあ、前世が鬼だろうが何だろうが、今の私は私。悠真をさらった連中をブチのめす動機が増えただけよ。あいつはどこでなにしてんのか……」
悠真が「器」として連れ去られたことと、この親切すぎるサバイバル・キャンプには、何らかの関係があるに違いない。ルナの背中を見つめながら、零は再び金属バットを担ぎ、青い光に包まれた結界の安らぎから、再び紫の闇へと踏み出した。




