望んだことは
壁越しにくぐもった声が聞こえ、私は身を起こす。廊下と繋がる扉に目を向けると、自然とその隣にある鏡が視界に入った。
壁に埋め込まれた、大きめの窓ほどの大きさの鏡。そこには、この部屋の殆ど全てが映っていた。
腰ほどの高さの箪笥、文机、洗面所に繋がる扉。そして、白いかたいベッドと、その中の人影。見飽きるほど見てきた、その死にそうな顔をした女に微笑みかけたところで、ノックの音と共に廊下に繋がる扉が開いた。
「……やあ、お早う」
「おはようございます。起床なさっていたんですね、眠れませんでしたか?」
「いいや、近頃は眠れる」
「左様ですか。夢などは?」
「見た」
「『彼女』は?」
「居なかった」
私の回答に、私の主治医である男はマスクの奥で薄く微笑んだ。
「経過はいいですね。恐らく貴方に使っている薬が特効薬として出回ることになるでしょう」
「それは良かった。こんな所に長期入院している甲斐があったというものだ」
声にならない声が謝罪の言葉を形作る前に、私は彼に向かって笑顔を作る。
「そんな顔をするな。私にとって、この病を治すこと、この病にかかる人間を少しでも減らすことは重要且つ喜ばしい事なのだ」
「…………あ、」
私よりも高い位置にあるはずの目が、下から私を見上げる。何度か口を開いたような動きをした彼に首をかしげてみせると、限界まで縮こまりながらも言葉を漏らした。
「医者が、患者様にこういったことを言うのは適切ではないと、理解しているのですが……」
「……何だ?」
「この病の治療に、そこまで積極的な方は……その、珍しい、です」
「………………」
医者の視線は、扉横の鏡に向いていた。遠くを見つめるような彼の隣の人影は、やはりまだ女のものだった。
女が私に向かって、いつものように口を動かす前に鏡から視線を逸らす。ほぼ同時に私に向き直った医者は、肩を落としながら言葉をこぼす。
「例えそれが、自らに寄生する虫の生み出した幻想と知っても……それでも、自分の愛おしい者が側に見えると。その為なら……自身の脳などくれてやると。そんな者が多いのです」
「だから、こんな虫なんぞが蔓延してる訳だ」
肯定の返事は、沈黙になって返ってきた。
再び、鏡に目を向ける。死にそうな顔色の女は、彼の言う『自分の愛おしい者』には違いなかった。でも、それでも。否、だからこそ。
「医者先生、彼女は……忌々しい虫が私に見せている私の妻は……自ら命を絶ったのだ。この世界に絶望し、私なんぞの側には居られないと……」
「………………」
「……そうして、やっと解放されたというのに幻覚として私の側に縛り付けておくことは……私には出来ない」
苦しい、助けてと縋る彼女の目は、私に向いているはずではないものなのだ。
そうですか、と小さく呟く医者の表情が、苦痛に耐えるような、哀れな何かを見るようなものに見え思わず小突く。
「だから、お前は治療に専念しろ。医者だろう」
「はい、はい……勿論です、ですが……」
「……だから若いもんは等と言われるんだぞ。今日の薬は」
「私に、若さを理由に文句を言う方は貴方くらいです。いつも通り、食事と一緒に」
医者の顔に僅かに笑みが戻ったのを確認してから、私は遠くから朝食を運ぶ看護師の足音が聞こえないかと耳を澄ました。
「では……お大事に」
「ああ……」
医者を目だけで見送り、視界の端に映った女を意識から追い出す。
望む相手が、望む言動をしている幻覚を見せる寄生虫だと、かつて医者は語った。
私に苦しさを訴え、助けを求めるその女は、生前そのような素振りを見せたことは一度だって無かった。
「…………気づいてやれなかったのに、頼って欲しかったなどと。随分勝手じゃないか」
幻聴を聞かせることがないのがせめてもの救いだ。そんなことを考えながら、私は鏡に背を向けた。