さがしもの 【リメイク:短編ver】
私たち一家が墨田ハイツに引っ越してきたのは、十一月初めのことだった。
夫が仕事に出かけている間、幼い息子と二人で挨拶回りを済ませることにする。
まずは、隣の102号室。ここの住人は、他の誰よりも異様な雰囲気をまとっていた。
チェーンロックの間からぎょろりと大きな目を覗かせ、差し出した菓子折りを受け取るのにもチェーンロックを外そうとしない。顔ははっきりとはわからなかったが、かなり痩せ型の男性のようだった。
次に向かったのが103号室だ。ここに住んでいるのは、山村さんという五十代の小太りな男性だ。こちらは人がよさそうな雰囲気を漂わせている。
ただ、気になるのが、奥の部屋に続く扉の隙間から、寝ている人の腕らしいものが見えたことだ。
……一人暮らしだと言っていたのに。
201号室の住人は田中さんという。七十代のおばあさんで、もう二十年もこのハイツに住んでいるらしい。世話焼きで人あたりのよい人のように思えた。
202号室は、何度インターホンを押しても反応がなかった。しかし、中からは電化製品の機械音や空調の音が伝わってくる。誰かはいるようだった。
最後に203号室だが、ここには誰も住んでいない……らしい。
『空室』の札がかけられていた。
私は、近くの保育園で働いていた。
「もう行くよ」
声をかける。しかし、息子はクローゼットの前にうずくまったまま、動かない。
「……まだ、見つからないの?」
近づいて覗き込む。彼は何かを探し続けていた。
「あとでお母さんも探してあげるから」
私の言葉にうなずく。
息子は素直で、大抵のことには従ってくれる。ただ、ひとつを除いては。
彼は、長袖を着ることだけは極度に嫌がった。
もう冬なのだからと着せようとするが、逃げ惑い拒絶する。そのため、息子はいつも半袖の薄着姿だった。それでも、彼が寒がっているところは見たことがない。肌にもうっすらと汗が浮かんでいる。
「子供の体温は高いっていうけれど……」
特別に暑がりなのだろう。私は、そう思っていた。
私には、どうしても気がかりなことがあった。
それは、戸締りだ。
ガスの元栓の閉め忘れや電気の消し忘れなどは気にならない。ただ、戸締りだけはどうにも気にかかって仕方がなかったのだ。
出がけに何度も確認せずにはいられない。
保育園に着くのは、いつも遅刻寸前だった。
引っ越してきてから一ヶ月。私は、202号室の前にきていた。
202号室……。
住人がいることはわかっている。それなのに、何度訪れても決して姿を見せない。
二度インターホンを鳴らした時、扉が開かれた。
……201号室の扉が。
「誰も出てこないよ」
顔を見せるなり、田中さんがそんなことを言った。
「……でも、この部屋、誰かいますよね?」
「ああ、まあ、いるにはいるけどねえ」
「やっぱり……」
「まあ、森川さん。よければ上がっていかないかい?」
促されるままに、私と息子は田中さんの部屋にお邪魔させてもらうことにしたのだった。
田中さんの部屋はすっきりと片付けられていた。
けれども、入った瞬間に違和感を覚えた。リビングに大きな丸テーブルがあり、それを囲むように大人用の椅子が三脚と子供用の椅子が一脚置かれていたのだ。
田中さんは一人暮らしだと思っていたが、もしかして違ったのだろうか。
「隣の部屋だけどね」
私の考えをよそに、田中さんが口を開いた。
何でも、隣の部屋に人はいるが、事情があって出てこられないのだという。田中さんが言うには、その人は好青年で、悪い人ではないから安心していいとのことだ。
田中さんは親切でいい人だ。けれども、少し腑に落ちないこともあった。
それは、お茶を淹れてくれた時、私と田中さんの分しかなかったことだ。
……息子もいるというのに。
奥の部屋で一人で遊んでいたからだろうか。……私は、そう思うことにしたのだった。
ふと、立てかけられた写真が目についた。
それは、古びた写真だった。そこには息子と同じ年頃の男の子が映っている。
「あたしの孫だよ。三歳のね」
「まあ、そうなんですか? それじゃあ、私の息子と同じ歳ですね」
そう言うと、田中さんはなぜか驚いた顔をしていた。
その日の晩、寝室で眠っていると、物音に起こされた。
――がた……っ、ごとり、ずずず……。
「陽ちゃん……?」
起きていたのか、何かを探していたらしい息子がそのままの姿勢で天井を見つめている。耳を澄ませると、音は確かに上から聞こえてくるようだった。
背筋に冷たいものを感じる。
……だって、この上は……。
私は、息子を呼び寄せると、抱きしめるように布団にくるまった。
翌日、上の部屋に行ってみた。203号室だ。しかし、そこはしっかりと閉じられている。また、変わらずに『空室』の札がかけられていた。
「気のせい、だったのかしら……」
腑に落ちないまでも、その時はそう思うことしかできなかった。また、これから先何も起きなければ、それは気のせいで済んだことだろう。しかし、それはまたも起こったのである。
今年もあと一日で終わろうかという、晦日の晩のことだ。
――がた……みしっ……ごとっ……。
音によって起こされてしまった私は、その日は眠ることができなかった。
大晦日の朝、私は203号室の前にいた。まだ何かを探している息子を部屋に残して。
そして、その部屋で、私は……山村さんに襲われたのだ。
なぜか、二階に山村さんがいた。そして、なぜか、203号室の鍵が開いていた。
私は、夕べ聞いた物音の正体を調べるために203号室にきたのだが、その部屋に入った途端に嫌な臭いが鼻をついた。
その臭いのもとを探して奥の洋室への扉を開けようとした時、背後から包丁を持った山村さんに襲われたのだ。
何が何だかわからず、私は死を覚悟した。
その時……。
――がちゃり。
ふと、背後の扉が開いた。
「陽ちゃん!」
出てきたのは息子だった。彼は、まっすぐに山村さんの方へと歩いていく。
「……っだめ!」
私は慌てたが、山村さんはなぜか動きを止めている。息子は私が止めるのも聞かず、ゆっくりと山村さんに歩み寄った。すると、山村さんはしだいに青ざめ、震え出す。
「な……なんで……」
歯が噛み合っていないような、がちがちと震えた声を上げた。息子は、そんな山村さんに手を伸ばす。そして……、
「返して」
そう言った途端、
「うわあああっ」
山村さんは叫び、包丁をその場に落とすと一目散に逃げ出したのだ。その後、短い悲鳴のあと、大きな衝撃音とともにハイツ全体が揺れた。外に出て手すりから下をのぞく。そこには、山村さんが仰向けに横たわっていた。
201号室から、騒ぎを聞きつけた田中さんが出てきた。
私は、田中さんに事情を説明する。ようやく話し終えた時、これまで頑なに閉ざされたままだった202号室の扉が開いたのだ。
「今、救急車と警察を呼びました。じきに到着するでしょう」
そう言ったのは、まだ二十代と思われる青年だった。
「あ、瀬戸さん」
田中さんが言う。瀬戸さんというその青年は、張り込み中の刑事だったらしい。
瀬戸さんは、足早に一階におりて山村さんの容体をみている。まだ息があるようだ。
「森川さん、なぜ襲われたんですか?」
瀬戸さんが手当てをしながら尋ねる。
「わかりません。突然よくわからないことを言って包丁を向けてきたんです。あ、そう言えば、あの部屋から異臭がしました。その臭いの出どころを探している時に襲われたので、もしかしたらそれが関係あるのかもしれないわ」
「異臭? それは、気になりますね」
「ちょっと調べてこようかね」
田中さんが階段をのぼっていく。ほどなくして、
「ひゃあっ」
短い悲鳴が上がった。どたどたと慌ただしい足音が聞こえ、田中さんが203号室から出てくる。そして、手すりから顔を出した田中さんは青い顔で、
「死体だよ!」
と叫んだ。
「何てことだ!」
瀬戸さんの舌打ちが聞こえた。
私は、唐突に息子のことが気になった。二階にいる田中さんに声をかける。
「そこに、私の息子は……陽一はいませんか?」
私の問いかけに、田中さんはきょとんとした様子で、
「さあね、それらしいのは見えないけれど。息子さんってどんな子だい?」
と言う。そして、
「私はまだ会ったことがないからねえ」
田中さんはそう続けた。
「……会いましたよね?」
「え? あんたの息子さんにかい?」
「ご挨拶の時も一緒にいましたし、お部屋にお邪魔した時にも連れていたじゃないですか」
田中さんはいよいよ怪訝そうな顔で私を見る。
「いなかったよ」
「え……?」
「あんたは一人だったよ。挨拶にきてくれた時も、私の家にきた時も。三歳の息子がいることは聞いていたけれど、私は一度もあんたの息子さんには会っていないよ」
呆然とする私の耳に、
「これはどうしたんですか?」
聞き慣れた声が聞こえてきた。
夫だ。
仕事から戻った夫に、私はことのすべてを話した。すると、どういうわけか、夫は深々と頭を下げる。
「みなさん、妻のおかしな言動をどうか許してやって下さい」
私には夫の言葉の意味がわからなかった。
私のおかしな言動とはなんのことだろう。
「妻は今、心を病んでいるのです」
夫はそう言い、私に向き直る。
「そろそろ現実に目を向けるんだ」
「……わからないわ。さっきから、何を言っているの?」
「陽一のことだよ」
「陽ちゃん?」
「そうだ。陽一は、もういないんだ」
「……? いるわよ?」
「いないんだ」
「いるわ」
「いない」
「どうして……」
「陽一は死んだ……殺されたんだ。五ヶ月前に」
夫は、いったい何を言っているのだろう。
息子が、死んだ……?
……どうして?
それどころか、最後に夫はなんと言った?
息子は……殺された……?
その時、「おかあさん」という声が再び聞こえた気がした。いつの間にか私の足元に息子が立っており、にこにこと私に両手を差し出している。その手のひらには、折れた空色のクレヨンがのせられていた。
「何だ、これは?」
それとほぼ同時に、瀬戸さんが声を上げる。瀬戸さんの目線を追い、手が離せない瀬戸さんに代わって夫が山村さんのパーカーのポケットに手をかけた。すると、そこからは青い欠片と円筒状の小さな紙が落ちる。
「これは……陽一の大切にしていたクレヨンのラベルだ」
その時、遠くからパトカーと救急車のサイレンが聞こえてきた。
あれから数日が経ち、私の気持ちもいくらかは落ち着いていた。
息子の死も、ようやく受け入れることができるようになった。
息子は、五ヶ月前のある夏の日、空き巣に入った男と鉢合わせてしまい……そして、殺されたのだ。
警察の調べによると、その男こそが山村さんだったのだという。
山村さんは、多額の借金をしていたらしい。その返済のために、常習的に空き巣を行っていたのだ。
また、203号室で見つかった死体、あれは山村さんのお母さんのものだったという。死因は病死だが、死亡届けも出しておらず、年金を不正受給しようとしていたのではないかというのが警察の見解であるらしかった。
事件からほどなして田中さんが訪ねてきた。
「今日は、森川さんに聞いてもらいたいことがあってね」
田中さんがそう切り出した。
田中さんの部屋で見た古びた写真は、実は十年も前に撮られたものだったらしい。そして、そこに映っていたお孫さんは、もうすでに亡くなっているのだという。
「虐待だよ」
田中さんは言った。
「いい息子だった。いい嫁だった。……なんで、気づいてやれなかったかねえ」
そう言って肩を落とす田中さん。刑務所に入っているという息子夫婦は、今年出所してくる予定なのだという。
「……やり直せますよ、きっと」
「ああ、そうだね。……あんたもね」
「私は……」
「一緒に生きたいなんて思っちゃ駄目だよ。生きている人間と死んだ人間とは、相容れないものなんだから」
「……」
そのあとは、田中さんの言葉をただ黙って聞いていた。
田中さんが帰ったあと、ふいに手を引かれる。
見れば、息子が、右手の中のお気に入りのクレヨンを見つめながら、私の手を握っていた。
そう……。息子は、今もなお、生き続けているのだ。
私が、五ヶ月前のあの時、息子の死を受け入れられなかったばかりに。
私のせいで、息子は、あの世に行くタイミングをすっかりと逃してしまったのだ。
息子の探し物は見つかった。だが、これから先、もっと大きなものを探さなければならない。自分が本当にいるべき場所はどこなのかを……。
私は、はたして、愛する息子をそこに向かわせてやることができるのだろうか。