第一章:八話 ゴブリンと人狼の対決
これがゴブリンと人狼の差なのか。
一騎の反応をあざ笑う速度で間合いを潰し、古木の拳が一騎の腹に突き刺さる。アッパー気味に放たれた拳はゴブリンの腹を捉えただけではなく、肋骨を何本もへし折っていく。
「ぅぐぇっほ!」
ゴブリンの小さな体躯は浮き上がり、吐瀉物を撒き散らして地面を転がった。
「あーこれこれこれこれ! やっぱ殴るんだったらキモデブに限るわ。いやー、きったねえクソモンスターを百発殴るよりもキモデブ一発殴るほうがすっきりするわ!」
すっきりしてんじゃねえ。一騎は叫びたかったが無理だった。人狼と化した古木の最初の一撃だけで、体力のほとんどを奪われたのだ。
実力に差があることはわかっていた。
なにしろゴブリンと人狼だ。あらゆるゲームで最弱扱いされる種族と、満月の夜には不死身にもなる種族。だがまさか一撃で戦闘不能に追い込まれるほどの差があるとは。
一騎が動けずに地面にうずくまっていると、次の衝撃に襲われる。サッカーボールのように蹴り上げられたのだ。一騎の小柄な肉体は一般的な住宅の三階相当の高さにまで飛ばされる。一騎の体が重力に掴まる寸前、その足が跳躍した古木に掴まれた。捕まれた拍子に一騎の足が握り折られる。
「ぐあああぁぁぁっ」
「おおっと、折っちまったかぁ? そいつぁ」
古木の体が弓反りになり、
「悪かったなっと!」
一騎を地面に向けて投げつけた。フォームもなにもない、力任せに投げただけなのに、一騎の体は時速百キロ以上に達し、形容できない音と共に地面に激突した。地面はあり得ないほどに陥没する。
「っぁ……うぅ」
人間なら即死、魔物でもゴブリン程度なら即死だったろう。一騎が生きながらえているのは体内の魔力量が多いからだ。魔力量が多い分、一般的なゴブリンよりも強靭な肉体と高い生命力を持っているからだ。
「おおぅ、さっすがキモデブちゃん、タフじゃねえの。いいぜいいぜぇ。もっと俺に殴られてくれるんだな! ま、最後には頭から噛み砕いてやるけどな!」
それでも人狼に勝てるほどではない。
なにしろ古木自身も並の人狼よりも多くの魔力を有しているのだ。一騎を特別なゴブリンと表現するのなら、古木もまた特別な人狼なのである。一騎が持つ普通より強靭な肉体はこの場合、苦痛を長引かせることにしか役立たない。
「づぅぐ」
錆びた剣を杖代わりにして起き上がる。起き上がって、なにもできない。古木との遭遇から一分も経たないうちに、一騎の肉体はボロボロになっていた。
骨にも内蔵にも甚大なダメージを受けている。地面に叩きつけられた衝撃で右目は潰れていた。人間だった頃から身に着けている眼鏡もひしゃげ飛んだ。
「ひゃっは! おいおいおい、どこでそんな剣を見つけたんだ? 刃物なんてちょー危険じゃねえか。ケガでもしたらどうすんだよ。怖くて怖くて仕方ねえよっ!」
無造作に突き出された古木の拳が一騎の顔面に炸裂する。またも一騎は吹き飛び、壁に激突することで倒れはしなかった。壁に体全体を預けて辛うじて立っている。剣を手放さなかったのは単なる偶然だ。
「ぁぁあ、うぁ」
震えながら剣を構える一騎。古木は嗜虐的な笑みを浮かべ、ゆっくりと一騎に近付く。十分に近づいたところで、右手の人差し指を立てた。
「ぐ」
一騎が錆びた剣を振るう。技も速度もない攻撃は古木の人差し指の爪で受け止められ、簡単に弾き飛ばされた。
「ギャハハハっ! なんだそりゃあ! 魔物になってもこの程度かよ。てめえ、ホントなんのために生きてんだよ、なんのために生まれ変わったんだよ! ああん!」
うるせえ、と一騎は途切れ途切れの意識で反論した。
なんのために生きているか? ゲームのため、と断言できる。ゲームというより創作物が好きで、本格的に二次創作を始めたところ、創る喜びに目覚めてしまった。ロクな大人にならなさそうだと自覚しながらも、必ず夢を実現するつもりでいたのだ。
将来は生活保護をもらうと公言していた古木みたいなやつに笑われる覚えはない。
なんのために生まれ変わった? 生まれ変わりたかったわけじゃないのだから、返事のしようもない。
「……ぃや、ひと……づっあ、っだ」
「んだ、ああっ!」
古木の拳が振るわれる。死なないように、なんて気遣いはない。古木は一騎を最終的には殺すつもりなのだ。この一撃で殺すとは考えていなくても、死んでも別に構わないと考えている。容赦もなく手加減もない。生きているのはひとえに一騎のタフさのおかげだ。
一体何度目になるのか、一騎が地面を転がる。転がって起き上がれないでいると、腕を掴まれた。古木が右腕だけで一騎を宙吊りに持ち上げたのだ。
「なんだなんだなんだあ? ほら、頑張れよ。クソみてえな人生の最後の瞬間が来ちまうぜ? せっかく生まれ変わったのにもう死んじまっていいのか、ああ?」
「ゅぐっ」
「ああ?」
一騎は力を込めて口を動かす。
「……い、ぬっ……こぉ、っろ、……がぁ……っ」
「っ、クソが!」
吐き捨てた古木が左腕で一騎を殴りつける。何度も何度も殴りつける。一騎の血が、涎が、涙が尿が体液が骨片が殴られるたびに飛び散る。息が切れるまで殴り続けてようやく、古木はぼろ雑巾のようになった一騎を乱暴に投げ捨てた。
「づぅ」
一騎はまだ生きていた。いっそ死んでいたほうが幸せだったろうと思わせるほど、悲惨な状態で。とても立ち上がれそうにない状態で、けれど一騎は立ち上がった。
根性で起きたのではない。か細く頼りないながらも、作戦あってのことだ。一騎には見えないが古木の顔が歪む。愉悦、優越感に混じって、確かな苛立ちがあった。
「爪で引き裂くか、噛み殺すか、踏み殺すか」
大股で歩いてくる古木の姿も、もはや一騎には霞んでしまっている。
「そういや、嚙み砕くって言ってたわ。腹の足しにもなんねえだろうがよ……もう死んじまえよ、キモデ」
一騎の振るったナイフが古木の右眼球に突き刺さっていた。無警戒に近付き、無警戒に顔を近づけてきた人狼に、渾身の力で腕を振るったのだ。
「ぎ」
これが一騎の作戦、ではない。作戦の一部だ。
本題はここから。
「ぎゃあああああぁぁぁあああっ!」
古木が唐突な痛みに叫びを上げて腕を振り回す。
一騎は残る力のすべてをつぎ込んで、川に向かって歩く。右目が潰れて左目も碌に見えないので、音を頼りにするしかない。
「クソがクソがクソがああぁぁぁあああっ! やってくれたなクソがっ!」
クソクソうるせえんだよ、どれだけボキャブラリー貧困なんだ。もう声を出すこともできないので、一騎は心の中で古木を罵倒して、川に飛び込んだ。
ゴブリンの小さな体は簡単に濁流に飲み込まれ、すぐに見えなくなった。