第四章:五話 たとえば、こんな暗転
誰にだって好き嫌いはあるものだ。地上の生命を明るく照らす朝日にだって、好き嫌いがあっても不思議はない。優しく穏やかな朝日が、ベッド上で目を細めるグリーンゴブリンの頬を撫でているが、できるなら美少女の頬を撫でたいと思っているかもしれない。
僅かに空いている窓の隙間からは小鳥が顔を覗かせている。ゴブリンが身動ぎすると、驚いた小鳥は飛び立ち、部屋の外にある木の枝に止まった。止まった上でまだ部屋の中を覗いてくるので、ゴブリンはなんとなく「おはよう」と片手を上げる。
――――てや!
――――せぇいっ
――――握りが甘ぁい! 素振りもう五十追加!
――――はいっ!
――――貴様ぁっ、弛んでいるぞ、十周走ってこぉいっ!
――――うぉぉっす!
ゴブリンの耳には訓練に励む部下たちの声が届く。どこの体育会系組織だ、と思いつつも、集落を襲った災厄と、これからも降りかかってくるであろう困難を考えると、止める気にはならない。
「あ、起きたの、イッキ? おはよ」
ノックもなしに――それ以前に、ドアが壊れて空きっ放しになっているので――部屋に入ってきたのは、土と火の二重属性を持つ大精霊、エストだ。つい最近、集落を訪れた行商人フリードから購入したエプロンが良く似合っている。
「がうぅ~」
エストの足元でウルフの子供が元気なくうなだれているのは、一騎に噛みつくタイミングを逃したからだと推測できた。こいつとはそろそろ上下関係をきっちりつける必要がある、と一騎は思っている。
「なんで起こしに来る前に起きちゃうわけ? イッキの寝顔を見ていたかったのに」
「いや心臓に悪いから」
人型を採る大精霊エストはなにかというとイッキのベッドに忍び込む、だけでなく、真横でじーっと寝顔を見てるわ、特には抱きしめてくるわで、まったくもって心臓負荷的によろしくない。挙句、このことが露見した場合、嫉妬の炎に包まれた暗殺者が一騎の命を奪うべく襲いかかってくるのだから、尚のことよろしくない。拡張期血圧でも二百mmhgを越えそうなくらいだ。
「なによ。わたしに不満でもあるの?」
「そういう問題じゃなくてだな」
不満顔で近付いてくるエストに、一騎は心持ち体を後ろに下げる。いい加減に慣れろよ、自分でも思わなくもないが、無理なものは無理なのだから仕方ない。
余談だが、血圧は「収縮期血圧百四十mmHg以上」もしくは「拡張期血圧九十mmHg以上」で高血圧と診断される。(収縮期血圧-拡張期血圧)x1/3+拡張期血圧を平均血圧といい、収縮期血圧と拡張期血圧の差のことを脈圧という。平均血圧の上昇は細い血管の動脈硬化が進んでいることを意味し、脈圧の上昇は太い血管の動脈硬化が進んでいることを意味するとされる。一騎の血管はさて、いつまで無事でいられるだろうか。
『エスト!』
クレアの声は窓のかなり外から届いてきた。見ると三メートルは離れている。
『く、この我を出し抜くとは』
「ふふん、正妻が起こすのが当然のことでしょ」
『いーえ、主が起こすことのほうが理に叶っている』
「でも今日はここまで来れてないじゃない」
『くぅっ、我が闇もそこまでは届かないというの」
宗兵衛の作った霧の内部がクレアの活動可能範囲だ。気象条件により霧の範囲が広がると、魔法の霧と混じり合って、同時にクレアの活動範囲も増えるのだが、今朝は一騎の部屋に入るまでは至らなかったらしい。
「あのー、そろそろ朝ご飯にしたいのですが」
控えめに集落の長は主張した。くるみとフリードの来訪以来、一騎の食事事情は大きく改善している。エストは厨房責任者として遺憾なく辣腕を振るい、クレアも――宗兵衛に頼んで、教会内部に霧を作ってもらって――よく手伝いをしているのだ。
土壌についてもマンドラゴラの協力を得て、徐々にだが農業に耐えうるものへと改良が進んでいる。くるみらからの仕入れと森の中の探索により、栽培可能な作物の種苗も少しずつ数が揃いつつあった。
「宗兵衛の奴はもう食堂か?」
「ラビニアと一緒に待ってるわ。時間的にそろそろ、クレア用の霧を作る頃かしら」
追加されたルールとして、食事はなるべく一緒に食べること、がある。皆で一緒に食べたほうが絶対に美味しいという一騎の主張によるものだ。スケルトンの宗兵衛は食べることができないのだが、一騎が頼み込んで実現させた。
「別にいいですよ…………どうでも」
と呟いた宗兵衛が印象的だった。
本当は部下たちとも一緒に食べたかったのだが、数が増えすぎてさすがに現実的ではないということから、祝勝会などの名目がないとき以外は、主要メンバーだけで集まって食事をすることに落ち着いたのである。
着替えを手伝おうとするエストをなんとか追い出し、服を持ちながら考える一騎。農業技術の向上、特産品の生産、クレアとゴブリンたちの復活、トロウルの侵攻に伴う森の不安定化、勇者や教会の活動など、考えなければならない問題はそれこそ山積している。
「さあ今日も仕事を頑張るぞ」
シャツの最後のボタンを留め、気合を入れるために頬を叩き、降り注ぐ陽光に眉をしかめ――――
――――舞台は暗転した。
「これよりぃぃぃいいっ! 反逆者を裁判にかけるぅぅぅぅううっ!」
炎をかたどった仮面をつけた男が気炎を吐いていた。
「むごごご!? むぐっ、むぐぅぉおっ!」
場所は礼拝堂。まだまだ修理途中の礼拝堂の床に、一騎は簀巻きにされて転がされていた。唸りながら身を捩る一騎の様を見下ろす嫉妬仮面。その両目に宿る光は、シリアルキラーと比較してもなんら遜色はない。
「裁判官はこの私、絶対無私にして公平公正中立を旨とする嫉妬仮面一号が務める。被告人は法の正義を信じて裁判に挑むように!」
「むごふぐぁふごっ!(信じられるかあああぁぁぁああっ!)」
「検察官は自由と博愛の権化、嫉妬仮面二号が務める。弁護人は限りなき善意と正義の使徒、小暮坂宗兵衛にお願いした。それではデスオアダイあなたはどっち裁判開廷いいいぃぃいいっっ! 反逆者に死の鉄槌をおおぉぉぉおおっっ!」
「ふごごごぉぉっ!?(既に判決が出てるだとぉっ!?)
裁判官:まずは罪状認否だ。検察ぅぅっ!
検察官:は。被告人は我が栄えある嫉妬仮面の一翼を担う立場でありながら、女
子に食事を作ってもらったり、朝は起こしてもらったり、あまつさえ同
衾することすらあるという堕落っぷりを満天下に晒しました! これは
我らが鉄の掟に背く重大極まりない反逆行為! 極刑をもってしか対処
するほかなく、よって私は喜び勇んで死刑を求刑するものであるっ!
被告人:むぐぅぁ! ふぐぁ! ほがっふぉごぉぅっ(違うんだ! 聞いてく
れ! つか喜び勇むな!)
裁判官:被告人は黙っとらんかい! 弁護人!
弁護人:異議なし。
被告人:ふごぁぁぁぁっ!(貴様あああぁぁぁっ!)
ここまで役立たずの弁護人というのも珍しい。せめてリーガ〇・ハイの古美〇研介や車椅子の弁護士の水〇威を呼んでほしいと切に願う。
必要もないのに欠伸の真似事すらして見せる宗兵衛に、ドロップキックを叩きこみたい衝動をなんとか抑える一騎。宗兵衛への報復よりも、まずは自分の命を優先せねばならない。
発言の機会を求めて裁判官を見上げると、嫉妬仮面一号扮する裁判官はパタパタと涙を流していた。一騎は思う。本当は彼もこんなことはしたくないのだ。嫉妬仮面の連帯を維持しなければならない立場故、已むに已まれずしているだけなのだと。
そうさ、俺たちは友人なんだ。人間だった頃からの、情熱とスケベ心によって固く結ばれた無二の親友なのだから、信じなくてどうするのか。
「常盤平一騎よ、お前に我らの悲痛悲嘆悲憤がわかるか?」
「ふご、ふぐが(ああ、もちろん)」
「つけるだけで女が発情するようになる魔法の香水を一グロスも買ったのに、女に見向きもされなかった気持ちがわかるのかあああぁぁぁぁああっ!」
「ふがぁっふぉごうほうおぉぉお!(アホかお前はああぁぁぁあ!)」
ダース → 品物を十二個一組と数える単位。
グロス → 十二ダースを一として数える単位。
「二号なんか香水をつけて小学校に侵入までしたのに正しく報われなかったんだぞ!?」
「ほががぐがぁああぁぁあっ!(ただの犯罪者だろうがああぁぁあっ!)」
もはや同情の余地はない。むしろ裁判官と検察官こそ法廷に立たされるべきだろう。しかしここは嫉妬の炎が燃え盛る、いわば異端審問の場。道理と常識は露と消え失せ、感情に突き動かされるバーサーカーがいるだけだ。
「くそう! ギャルは実はオタクに優しいというのは都市伝説だったのか! 補導を覚悟でギャルたちが集まっていそうな場所を深夜に徘徊してたのに誰も声をかけてくれなかった!」
「スクール水着にランドセルという組み合わせが好きなだけなのに、どうして犯罪者呼ばわりされなければならないんだ!」
うん、ダメだこいつら。
『『だからお前だけが幸せになってるのが納得できねぇんだよおおぉぉぉおおっ!』』
猿ぐつわを噛まされて簀巻きで床に放り出されている状況が幸せに見えるらしい。固い絆で結ばれた同志たちの視神経に重大な欠陥が生じていることを悲しく思いながら、一騎は自分自身を守るために全力を尽くさねばならない。にじり寄る嫉妬仮面、というよりもはや単なる狂人の魔の手からなんとかして逃れようと身を捩る、と、
「ぷは!」
猿ぐつわからなんとか解放される。自由になった口で行うことはなにか。命乞いではない。そんなものを聞き入れる慈愛や、なにより冷静さを嫉妬仮面は持っていないことは明らかだ。この場で辛うじてギリギリ当てにできるのは、宗兵衛しかありえない。
「おい宗兵衛、助けてくれ! 仲間だろ!? 見捨てるのか!?」
まさか自分の人生でこんな呼びかけを実際にすることになろうとは、一騎も想像だにしなかった。平均的で一般的な高校生活を送っていたかつての日々があまりにも輝いている。
「確かに仲間は大事ですね。最初の洞窟のときのように、ダンジョンに入る機会もあるかもしれませんし、そうなればチームワークや役割分担はとても重要になるでしょうから」
「そうだぞ宗兵衛。チームワークは大事だ。仲間はもっと大事だ!」
「もちろんですとも。僕がトラップ探知担当で、君がトラップ解除担当で構いませんね?」
「ばっか野郎!? お前は俺をなんだと思ってるんだ!?」
「消耗品」
どうやら宗兵衛の中で、一騎の命はセロハンテープと同格らしい。
「最後の会話は終わったかああ~~ぁぁぁ?」
「楽しい愉しいタノシイ時間の始まりだぜえええぇぇぇぇっ!」
「仮にも仲間の処刑を楽しむなよ!?」
至極真っ当なツッコミは、だが真っ当故にこの場においてはなんらの効果も発揮しない。
嫉妬の狂乱。後に宗兵衛は正気を失った状態の嫉妬仮面を指して、そう名付けたという。




