幕間:その十一 王女の想い
王都でもっとも熱い話題はなにか。百人いれば百人ともがこう答えるだろう。「勇者テンマとレティシア王女のロマンスだ」と。
実はこの話が広まる二週間ばかり前の王都に広がっていたのは、何とも言えない不安だった。魔の森近くにある砦が、魔物に攻め落とされたとの報告がなされたからだ。魔の森を焼き尽くせ、魔物との全面戦争だ、などと強硬策を唱えるものたちがいる一方、今後の混乱を予想して悲観的な主張するものたちもいた。
そんな折だ。勇者と第一王女のロマンスが急速に広まったのは。
「テンマ様」
「これは、レティシア王女」
偶々、本当に偶々、王国第一王女レティシアが廊下を歩いていると、勇者テンマと遭遇してしまった。反射的にレティシアの顔が赤くなり、本人も自身の温度が急上昇したことを自覚せざるを得なかった。
(お父様があんなことを言うから)
少し前、レティシアは父である国王の部屋にいた。私室ではなく執務室だ。最近の国王は極めて多忙な毎日を過ごしている。勇者召喚が教会に露見したとのことで、王国自体の立ち場が悪くなったことに加え、教会とのパイプ役であったボストーク大司教が不慮の死を遂げ、代わって派遣されてきたクルト枢機卿の態度は王国に対して甚だ非好意的であったためだ。
法国や教会との対立の回避と関係修復に力を費やしているタイミングで、魔の森近くにあるライオネル砦が魔物に攻め落とされるという報告まで入り、王国は王侯貴族も市民も、文武双方の人間たちも大わらわになっていた。状況を変える策の一つとして、勇者と王女の婚姻が浮上してきたのは無理からぬことだったのかもしれない。
「急に呼んですまなかったな、レティシア」
「いいえ、お父様。わたくしの公務も片付いたところでしたから」
「ならいいのだが……そういえば、テンマ殿はどうしている?」
勇者テンマは現在の王都でもっとも高い人気を博している人物だ。容姿端麗、頭脳明晰、高い魔力と強力な宝装を持ち、仲間と共に既にしていくつもの戦いを潜り抜け、多くの手柄を立てている。
当初の予定では魔族討伐のためのカードとしてしか考えておらず、目立つ活躍をさせるつもりのなかった王国上層部なのだが、教会に対しては無断での勇者召喚、市民に対しては大司教の不慮の死といった、不測の事態への対応のために勇者を大々的に投入するほかなくなったのだ。勇者召喚は魔族討伐のために行ったもので私心はないと証明し、勇者の活躍によって民の不安を和らげる。
「テンマ様の活躍ぶりは他の勇者様方と比べても群を抜いています。民の間では英雄と呼ぶ声も多く、実績を考えるとテンマ様と、テンマ様のチームであるミズキ様たちには、爵位を与えるべきだとの主張するものもいます」
「爵位か。それもよいのだが、ふむ……勇者の血を王家に入れることについてはどう思う?」
「それは」
レティシアは言葉に詰まる。確かに、功績に報いるためにとテンマに娘を嫁がせようとの動きは活発化している。水面下などではなく、半ば以上、公然とだ。戦いの慰労を兼ねたパーティが開かれる度、出席した令嬢たちが浮かれると、実しやかに囁かれている。令嬢たちの思惑がどうであれ、権力者にとっては地位と金銭と異性は、いつの時代でもどんな場所でも、用いられる手段であるということだ。
勇者テンマと密接な関係を作りたいと考えるのはわからなくもないが、レティシアとしてはそんな貴族たちの動きに辟易する思いがあるのも確かだった。そして、貴族たちをけん制し王権を強化するためにも王家――つまりはレティシア本人か、妹のリュシエラが勇者テンマと婚姻を結ぶという話もわかるのである。
「それで、お前はどうだ? 正直なところ、お前は勇者テンマのことをどのように考えておる? 単に勇者と結婚というだけならリュシエラでも構わんのだが、どうにもお前は勇者テンマのことを好いておるようだしな」
「なっ!?」
短い言葉を発しただけでレティシアは固まってしまう。父親の言葉は事実だ。少し前、公務として視察に訪れた場所で、レティシア王女と護衛騎士たちが魔物に襲撃されるという事件が起きた。王族の視察には十分な安全が配慮されているのだが、最近の魔物の活発化が原因なのか、本来なら魔物が出現しないだろう場所とタイミングで、小さな群れが襲いかかってきたのである。
完全な不意打ちに騎士たちは次々に倒れ、レティシアも自らの死を覚悟した正にその瞬間、救出に来たのがテンマだった。圧倒的な強さで魔物を蹴散らし、自分を助けてくれたテンマの姿に、レティシアの心は強く惹きつけられてしまう。
「い、いえ、わたくしは別にテンマ様のことなど」
「よい。家柄には問題があるが、これだけの実績があれば爵位を与えることはできる。なによりあれだけの力の持ち主だ。他国や有力貴族共に奪われる危険性を考慮すると、結婚で留め置けるというのなら、第一王女のお前と結ばせるのも選択肢の一つではある」
政治的な目的の結婚であることを強調しつつ、勇者テンマの話題が続き、レティシアが父の部屋を辞したのは半時間近くが過ぎてからだった。
(わたくしがテンマ様と結婚……)
政略結婚自体のことは幼い頃から頭の中に入っているレティシアも、テンマの隣に立つ花嫁姿の自分を想像したことはこれまでに一度もなかった。意識して脳内に絵を描いてみると、頬に留まらず顔全体が赤くなってしまう。と、不意にレティシアの視界に現れたのが、誰あろう、とうの勇者テンマ本人であった。王城の廊下を、背筋を伸ばした堂々たる足取りで進んでくる。そして、
「テンマ様」
「これは、レティシア王女」
二人は歩き、王城の中庭に降りていた。
「今日も任務だったのですか?」
「いえ、今日は騎士団の方々との訓練です。テレンス団長に呼び出されまして」
テンマは苦笑を浮かべ、レティシアも同様だ。騎士団長テレンスが勇者テンマを気に入っているというのは有名で、事あるごとに訓練に呼びつけているのである。部下の訓練にかこつけて自分とテンマとの試合を組み込むことでも知られていたが。
「それにしましても、こうしてゆっくりとお話ができるのも久しぶりですね、テンマ様」
「確かに。普段は儀礼的なものが多いですからね」
最後に二人きりでは言葉を交わしたのはいつだったか。魔物から助けられたとき、その後の礼のやり取りにまで遡ってしまうだろう。
同時に鮮明な思い出だ。レティシアにとって、物語の中の英雄譚そのもののような、姫と勇者の出会いの一場面だったのだから。
襲い来る魔物たちに護衛は殺され、レティシアの乗る馬車は破壊された。短い悲鳴を上げて地面に投げ出されたレティシアと侍女にも魔物は迫ってくる。王族として最後まで毅然とあろう、と震えて動けなくなった侍女を背に護身用の短剣を構えたものの、恐怖を拭いとれるわけではない。あっさりと短剣は弾かれ、丸腰となったレティシアたちに巨大な爪を振り上げた魔物、の頭部が閃光に貫かれた。
「ご無事ですか、殿下!」
「勇者様!?」
銃といったか、特殊な形状の宝装を手にした勇者テンマが駆けつけてくれたのだ。テンマは神速めいた速度でレティシアと魔物たちの間に割って入り、そこからは正に一騎当千の活躍。ミズキたちパーティーメンバーが遅れて到着した頃には、襲撃した魔物はすべて屍を地に晒していた。逃げ出した魔物も、宝装の遠距離攻撃で仕留め、駆け出そうとしていたキミヒトは真っ黒な二刀の振るいどころを失って憮然としていたほどだ。
あの瞬間から、レティシアの恋は始まったのかもしれない。物語の中の世界から、本当に自分を救ってくれた勇者へ。感極まって、思わず抱き着いてしまって、胸の鼓動が急加速したことをはっきりと覚えている。
時間が経って、少しはマシになったが、助けられたときのことを思い出したり、テンマを目撃したりする度に同じ症状に襲われてしまう。今のように間近にいるとなると、レティシアの顔は紅潮して、体も火が出そうなほど熱くなり、胸は早鐘を打って少しも落ち着いてくれない。離れた場所では、付き合いの長い侍女がガッツポーズなんかしている。
(あの子には後できっちり話をしておく必要があるわね)
「どうしました、殿下?」
「い、いえ! なんでもありませんわ」
「しかし顔が随分と赤い……もしやなにかのご病気では。だとしたらいつまでもこんな所に」
「いえ、本当に大丈夫です。病気などではありません。少し緊張しているだけですので」
「緊張?」
なにを口走っているのか、と遠くで侍女が頭を抱えていた。その上で手を振り回してエールを送ってくる。
「はい、勇者様の世界のことを聞いてもいいものかどうか、思案しておりました」
言うまでもなく嘘だ。テンマがいた世界のことを知りたいという気持ちに嘘はないが、テンマの近くにいるから緊張しているのであって、質問する内容に緊張などしてはいない。
レティシアの感情か葛藤に気付いたのかどうかはわからないが、微苦笑を浮かべたテンマは静かな口調で元の世界のことを話しだす。父母のこと、学校のこと、クラブ活動のこと、娯楽のこと。レティシアは穏やかな口調で話すテンマの横顔を、熱っぽい視線で眺めていた。




