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死の淵から助け出されたのだと、イシュリアは理解する。
(しかし。それでは、姉さまは?)
イシュリアになったアリュシアは、その熱病の身体の中にいるはずだ。苦しさは誰より理解している。ついさっきまで、彼はその熱病に侵された身体の中にいたのだ。けれどもアリュシアは、イシュリアへ平然と言い放つ。
「大丈夫。お姉ちゃんは、強いのよ」
「そうですね」
素っ頓狂な事を言っているアリュシアに、しかしなんの疑念を抱くこともなくエガリリが頷いた。
「流石はアリュシア様です」
ウィルは嬉々としてアリュシアを褒めたたえている。イシュリアにはそれが理解できない。彼は半ば茫然としている。唖然としたまま流れる雲を、焼け落ちた屋根の合間から眺めていた。
「アリュシア!」
主の名を呼ぶ少女が、笑顔で室内へと入って来た。
「ニャニャッ!ニャンじゃこりゃー!」
少女は廃墟と化した室内を見渡し、驚きの声を上げている。ウィルが戒めと共に、少女の名を告げた。
「オーカ!」
「ニャッ」
オーカと呼ばれた少女が、ウィルに怯える。オーカはウィルに頭が上がらないのだ。ウィルは彼女の目付け役でもある。作法から礼儀まで。こまめに指導するウィルが、オーカは本当に苦手であった。鼻息を荒くしたウィルが、怯えるオーカへ説明を求めた。
「まったく。アリュシア様が大変な時に、貴女は一体どこで油を売っていたのですか?」
「アリュシア?」
そう呟いたオーカが、ゆっくりとイシュリアを見る。その鋭い視線に気付いたイシュリアが、ぎこちなく笑みを浮かべながら答えた。
「やあ、オーカ。おはよう」
「ニャッ!」
突如オーカは殺気立ち、腰に下げていた小刀を抜く。
「オーカ⁉」
オーカの突然の行動に、ウィルは慌てて彼女の名を呼んだ。エガリリが事態の収束を試みようと、静かに一歩踏み出す。そんな執事の背に、アリュシアが楽しそうに声をかけた。
「ちょうどいいじゃない」
微笑むアリュシアにエガリリは困惑する。なにがちょうど良いのか。そんな執事の顔を笑い、アリュシアが不敵に告げた。
「確かめましょう」
アリュシアの一言で、エガリリは全てを悟る。なるほどそういうことか。アリュシアになった、イシュリアの能力を確かめておきたいのだ。果たしてイシュリアは、アシュリアほどその身体を使えるのか。それをオーカで試そうとしている。主の思考を理解したエガリリは、無言のままに主に頭を下げた。
(まったく、恐ろしい人だ)
エガリリはそう思い、じっとアリュシアを見つめた。自分に絶対の自信があるのだろう。オーカは忍である。彼女と対峙することは、イシュリアにとって相当なリスクがあるはずだ。しかし弟の身を危険に晒すことに、この魔導卿はなんの躊躇いもない。なるほど、それが私の仕事か。エガリリは頷き、いざとなったら止めに入れるよう集中した。オーカは背を低くし、戦闘態勢のままイシュリアに言い放つ。
「お前、アリュシアじゃない!」
「あっ!」
イシュリアは自身の姿がアリュシアであることを失念していた。怒るオーカに彼は慌てて説明をしようするが、上手くまとめられない。イシュリアも混乱のままなのだ。
「えっと」
イシュリアが言葉を発した瞬間、オーカは三本のクナイをイシュリアに投げつけた。雷鳴を上げ、稲光と化したクナイが飛ぶ。忍であるオーカの動きは、それよりも速い。クナイを投げつけた瞬間、オーカはその身を奔らせた。タッと土埃を上げ、颯と化したオーカが一瞬でイシュリアの背後に回る。三本のクナイはまだイシュリアのはるか前方だ。背後から首筋へ、オーカは小刀を振るった。
(変だ)
イシュリアは不思議な感覚に陥る。前方から飛んで来る三本のクナイが、しっかりと認識できている。背後から自身の首筋を狙う切っ先も、イシュリアは余裕をもって見切れていた。どうすれば防げるのか、それは身体が理解している。しかしそれではオーカを傷つけることになる。さて、どうしたものか。そんな思案に暮れる時間があることに、イシュリアは驚いていた。
「ニャッ!」
全力で小太刀を振りぬいたオーカの太刀筋は、しかしイシュリアの首元には届かない。
(躱した!どうやって?)
着地するなり、反転し身を構える。柔らかい猫のようなオーカが、アリュシアの姿をした何者かをキョロキョロと探している。
(消えた?)
「えっと、オーカ」
自身の背後から突然声をかけられ、オーカは驚く。慌ててオーカは声の先へと視線を向けた。視線の先には危なっかしそうに、三本のクナイを持ったイシュリアが立っていた。彼は困った様子で、オーカに微笑みかけている。
「ニャッ⁉」
驚いたオーカが、しかしさらに姿勢を低く構えた。彼女の本気の攻撃態勢だ。殺気を纏うオーカの背へ、アリュシアが優しく声をかける。
「オーカ」
名を呼ばれたオーカが、少年にちらりと視線を送った。「ニャ!」とオーカが思わず声を出す。オーカは自身の名を呼ぶ少年をまじまじと見つめ、慌てふためく。
「ニャニャッ!アリュシアか?」
アリュシアは笑顔で頷いた。
「そうよ、オーカ。アリュシアよ」
「ニャニャニャッ⁉」
刀を収めたオーカが、アリュシアの膝元へと向かう。嬉しそうにアリュシアの顔を覗き込み、オーカが不思議そうに尋ねた。
「アリュシア、イシュリアになったのか?」
「そうなの。凄いでしょ」
「はにゃー」
感嘆の声を上げ、オーカはきらきらとした瞳でイシュリアを見る。
「アリュシアは、イシュリアだ!」
「その通り。ふふっ、流石はオーカ。よくわかるものね」
アリュシアはまるで愛玩動物を愛でる主人のように、オーカの頭を撫でながら微笑む。気持ちよさそうにその愛撫を受けながら、オーカは頷く。
「はー、凄いニャあー」
「オーカ!」
オーカの取った軽率な行動に、ウィルが激怒している。
「イシュリア様に刃を向けるなど!一体、何を考えているのですか!オーカ‼」
そう叱責したウィルが、鬼の形相でオーカを睨みつけている。
「ニャッ!」
慌ててその身をアリュシアに隠すオーカに、ウィルはため息をつく。彼女は申し訳なさそうに、イシュリアに頭を下げた。
「大変失礼致しました、イシュリア様。お怪我はありませんか?」
「うん。大丈夫」
大丈夫すぎる。命を奪うズシリと重いクナイの尖った切っ先を見ながら、イシュリアはその身体の恐ろしさを感じ取っていた。彼はアリュシアのこの身体にこそ恐怖を覚えている。
アリュシアはウィルに怯えるオーカを、優しく撫でていた。そんな姉の姿をイシュリアは見つめる。何をどう鍛えれば、こんな風になれるのだろう。姉の底知れぬ力の一端に触れ、イシュリアはごくりと生唾を飲み込んだ。
魔導卿が、真剣な眼差しで忍に尋ねた。
「なにがあったの?」
「ニャッ!そうだった。アリュシア、レイソンが死んだゾ」
オーカは平然とそう言い放ち、アリュシアを見る。
「なっ!」
「えっ!」
ウィルとエガリリは仰天し、思わず驚きの声を上げた。「そう」と、アリュシアは寂しそうに呟く。イシュリアはオーカの発した言葉の意味を考えている。オーカが告げた名前はレイソン。従士達の驚きが、イシュリアを答えに導く。それは、きっとー。
レイソン=ドバ=マキャドゥル。この国の王の名だ。
(でも、なぜ?)
イシュリアは不思議な面持ちで、考えを巡らせていた。
「アリュシアの言った通り。あれは、イシュリアと同じだ」
オーカがアリュシアにそう告げた。イシュリアの胸中が騒めく。
(僕と同じ?それって、まさか・・・)
アリュシアはオーカを優しく労う。
「ありがとう、オーカ。ご苦労様」
「じゃ、もっとだ」
嬉しそうにオーカが、アリュシアに頭を差し出した。
「よしよし」
「ニャニャッ」
ゆっくりとオーカの頭を撫でながら、アリュシアは思考に沈んでいる。
「午後には使い魔がくるわね・・・エガリリ」
主に呼びつけられた執事が、いつものようにゆっくりと頭を下げた。
「なんでございましょうか?アリュシア様」
「後のことはまかせていい?」
「はい。しかし、アリュシア様は?」
エガリリの問いに大きなあくびをしたアリュシアが、背伸びをしながら答える。
「流石に疲れたもの」
「畏まりました」
エガリリは主へ静々と頭を下げると、侍女達に命ずる。
「これより領内の警戒を最大限まで引き上げる。ヤミは蝙蝠を放て。ユカは土竜を走らせろ。ヨルは蛍を使いなさい。私は北門へ向かう。準備を終えたら、皆そこに集まりなさい」
「承りました。直ちに行動に移ります」
三人の侍女が声を合わせて執事に返事をする。彼女達はエガリリに一礼したのち、素早くその場を立ち去った。蝙蝠?土竜?蛍?イシュリアは理解の及ばない、単語の意味を考えている。ウィルがエガリに駆け寄った。
「エガリリ様、わたくしは?」
「ウィルは城に向かう準備を。さて、イシュリア様。申し訳ありませんが、ウィルと共に城に向かっていただくこととなります」
「えっ?」
「国王の死去ともなれば、六卿の一人である貴方が、出向かわなければなりません。そういう使いが、間もなくやってきます」
イシュリアはアリュシアだ。エガリリはイシュリアに、アリュシアを演じろと言っている。
「僕に、姉さんが務まりますか?」
「わたくしが支えます。心配無用ですよ、ウィルはアリュシア様の従者なのですから」
ニッコリと満面の笑顔でそう告げたウィルに、何故かイシュリアの不安は増していく。
「イシュリア」
弟の名を呼ぶアリュシアが、寝具の上で両腕を伸ばした。
「?」
姉が取った突然の行動に、イシュリアは驚く。アリュシアは甘え声で、弟へ声をかけた。
「抱っこ」
「えっ?」
「ここじゃ眠れないでしょ?ねぇ、だから、抱っこ」
イシュリアはアリュシアの白いうなじに手をかけると、細い腰に腕を回した。弟は軽々と姉を抱きかかえる。アリュシアの火照った身体は、じっとりと汗を含んでいた。ほどけた胸元から流れる汗の一滴を見たイシュリアが、姉の恐ろしさに気付く。なんてことだ。そうだ、歩けないのだ。
(僕の身体だ。病は今もこの身体の中にいて、姉さまを苦しめている。姉さまは平然と振舞っていた。だから、勝手に!大丈夫なのだろうと思い込んでしまった。僕は、馬鹿だ!)
そんなイシュリアの思考を読み取り、アリュシアは嬉しそうに告げた。
「大丈夫よ」
イシュリアの唇の前で、紅潮した頬の姉は優しく微笑む。アリュシアの潤んだ瞳は、何故かイシュリアをどぎまぎさせる。
「どう?」
「?」
「私の身体」
「うん。凄い」
「そう」
アリュシアは楽しそうにイシュリアの鼻先で笑い、オーカを呼ぶ。
「ついてきなさい、オーカ」
「ニャン」
イシュリアはアリュシアを抱え、部屋を後にする。階段を下りながら、イシュリアはこれからすべきことを考えていた。