序章 始まりの傷、終わりの誓い
この世界には多数の種族がいる。人、獣人、天使に悪魔。
数日前、天使を除く全ての種族が「大種族戦争」と呼ばれる戦いを繰り広げた。
結果は人類の勝利。力と数に勝る人は他を屈服させ、今やさらなる発展のために侵略の手を広げている。
そして今…
走れ、逃げろ。ただひたすらに走れ。
悪魔の少年、シーナ(人でいう18歳程度)は、人の兵士たちから命からがら逃げていた。
ここは夜の森。木々の影が濃く揺れる中、シーナは息を切らしながら枝葉をかき分ける。
自分の呼吸がやけにうるさく聞こえる。心臓の音が耳の奥を叩く。月明かりに照らされた左腕が、”淡く、不気味に光っている”。
背後から複数の足音が近づく。
「対象を見失うな!」
兵士の怒号とともに銃声が響いた。弾丸が木の幹を抉り、破片が飛び散る。
まずい。このままでは追いつかれる…そう思ったそのとき、目の前の茂みに、獣が通ったらしい細い踏み跡を見つけた。これなら兵士は入ってこれない。
なぜなら、シーナの体は細く、背丈の割に筋力がほとんどないからだ。
迷うことなく、その狭い道へと身体を滑り込ませる。
銃声と足音が遠ざかる…兵士たちを撒いたらしい。
ようやく立ち止まったシーナは、呼吸を整えながら背を木に預けた。
冷えた左腕が、静かに己の存在を主張する。
あの夜…冷たい手術台の感覚がふいに蘇る…
焦げた金属と薬の不快な匂いが、鼻を突く。冷たい手術台に寝かされた感覚が、肌を刺す。
シーナが目を開けると、白く無機質な研究室の天井があった。棚に並ぶ薬品、沈黙する機器。
その中央に、嗜虐的な笑みを浮かべた女科学者が立っている。
「あらぁシーナちゃん、おはよう♪目覚めた感想はどうかしら?その腕、ちゃんと動く?」
シーナは左腕に視線を落とす。もはや“自分のもの”ではない異形の感覚。
「…気分は良くない」
吐き捨てるように言った。
シーナの答えを聞いた女科学者は、さらに口を開く。
「あらぁ、それは困ったわねぇ。でも当然よ。だって、”あんな実験”の後なんだもの…」
シーナは疑問に思った。この左腕のことだろうか…
そのシーナの考えを知ってか知らずか、女科学者が言葉を紡ぐ。
「シーナちゃん、貴方はとても特別なのよぉ?あの細くて儚い身体のおかげで、魔力を常人の何倍も注ぎ込めるんだもの…かわいくて、素敵よぉ♪」
魔力…?その言葉が頭の中で反響する。
ゆっくりと内側に意識を向けると、今までになかった感覚が確かに存在していた。
シーナはこの女科学者に、改造された。大量の魔力を注ぎ込まれ、異形の腕を付けられた。
それを理解した瞬間、シーナは急に吐き気を覚える。
「シーナちゃん?どうかしたの?」
あの女科学者の顔を見てはいけない。シーナは、顔を背ける。
視線をそらした先に、不自然な“赤”があった。壁にべっとりと張りついた血。崩れた肉塊。無造作に放り出された人体。
信じられないものを見るような目で、シーナは再び女科学者を見る。
「あれは実験に耐えられなかった子たちよ♪でも大丈夫。シーナちゃんは成功したんだから♪すぐに”完璧”にしてあげるからね…♪」
シーナの体に悪寒が走る。ここにいてはいけない…本能が叫んでいた。
このあとの記憶は、ぼんやりとしか残っていない。
異形の腕を振り抜き、窓を割った。
叫びと兵士の声の中、人ごみをかき分けて走った。
どこにあるかも分からない、街の出口を目指して。
あれから、もう一週間が経つのだろうか…
呼吸を整えたシーナは、兵士の気配がないか耳をすませる。
木々が揺れる音、フクロウの不気味な鳴き声、少し落ち着いた自分の呼吸…どうやら、兵士たちはシーナを見失い、どこか別の場所へと移動したようだ。
緊張の糸が少し緩む。そろそろ移動を再開しようとしたそのとき、ふと体に違和感。
なぜ、こんなにも動けるのか?
自分の体が細く、筋力もないことはよくわかっている。運動も得意ではなかったはず…それなのに、一週間近くも逃げ続け、今またこうして歩き出そうとしている。
シーナは理解した。
…魔力だ。あの女科学者に注ぎ込まれた“魔力”が、自分の身体を動かしているのだ。
筋肉ではなく、魔力が代わりに肉体を支えている。
逃げるためとはいえ、その魔力を使っていたという事実に、腹の奥が冷えるような嫌悪感が広がった。
けれど、立ち止まってはいられない。シーナは再び森の中を進む。
途中、近くの木に成っていた木の実をつまみ、空腹を誤魔化す。喉を潤し、落ち着いた呼吸を保つ。
もともと食も細かった。少量の食事でも、しばらくは生きられる…その点だけは、まだ救いだった。
そして数時間後。木々の切れ目から、薄く光が差し込むのが見えた。森の外だ。
ようやく抜け出せたと思うと、少しだけ胸が軽くなる。
この先の道は知っている。捕らわれる前に住んでいた、悪魔の小さな町へと続く道。
真っ直ぐなその道を歩きながら、戦争の前の生活が、頭に浮かぶ。
家があった…
明るい火がともる暖かな部屋。寒ければ近づいて、指先まで温もりを取り戻せた。
ベッドがあった。安心して眠れる場所。目を閉じれば夢さえ見られた。
食事の匂いが漂う台所。シーナも料理が好きだった。好きな味に整えて「おいしいね」と笑い合う。それだけで、気持ちが少し前向きになった。
家族がいた。仲間がいた。笑い声があり、冗談を言い合い、誰かが怒ったり泣いたりしても、最後には「また明日」が言えた。
そんな日々が、確かにあったのだ。
そう思っていると、もう町の前だった。
久しぶりの風景。懐かしさに胸がいっぱいになる。シーナは、つい笑みを浮かべながら町に足を踏み入れた。
見覚えのある子どもたちがいた。よく遊んだ子たちだ。「帰ったよ」そう言おうとして、シーナは歩み寄る。
だが、子どもたちはシーナの姿を見るなり、悲鳴を上げて逃げていった。
一瞬の静寂が訪れた。ざわめきもなく、ただ遠くの風の音だけが耳に残った。
少し驚いた。でも、きっと久しぶりすぎて緊張してるんだ…そう思おうとした。
でも、町の中を歩けば歩くほど、空気はおかしかった。誰も声をかけない。視線だけが突き刺さる。
あるおじさんが、こちらに向けて、箒を槍のように構えていた。
それでも、シーナは家へと向かう。親なら、わかってくれるかもしれない。何があったのか、教えてくれるかもしれない。
シーナは、いつも帰ったときのように、扉をそっと開けた。
「…ただいま」
リビングにいた両親が振り向く。一瞬、笑みが浮かぶ。でも、次の瞬間、それは消えた。不安そうな、怯えたような、町の人と同じ表情が、そこにあった。
「シーナ、無事だったのか…でも…まさか…」
あぁ…この体の異常な魔力、そして異形となった左腕…皆はこれを見ていたんだ。これを恐れていたんだ…
シーナは理解した。
この町の人たちは、自分を受け入れられない。恐れられ、拒絶され、攻撃されるかもしれない。
シーナは呆然と、異形となった左腕を見つめる。
すると、母がシーナに声をかける。
「ごめんねシーナ…お母さん、怖いの。シーナを見てると、どうしても…」
母の声が震えていた。
「あ、悪魔長に…認めてもらえば…」
か細く、それでも必死な声が自分の口から出る。
でも、その言葉に、自信はなかった。
父が低くつぶやいた。
「…皆、シーナに怯えている。悪魔長がそれを許すとは…」
その言葉で、シーナは分かった。もう、抗えない。
背を向け、ドアに手をかける。
「お世話に…なりました…」
そのとき…
「待って」
母の声が背中に届く。
「これ…食べて」
小さなパン。
戦争前、よく食べていた、母の手作り。食の細かったシーナのために、小さく、柔らかく焼かれていた。
「もう会えないけど…頑張って生きて…シーナ…!」
頭をなでられた瞬間、シーナの目から、涙が溢れた。
父は、何も言わずに背中を向けたまま…だけど、拳を握って震えていた。
最後にもう一度、二人を見て、シーナは言った。
「ありがとう…」
ドアを開けて、出ていく。家の中から、母のすすり泣く声が追いかけてきた。
涙で濡れたパンは、しょっぱくて、温かくて、心に染みた。
シーナは走る。もう戻ってはいけない。この町には…
そして、町を出た。
町を出たシーナは、しばらくの間、ただ歩いた。
どこへ向かうでもなく、頭の中は真っ白で、足だけが勝手に動いていた。
森の手前で立ち止まり、背後を振り返る。けれど町の影は、もう木々に隠れて見えない。
「…おれは、帰れない」
それでも、思い出は胸に残る。
あたたかな家、笑い声、優しい母の手。あれら全てを奪ったのは誰か。
この体を、腕を、こんなふうに変えたのは…
「…人の国だ」
吐き出すような声。だがその声には、確かな怒りが宿っていた。
あの国の兵士にさらわれ、あの女科学者に改造された。全ては人の国が仕組んだこと。
自分の命も、心も、未来も壊された。
「おれは…取り戻す。あの平和な生活を…」
唇をかみしめ、左腕を見下ろす。異形の腕。忌まわしくも、今や自分の一部。
「これがあるなら…利用してやろう」
復讐のために。生き残るために。
シーナは森の奥へと足を踏み入れた。
目指すは…人の国だ。
いつか、もう一度笑って生きられる日が来ると信じて…
一章に続く
キャラクター紹介
名前:シーナ・ヴァンデリオ
種族:悪魔族
性別:男
性格:人間には冷酷な一面を見せるが、仲間には優しさを見せる。
外見:片腕が異形。黒く金属のように硬い。爪が獣のように鋭く、並の剣なら受けるだけで折れる。杖を使って魔法を使う戦闘スタイル。
目標:自分の腕をこんな姿にした人への復讐、そして戦争前の生活に戻りたいという懐旧。