外伝 堕ちざる翼、咲かせる蕾
これは、シーナ、シルバ、マナエルに負けた騎士天使が、指導者へロードと戦う三人を助けに行くまでの話…
天の門が静かに開いた。
白銀の鎧に傷を刻んだ女天使…プルミナは、そのまま重い足取りで天使の国リセルティアの大広間へと歩を進めた。曇天のような心を隠すかのように、天界の空は今日も青く澄み切っている。だがその青は、どこか虚ろだった。
「…騎士天使プルミナ、ただいま帰還しました」
大広間の奥、玉座のように高く設けられた円卓。そこには最上位に君臨する天使たちが数名、玉座に似た椅子に深く腰をかけていた。老成の気配を纏った者、華美な羽根を持つ者、冷淡な目で全てを見下ろす者…いずれも、かつてプルミナが敬い、忠誠を捧げた存在たちだった。
「ふむ…戻ったか、騎士よ」
最上位天使の一人、髭の長い天使が退屈そうに顎を撫でながら言った。
「結果はどうだった? 堕天したあの娘、マナエルの処置は?」
「…申し訳ありません。戦闘の末、私は敗北しました」
場が静まる。
プルミナは俯かず、しっかりと顔を上げ、続けた。
「マナエルは、悪魔と獣人と手を組み、共に私を攻撃しました。その力は、単なる反逆者の域を超えています。今後の対応を…」
「…どうでもよい」
その言葉を遮ったのは、頬杖をついた別の天使だった。頬杖をついた天使は溜息混じりに、羽根を一振りしてから続けた。
「地上の争いなど、放っておけ。いずれ勝手に崩れる」
「ええ、面倒なことに首を突っ込む必要はないわ」
艶めいた声の女天使が笑う。その羽根は煌びやかだが、目は退屈を映している。
「我らのような“高位の存在”が、いちいち地上に降りるなど…格が落ちると思わなくて?」
プルミナは、言葉を失った。
この者たちは…何も、見ていない。
何も、感じていない。
「…あなたたちは、本当に“高位”と呼べる存在なのですか」
小さく、しかしはっきりと呟いたプルミナの言葉に、一瞬だけ空気が止まった。
「言葉に気をつけよ、騎士よ」
「私は、“騎士”である前に、一人の天使です」
その言葉を最後に、プルミナは深く頭を下げ、振り返り、大広間を出ていった。誰もプルミナを止めない。むしろ、早く終わってよかったと言わんばかりの沈黙が残された。
…天界は腐っている。
プルミナの心に、静かに、しかし確かにその認識が刻まれた。
それでも、プルミナは剣を捨てない。
たとえその翼が、どれほど傷つこうとも…
「マナエル…あの時、あなたが見ていたものを、今なら少しだけ、わかる気がする」
天使の国の高き塔を背にして、プルミナは再び、地上へと向かう決意を固めた。
地上へ向かうと考えたプルミナは、バルコニーから下界を見つめていた。
雲の切れ間から、地上の一部が覗いている。焦げ茶の岩肌と、狭い山道。三人の姿は小さくても確かにそこにあった。シーナ、シルバ、マナエル…彼らは迷いなく、山の間を進んでいた。
その先にあるのは、鉄と煙の国…軍国セク・メイト。
(あの軍国に立ち向かうには、私一人では…力が足りない)
プルミナは拳を握る。あの国は、単なる暴力の塊ではない。秩序と支配、忠誠と恐怖、その全てを武力で塗り固めた鉄壁の国家。そこに挑む三人は、まだ若く、あまりにも無謀に見えた。
(…彼らが無謀なのではない。立ち向かう覚悟を持っている。ならば、私がすべきは…)
この国に残された、ほんの僅かな“良識”の火を集めること。
天使の国リセルティアには、表では口にしないまでも、現在のあり方に疑問を抱いている者がいる。だがそれを言えば、左遷されるか、監視対象となるだけ。だから、皆、沈黙の鎧をまとって日々を生きている。
「…なら、私が彼らに声をかけよう」
プルミナは、鎧の留め具を外しながら小さく息を吐いた。
「ただの“騎士”でなくてもいい。心ある一人として…この国を変える者を探そう」
その日から、プルミナの静かな行動が始まった。
昼は訓練場で、かつての部下たちと軽く剣を交える。戦いながら、冗談のように“下界の話”を混ぜる。
「地上に降りたとき、面白いものを見ました。天使でもない存在が、共に肩を並べていたのです」
「…それで、どうでした? その戦いの行く末は」
「意志を持った者は、何者であれ、強い。支配されるだけの命とは違う」
夜は、研究区画の天使たちに顔を出す。真面目すぎることで浮いていた若き文官、思索的な魔法研究者、冷静で口数の少ない女天使…
プルミナは誰も誘わず、ただ「語る」だけだった。
「この国に本当に必要なのは、“静寂”ですか?それとも、“成長”ですか?」
「高位であることに、行動を放棄する理由は含まれますか?」
やがて、プルミナの言葉に呼応するように、何人かが姿勢を変え始めた。最上位に知られぬよう、目立たぬよう、控えめな者ばかりだった。
その一人、書記天使は、書物を閉じて小声で告げた。
「私には、あの三人の“行動”が眩しかった。もし、あなたが再び地上に降りるなら…同行させてください」
プルミナは微笑んだ。
「ありがとう。だが、これは小さな運動。剣を振るわなくていい。意志を持って、共に歩んでくれるだけで十分です」
数日後、静かなる集いは二十七名に達した。
皆、最上位には反論しない。ただ、自分の“心”を持っている天使たち。
プルミナは密かに決意した。
この者たちとともに、再び地上に降りる。
あの三人に、遅れぬように。
…いや、あの三人と“並んで”歩けるように。
この翼はまだ、堕ちていない。
だが、上から見下ろすだけの翼でもない。
黎明の鐘が、天使の国リセルティアに静かに鳴り響く。
高き空に浮かぶ雲の宮殿。その片隅の、もう長く使われていない小さな祈祷室に、二十七の光が揃っていた。
誰もが静かに、そして確かな眼差しでプルミナを見つめている。
銀白の鎧に身を包んだプルミナは、祭壇の前に立ち、一歩、皆に向き直った。
「…これより、私たちは地上へ向かいます」
その声は静かだが、確かな決意を帯びていた。
「この行動は、上位の意思に反する。命じられた不干渉を破るもの。つまり、私たちは“反逆者”として、裁かれる可能性もある」
一瞬、室内の空気が張りつめた。しかし誰一人、後ずさりはしなかった。
プルミナはゆっくりと顔を上げた。
「けれど…私は、恐れてはいない。私たちが行く道は、破壊ではなく創造。秩序の崩壊ではなく、命と意志の再生」
プルミナの言葉が、室内の空気を静かに染めていく。
「この天界が“腐敗”を無視し続けるのなら、私たちが動くしかない」
「世界を改変するために。意志を取り戻すために」
プルミナは、胸に手を当てた。
「私の名は、プルミナ。この名には意味がある」
金の瞳がまっすぐ、仲間たちを捉える。
「“蕾を咲かせる者”…私の意志は、希望という蕾を現実に咲かせるためのもの」
「マナエルの想い、シーナとシルバの歩み、そしてあなたたちの勇気。全てを束ねて、私は立つ」
「これは、ただの反逆ではない。命が命として在る世界を創る運動だ」
「だから行こう。地上へ。理不尽と戦い、命と向き合うあの場所へ」
「私たちの翼は、ただ高く飛ぶためのものではない…」
「地上を照らす、“光”となるためのものだ!」
沈黙の中、誰かが一歩を踏み出した。
「…プルミナ様のその言葉こそ、私たちが必要としていた“命令”です」
「この翼、あなたの意志とともに飛ばせてください」
次々に天使たちが言葉を発し、瞳を輝かせ、翼を広げる。
そして…プルミナは大きく振り返った。
巨大な扉が、天界の外へと通じる風の道を開く。
朝焼けの光が差し込む中、無数の翼が一斉に広がった。
彼らは飛ぶ。
穢れた世界に、ひと筋の意志と希望を持って…
咲かせるために。
世界を変える“花”を。
空を裂くように広がる雲海。その切れ間から、地上が見えた。広場に立ち込める黒煙と、砕けた街路。戦火に包まれるその光景に、プルミナは一瞬まぶたを伏せた。
「…ひどい有様ね」
すぐそばを飛ぶ、若き天使がつぶやく。だが、その声音に怯えはなかった。ただ、変えたいという意志が宿っていた。
「怯まないで。ここは始まりにすぎません」
プルミナは静かに言い、仲間に目を向ける。
彼らは、堕落しきった天使の上層部に失望し、プルミナの呼びかけに応じた者たちだ。命令では動かない。信念で動く、少数の同志たち。だからこそ、ここまで来られた。
プルミナたちは、誰よりも忠義深く、純粋に「正しさ」を信じている。天に育ち、天に背いた者たち。だがそれは、天を超えて「命」を守ろうとする意思でもあった。
風が翼をはらみ、雲を突き抜ける。
まばゆい陽光が、プルミナたちの甲冑に反射する。地上へと、戦場へと、一直線に降りていくその陣形は、まるで一輪の花が咲く瞬間のように、美しく、そして静かだった。
「…これが、咲かせるということ」
プルミナは口の中でつぶやいた。
(マナエル、あなたの“蕾”が、誰かを変えたのよ。私を、そして、この空を…)
そして、地面が近づいてくる。
戦場の気配が肌を刺す。剣戟、銃声、爆風。無数の悲鳴と怒号が交錯する中で、プルミナは翼をたたみ、音もなく、焼け焦げた石畳の中央に降り立った。
マナエルの驚いた顔が、視界の端に映る。
かつて対峙した少女。あの時と、瞳の色が変わっていた。迷いはもうない。
「…あなたたちは…!」
マナエルが、声を上げた。
プルミナはそれに応えず、ただ前を見つめる。
そこには、地に足をつけて立つ、軍服の男。指導者へロード。
へロードの背後には、統率を失った軍隊と、迷い始めた兵士たちの影が見える。だがまだ終わっていない。声を、意志を届けなければ。
プルミナは一歩踏み出した。焼けついた大地が、鉄靴の下で鳴く。
そして、凛とした声で言い放った。
「…人の指導者、へロード」
周囲の音が、少しずつ遠ざかっていく。まるでその一言が、空気を塗り替えたかのように。
「あなたの統治は、もはや天の摂理から外れている」
静けさが、戦場を覆う。
それは剣ではない。銃弾でもない。
けれど確かに、誰よりも深く、戦場の中心を貫く力だった。
この時、プルミナは確信する。
この言葉こそが、自分の剣だと。
そしてこの戦いこそが、「咲かせる者」としての初陣なのだと。
空も地も、すべてがプルミナの決意を見つめていた。
プルミナたちもまた…棄てられた者だ。
世界の改変を目指す者だ。
完
これで、「棄てられた者たち」は完結となります!
ありがとうございましたー!