雛人形学園のおひなさま
その女子中学生は、この春に中学二年生になったばかり。
ついこの間まで都会の中学校に通っていた。
しかし、生まれつき体が弱く、
大きな病気を抱えていることもあって、
療養を兼ねて地方の学校に転校することになった。
転入する学校は、地方の山間にあって、
山の木々に囲まれて空気は澄み渡り、
すぐ傍を清流が流れる自然豊かな立地。
雛人形学園。
それが、その女子中学生が通うことになる学校の名前だった。
新学期の学校の教室で、
集まった生徒たちは順番に自己紹介をしていた。
「病気の療養のために、こちらに引っ越してきました。
この学校には二年生からの転入です。
よろしくお願いします。」
その女子中学生が自己紹介して頭を下げると、
クラスメイトの生徒たちから笑顔と拍手で迎え入れられた。
早速、矢継ぎ早の質問に晒される。
「この学校に来る前は、どこにいたの?」
「えっと、都会の学校なんだけど、
私、病気であまり通えてなくって・・・」
「部活は?」
「それも病気でできなくて。
この学校でも、しばらくは部活も無理かな。」
「好きな人は?恋人は?」
「いません。」
外部の人間が物珍しいようで、
クラスメイトの生徒たちの質問は尽きない。
この雛人形学園に通う生徒たちのほとんどは地元の人で、
お互いに顔見知りばかりだと聞かされていたが、
どうやら自分だけが仲間はずれにされるようなことはなさそうだ。
その女子中学生が内心ほっとしていると、さらに質問が浴びせられる。
発言を求めて挙手していたのは、髪をおさげにした女子生徒だった。
「はい。
誕生日は、何月何日ですか?」
ざわざわと楽しげだった教室が、しん・・と静まる。
教室の中の空気が急に変わったような感覚。
そんな変化に気圧されつつも、その女子中学生は笑顔で応えた。
「私の誕生日は、3月3日です。」
誕生日は3月3日。
それを聞いたクラスメイトの生徒たちは、わっと歓声をあげた。
嬉しそうな喧騒を、担任の先生がたしなめる。
「はい、みなさん静かに。
聞いての通り、3月3日生まれの人が転入してきてくれました。
今年のおひなさまは、彼女にしようと思います。
みんな、それで良いですか?」
「意義なーし!」
担任の先生の言葉に、クラスメイトの生徒たちはますます沸き上がる。
事情が分からず置いてけぼりのその女子中学生は、
鳴り止まぬ拍手の中で一人、首を傾げていた。
そんなことがあって、生徒たちの自己紹介は一通り終わった。
その後、新学期の諸々の説明などがあり、
明日からの注意事項などを伝えて、担任の先生は教室から出ていった。
今日の学校はここまで。
まだ昼前の教室は解放的な空気に包まれた。
その女子中学生も軽く伸びをして、肩の力を抜く。
すると、クラスメイトの生徒たちから、
好奇の視線が自分に注がれていることに気が付いた。
今にも誰かがその女子中学生のところにやって来て、
また質問攻めが始まりそう。
すると、そんな視線の垣根を切り分けるようにして、
先程のおさげの女子生徒が、その女子中学生のところにやってきた。
笑顔で話し始める。
「あなた、転入してきたばかりでこの学校のことは知らないよね。
わたしが案内してあげようか?」
「本当?ありがとう。
そうしてもらえると助かるな。」
そうしてその女子中学生は、おさげの女子生徒の案内で、
学校の中を散策することになった。
慣れた様子で学校の中を歩いていく、おさげの女子生徒。
その後ろを少し遅れて、その女子中学生がついていく。
学校の大きな出入り口、土の匂いがする校庭、曰く付きのトイレ。
そんな学校の名所を一つ一つ巡っていく。
雛人形学園の規模は、都会の学校に比べれば小さなもの。
しかし、その生徒たちはみな朗らかで、病気や怪我とは無縁に思える。
大きな病気を抱えるその女子中学生にとって羨ましい限り。
一方、学校の校舎はというと、
建物が古く、あちこち傷んでいるのが目に留まった。
きちんと手入れはされているようだが、それにしても傷みが多い。
重厚な木造建築の校舎は、あちこちに傷や補修の跡があって、
まるで何度も災害に晒されたかのようだ。
そして、そんな学校の中でひときわ目を惹く存在は、
校舎の出入り口に飾られている、立派なひな飾りだった。
ひな飾りと言えば、
階段状になった台に赤い布が敷かれ、金の屏風の背景、
そこに男雛と女雛と従者のひな人形などが飾られているもの。
雛人形学園に飾られているひな飾りも、基本は同じ。
しかし、その規模は立派なもので、
都会の家庭でよくある簡略化された三段飾りではなく、
たくさんの段がある本格的なひな飾りだった。
そんなちょっと場違いなほどに豪華なひな飾りが、
学校の出入り口に唐突に鎮座している。
この学校の名前は、雛人形学園。
何かしらの由来を感じずにはいられない。
その女子中学生もすぐに興味を惹かれ、おさげの女子生徒に尋ねた。
「この学校って、立派なひな飾りがあるのね。
でも、もう4月よね?
ひな飾りを飾るには遅くないかな。」
すると、おさげの女子生徒は手を後ろに組んで振り返って、
にっこりと笑顔で応えた。
「それはね、この学校のひなまつりは、一年中するからなの。」
「一年中?
ひなまつりを一年中ずっとするの?」
「そう。
あなた、ひなまつりってどういうものか知ってる?」
「ううん、詳しくは。」
「昔は現代よりも、子供が成長して大人になる前に亡くなることが多かったの。
病気だったり怪我だったり、子供が亡くなることが珍しくなかった。
でも、それでは困るから、
子供の厄を肩代わりする依り代、つまり身代わりを用意したのね。
それが、ひな人形。
そして、その依り代を川に流して捨てて厄を祓うのが、ひな流し。
本来のひなまつりは、ひな流しで厄を祓うためのものだったの。
現代では、ひな人形を飾るのがメインのお祭りになっちゃったけどね。」
「へえ、そうだったの。」
「そう。
わたしも、おばあちゃんから聞いた話だけどね。
それで、この雛人形学園では、古い伝統が今でも残ってる。
昔は災害が多い地域だったらしくって、
厄を肩代わりしてくれる存在は、いくらあっても足りないくらい。
だからこの学校では、ひな飾りを一年中飾って、
少しでも多くの厄を肩代わりしてもらおうってことになったの。
あそこに飾ってあるひな人形を見て。
ずいぶんと古くなってボロボロでしょ?
あのひな人形は、もうずっと昔から飾られてるんだって。
顔なんて煤汚れで真っ黒。
でも、誰でも触っていいものじゃないの。
触っていいのは、この学校の校長先生と教頭先生、
それから、お世話係に選ばれた人だけ。
ひな人形のお世話係は、おひなさまと呼ばれていて、
3月3日に生まれた人は、生まれながらにその資格があるんだって。」
「あっ、それって私の誕生日・・」
「そう。
ここ何年も、この学校には3月3日生まれの人はいなかった。
でも、あなたが来てくれた。
もうずっとおひなさまがいなくて大変だったけれど、
これでやっと、来年のひなまつりにはひな流しができる。
大変な役割かもしれないけど、引き受けてもらえないかな。
わたしにできることがあるなら手伝うから。」
いつの間にか、その女子中学生の手をおさげの女子生徒が握っていた。
おひなさまに任ずる。
そう言われた時は何が何やらわからなかったが、
事情を聞いてしまうと、無下にするわけにもいかなくなる。
「・・・わかった。
私は病院に通うことが多いから、その合間でよかったら。」
そう返事をせざるを得なかった。
その時、その女子中学生はおひなさまのことを、
ひな人形のお世話係とお祭りの巫女程度のものだろうと思っていた。
ひな人形とおひなさまと、
厄を肩代わりする依り代が二つ存在することの意味など、
気にも留めなかったのだった。
その女子中学生が雛人形学園に通うようになって、しばらく。
当初はよくなかった体調は、みるみるよくなっていった。
都会にいた頃にはどうしても治らなかった病気が、
まるで毒気を抜かれたかのようによくなっていく。
健康に恵まれ、友人にも恵まれ、満たされた学園生活。
支障があるとすれば、おひなさまの仕事くらい。
何の都合なのか、学校に飾られているひな人形は、
たった一日でも目を離しただけで、顔は煤塗れ。
手足は折れ曲がったり、口から泡を吹いている時まであった。
ただ飾ってあるだけのひな人形が、どうしてこんなに汚れて傷むのだろう。
そんなことを考える余裕もなく、
おひなさまに選ばれたその女子中学生は毎日、
ひな人形の汚れを落として曲がった手足を直していった。
おひなさまの役目を引き受ける。
そう返事をした時に、校長先生から言われたことがある。
伝統あるひな人形なので、決して素手では触れないように。
校長先生から繰り返し、そう言いつかっていた。
だから、その女子中学生がひな人形に触る時は、
手に手袋をしているのはもちろん、
不意に素肌に触れてしまわないように、
肌を晒さないよう布袋のような物をすっぽり被って作業をしていた。
布袋の中は暑く息苦しく、思ったよりも重労働だった。
そんな作業をしながら、ふと思う。
「まさか、
このひな人形が厄を肩代わりしてくれているから、
だから私の病気が治った、というわけじゃないよね。
学校のみんなの厄を肩代わりするせいで、
こんなに汚れたり壊れたりしてるのかも。
・・・ううん、違うよね。
そんな魔法みたいなことがあるわけない。
きっと、風通しとかの都合で汚れるんでしょ。
でも、いくら出入り口に置いてあるからって、
こんなに真っ黒に汚れたりするものかな。」
それに、気になることは他にもある。
あの日、おさげの女子生徒は説明してくれた。
この学校には、ひな人形とおひなさまがあると。
しかし、それはおかしい。
通常、おひなさまとは、ひな人形のことを指すはず。
二つが別々に存在するはずがないのだ。
「やっぱり、ちょっと変だよね。
この人形がひな人形で、私はおひなさま。
それじゃあ、厄を肩代わりする依り代が二つになってしまう。
でも、私はもちろん何の厄も肩代わりしていない。
そんな超能力みたいなこと、私はできたことがない。
それどころか、体調は良くなってるくらい。
これじゃあ、おひなさまって名前に名前負けしちゃう。
ひな人形の掃除をするだけじゃ、おひなさまの名前に釣り合わないよね。」
ただのお世話係にしては、この服装にしろ何にしろ特別扱いがすぎる。
自分は何のためにおひなさまとして選ばれたのか。
ひな人形とおひなさまが別々にあるのは何のためなのか。
おひなさまは本当に誰の厄も肩代わりしていないのか。
他にも疑問は尽きない。
しかし、学校の誰にそれを聞いても、
答えをはぐらかされて、真実を教えてはもらえなかった。
やがてやってくる、ひなまつりの日。
その日その女子中学生は、身を持って真実を知ることとなる。
その女子中学生が雛人形学園に転入して、
時は目まぐるしくすぎていって、早一年。
今日は4月3日。
雛人形学園の、次のひなまつりの日がやって来た。
この日、その女子中学生は、学校の先生に言われるがまま、
ひな人形の女雛のような衣装に身を包み、
赤い布が敷かれた学校の階段に座らされていた。
準備は全て学校側がします。
そう言われて、訳も分からず言われるがままに従っていた。
普段は生徒たちが元気に上り下りする階段が、
今日は赤い敷物でまるでひな飾りの台のように飾り立てられて、
そこに、ひな人形のような服装をした生徒や先生たちが数人座っている。
その最上段に座らされているのが、その女子中学生。
「これじゃまるで、私がひな人形になったみたいね。」
朝から昼を過ぎて、もうすぐ夕方になろうかという時間。
その間、その女子中学生はずっと座らされているだけ。
飽き飽きして、もう何度目かのぼやきだった。
すると、やおら他の先生や生徒たちが大勢やってきて、
その女子中学生が座る階段の前に整列した。
その人垣の背後には、空っぽの神輿のようなものが用意されている。
先頭に立つ校長先生が、手を打ち鳴らして号令を出した。
「これより、ひな流しを始めます。
ここ数年、おひなさまが現れなかったことにより、
ひな人形には祓いそこねた厄が溜まっていることでしょう。
今日はそれを、おひなさまに洗い流していただきます。
そうすることで、厄が溢れ出すことが防げるのです。」
集まっていた先生や生徒たちが一斉に、
その女子中学生が座る階段に向かって頭を下げた。
どうして良いかわからず、その女子中学生もおじぎをして返す。
頭を下げながら、頭の中に疑問が駆け巡る。
「何?どういうことなの?
厄を洗い流すって、あのひな人形を川で掃除したらいいのかしら。
掃除なら毎日してるのに。」
頭にいっぱいの疑問符を浮かべたその女子中学生の鼻先に、
校長先生がうやうやしく皺だらけの手を差し出す。
掲げるように差し出されていたのは、あのひな人形だった。
今日の掃除は事前にしておいたはずなのに、ひな人形の顔は真っ黒に煤けていた。
目の前のひな人形を寄り目になって見つめるその女子中学生に、
校長先生がうやうやしく話しかけた。
「さあ、おひなさま。
このひな人形の厄を祓ってくださいませ。」
何のことかわからないまま、
その女子中学生は仕方がなく、ひな人形を受け取った。
今は女雛のような服装をしているので、手袋はつけていない。
素肌の手が、ひな人形に直接触れる。
その瞬間。
その女子中学生の体が、ずしんと重たくなった。
手足が鉛のように重くなって、座っているのも苦痛に感じるほど。
少しでも気を抜くと、体が倒れてしまいそうになる。
この感覚に、その女子中学生は覚えがある。
これは、久しく忘れていた、病気で体調を崩していた頃の感覚だった。
いや、今感じている体の不調は、あるいはそれ以上のもの。
まるで数カ月分の不調をまとめて背負わされたかのような、そんな感覚。
その女子中学生は、とても座っていることが出来ず、階段に倒れ込んでしまった。
階段に敷かれていた赤い布が、目の前に広がって見える。
その目の前に、手からこぼれ落ちたひな人形が横たわっていた。
赤い敷物の上でこちらを向いていたひな人形の顔は、
煤汚れがすっかり取れてきれいになっていた。
それを見下ろすようにして、校長先生が手を打ち鳴らして言う。
「さあ、みんな。
ひな人形の厄祓いは済みました。
おひなさまを神輿にお乗せして、ひな流しに向かいましょう。」
そうなってからやっと、
その女子中学生は真実に気が付いた。
あの日、おさげの女子生徒は、
この学校のひな人形は古くからあって伝統あるものだと言った。
そして、ひな人形を川に流して捨てて厄を祓うひな流し、
それが行われなかった間隔は、せいぜいここ数年だという。
つまり、
ひな人形を流して捨ててしまうひな流しは数年前に行われたのに、
あのひな人形はずっと昔からあるものだということになる。
掃除や修繕で実際に手にしてみて、それは確かだと思う。
あのひな人形は、長い年月をかけて人の手で磨かれたものだろう。
とても作り直されて数年のものだとは思えない。
では、過去のひな流しで川に流して捨てられたものは何なのか。
何か代わりのものを流して捨てたのではないだろうか。
もう一つ。
ひな人形もおひなさまも、本来は同じ物で、
厄を肩代わりしてくれるもののはず。
しかし、この学校では、ひな人形とおひなさまとして別々に存在する。
それはどうしてだろう。
厄を肩代わりしてくれるものが二つ。
それはつまり、
あのひな人形が肩代わりした厄を、
さらに肩代わりするものがあるということではないだろうか。
それからもう一つ。
ひな人形が肩代わりした厄はどこにいったのか。
この学校に来てから自分の体調が急に良くなったことからも、
ひな人形が厄を肩代わりしてくれたのは、どうやら事実だと思える。
どんな方法なのかはわからないが、そう信じるに足りる。
であれば、厄は確かにあのひな人形が肩代わりしたはず。
肩代わりした厄を溜め込むのには限度があるから、
川に流して定期的に厄を祓うひな流しを行うのだろう。
しかし、あのひな人形はひな流しで流して捨てられてはいないのだから、
どこかに厄を移したと考えられる。
どうやって厄を移したのだろう。
それについて、心当たりがある。
さっき、ひな人形を手にした途端、急に体が重たくなった。
もしかして、あれこそが厄を肩代わりした瞬間なのではないか。
だとすれば、普段、ひな人形の世話をする時に、
決して素肌で触れてはならないと言われていた理由も分かる。
これらの三つの疑問を同時に晴らす答え。
それは、この学校のひな流しとは、
ひな人形が肩代わりした厄を、さらにおひなさまに肩代わりさせて、
その厄ごとおひなさまを川に流して祓う儀式なのだということ。
学校中の厄を肩代わりしてくれる大事なひな人形を守るために、
生徒からおひなさまを選び、生贄に捧げようとしているのだ。
真実に辿り着いたその女子中学生は、
階段に横たわったままで顔を青くしている。
もしこの通りのことだとすれば、
このまま黙っていたら自分は川に流して捨てられる。
転校してきたばかりの学校で生贄になりたくはない。
何とかして逃れなければ。
何か、何かできることはないか。
体と同じく重い頭で考える。考える。
もうすぐそこまで、
自分を捕まえようと伸ばされた何者かの腕が迫っている。
体が重くなった時のことを思い出す。
あの時、差し出されたひな人形を手に取った途端、体が重くなった。
普段からあのひな人形には決して素手で触るなと言われていた。
きっと素手で触ると厄が移ってしまうから、
ひな流しの直前までは素手で触らせなかったのだろう。
体調に異変をきたせば、最悪逃げられてしまうかもしれないから。
だから、ひな人形には決して素手で触るなと言っていたのだ。
それなのに、ひな人形を差し出した校長先生は、
素手でそのひな人形を持っていた。
どうやらあのひな人形は、
触れた者なら誰でも厄を移してしまうというわけではないようだ。
何か特別な条件があるに違いない。
・・・そういえば。
自分は3月3日生まれだからという理由で、おひなさまの役目を仰せつかった。
それまでの数年間、おひなさまが現れず、
ひな人形の厄を祓えずに困っていたようだ。
そんなに困っていたのなら、
誕生日にこだわらずにおひなさまを決めてしまえばいい。
そうまでして3月3日生まれにこだわったのには、
特別な何かがあるのかもしれない。
・・・もしかしたら。
ひな人形もおひなさまも、本来は同じもの。
だとすれば、
おひなさまが持つ特別な何かとは、
ひな人形と同じく厄を移す能力なのではないか?
普段、おひなさまである自分に素手でひな人形に触ることを禁じていたのは、
ひな人形とおひなさまで厄を移し合った結果、
どちらにどれだけの厄が溜まっているのかわからなくなるからかもしれない。
それでは、いざひな流しという時に困ることだろう。
これは賭けになる。
厄を移す能力が一方通行で不可逆だったり、
あるいは触ったもの同士で厄を均等に配分するだけかもしれない。
もしそうだったら、
ひな人形から移された厄は、もうどうすることもできない。
目の前に転がるひな人形を見てみる。
見た所、煤汚れがすっかり取れているようだ。
確か素手で触る前は、煤で汚れていたはず。
煤汚れが取れているということは、
ひな人形の厄はすっかり取れているのではないか。
見えない場所に煤汚れが残っていたり、
あるいはそもそも煤汚れが厄とは無関係だったら、何の参考にもならない。
しかし、もう他に何も思いつかない。
おひなさまにはひな人形と同じく、素手で触った同族に厄を移す能力がある。
その可能性に懸けるしかない。
その女子中学生は決意して覚悟を決めた。
動かない体に鞭を打って、周囲の人たちの様子をそっと伺う。
誰もがおひなさまである自分に注目していて、
その傍らに転がっているひな人形を触ろうとはしていない。
目の前に転がるひな人形に、そっと指先を伸ばす。
重い指先が微かに、だが確実にひな人形に触れる。
すると、その途端。
まるで憑き物が取れたかのように、
その女子中学生の体が軽くなったのだった。
ひな人形と同じく、おひなさまである自分にも、
同族に厄を移す能力があるはず。
その女子中学生の読みは、どうやら当たったようだ。
重くなった指先でひな人形に触れると、一気に体が軽くなった。
無事に厄をひな人形に移し返すことができたらしい。
周囲の先生や生徒たちにも、気がつかれずに済んだようだ。
しかし、これではまだ終わらない。
厄があろうがなかろうが、
ひな流しでおひなさまが川に流して捨てられるのに変わりはない。
周囲に先生や生徒たちがいる中で、
お祭りの主役のおひなさまが、誰にも見つからずに逃げ出すのは不可能。
こうなってはもう、川の流れに運命を任せる他ない。
その女子中学生は、伸ばされた腕に身を任せ、神輿の上に乗せられた。
神輿は先生と生徒たちに担ぎ上げられ、掛け声もなく運ばれていく。
神輿に乗せられて学校の出入り口から外へ出ると、
学校の外は夕闇から夜に差し掛かって、辺りの山林は闇に覆われ始めていた。
夜の山林はまだ肌寒いが、
神輿の上に横たわるその女子中学生は、我慢して動けないふりをしている。
やがて、神輿が学校の近くの川に到着すると、
川の流れる音に混じって、先導する校長先生の声が聞こえてきた。
「さあ、川に着いた。
みんな、おひなさまに手を合わせて、感謝の祈りを捧げましょう。
この学校の厄を肩代わりしてくれたおひなさまに感謝を。
そして、厄と一緒に川に流して捨てるのです。」
何やら祈祷のような声とともに、神輿が川に向かって傾けられた。
「いよいよね。
服を着たままで泳ぐなんてできるかな。
いずれにせよ、やるしかないのだけど。
火に焚べられたり、磔にされないだけましか。
あのひな人形が厄を肩代わりしてくれたせいか、体の調子はすごくいいし。
これなら、泳ぐことができるかも。」
その女子中学生の独り言に気が付く者は誰もいない。
そうしてその女子中学生は、体が動かないふりをしたまま、
神輿から川の中に捨てられた。
春の冷たい川の水が制服に染みて、思わず悲鳴を上げそうになって我慢する。
あっという間に体から自由と体温が奪われていく。
すぐにでも川から上がりたいが、それはまだ。
先生や生徒たちから見つからないように、
ある程度は川下まで流されるまで動けない。
かといって、あまり川下まで行き過ぎると、
今度は回収なり隠滅なりするための人がいるかもしれない。
その前までには川から上がらねばならない。
幸運なことに、学校の近くを流れるその川はあまり深くなく、
流れもそこまで急ではない。
自分の足で立ち上がろうと思えば、できなくもない程度。
もう少し、もう少し・・・もういいだろう。
滑る川底に手足で抵抗して、何とか体を起こす。
暗くなった周囲を見渡す。
自分を運んできた神輿の一団は夜の闇に紛れて、
もうどこにいるのかもわからなかった。
「これくらい離れたら、川から上がっても見つからないよね。
早く家に帰って着替えないと、風邪を引いてしまいそう。
それに、もうこの学校にはいられない。
早くここから逃げなきゃ。」
ずぶ濡れの姿で、ほうほうの体で逃げるその女子中学生。
その時、頭に過ぎったのは、
こんな目に遭う原因となった、あのひな人形への感謝。
あのひな人形に厄を肩代わりしてもらって、
最もご利益にあずかったのは、
健康な体を手に入れたその女子中学生なのだった。
そんなことがあって。
ずぶ濡れで自宅に帰ったその女子中学生は、
両親を必死に説得して、すぐに雛人形学園から離れた。
遠く都会まで逃げ延びて、一安心。
やっと落ち着くことが出来たのだった。
その女子中学生は知らない。知るはずもない。
雛人形学園から必死に逃げる必要は、もうなかった。
なぜなら、その夜、
雛人形学園の周辺で大規模な土砂災害が発生して、
学校も先生も生徒も職員も、みんな生き埋めになってしまったのだから。
すべてが土砂に埋まった後で、ひな人形だけが無事に見つかった。
土砂災害があったにも関わらず、
そのひな人形は汚れ一つなかったという。
終わり。
3月なので、ひなまつりをテーマにしました。
ひなまつりとは元々、子供の厄を祓うためのもので、
厄を肩代わりしてくれたひな人形は川に流してしまうそうです。
それが何だか生贄のように思えて気の毒だったので、
人間がその役割を負わされる話を考えてみました。
お読み頂きありがとうございました。