幕間:その八 蹂躙
遮るもののない、否、木々や岩、あるいは魔物なども行く手に立ちはするのだが、尋常ではない速度で森の中を疾駆する影を止めることができない。
木石は蹴散らされ、魔物は食い散らかされる。宝装『欠けた仮面』が与える強烈な飢えと渇きの苦痛により、理性の軛が破壊されてからどれくらいが経っただろうか。地面を砕き、こそぎ取りながら蹴りつける四肢も、名剣名槍を凌ぐ切れ味を見せつける爪牙も、魔物の太い体幹を無造作に引き千切る膂力も、いずれも人の身に余るものだ。
果たして経験と呼んでいいものか、数多の血と死と戦いの積み重ねの末、仮面の下にある玉ノ井幹康の顔にかつての面影を探すのは、顔の左半分以外には到底望めない。
異常なほど急速に力を増していく玉ノ井幹康の肉体は、一本一本が鋼の槍を思わせる剛毛に覆われている。ここに常盤平一騎か小暮坂宗兵衛がいたなら、人狼の体毛に酷似していると思っただろう。
玉ノ井幹康の口元も手も赤黒く汚れている。『欠けた仮面』の衝動に突き動かされて戦い続ける彼の、直前の戦いの相手が人狼、それも水準よりも強い力を持つ、つまりは転生者だったのだ。
飢えを満たすためだけの、餌を求め続け続ける日々の中で、間違いなく一番の強敵だった相手を、一昼夜に及ぶ激闘の末に食い殺した玉ノ井幹康は、その身に宿る力を更に大きくしていた。
勇者として、王城で支給された上等な布地の服はとうに原型を失っているが、わずかに残る背部の布は不自然に凸凹に盛り上がり、右腕の袖は隆起し蠕動する筋肉により破れている。理性の管理下にない肉体が地面を駆け、跳ね飛んだ石の礫は玉ノ井幹康が纏う魔力に遮られた。
転生者の人狼との戦いから既に二日。目的はより大きな力か、単純に腹を満たすための餌なのか。ともかく玉ノ井幹康が次の獲物を探し始めてから二日が経っていた。
木も食った。魔物も食った。人も食った。しかしそれらは腹の足しにならなかった。人狼を食って初めて、微かに満たされたかの感覚を覚え、だが人狼を食って以降、弱い連中をどれだけ食らっても、一瞬たりとて満たされることはなかった。
玉ノ井幹康は、仮面から覗く小さな視界が真っ赤になるほどの飢餓感に苛まれながら走り続ける。
両目は爛々と不吉な輝きを発し続け、全身から吹き上がる飢餓感で色付けされた殺気は暴風となって木々や水面をざわつかせ、小動物はもちろんのこと、ヒエラルキーの上位にいる個体までも逃げ出していた。偶々森に入っていた猟師は、数百メートル以上の距離があったにもかかわらず、走る影を見ただけで自らの死を思い浮かべたという。
今、玉ノ井幹康の頭の中を占める考えは二つ。
食って殺す。さもなくば、殺して食う。
森の中がちょっと信じられないくらいに騒がしいことに、勇者の丘崎哲也は気付いていた。空を仰ぐと大量の鳥たちがけたたましく飛び立っていて、森の中も動物たちが一目散に逃げだしているのを目撃している。
日本にいたときに見た震災のドキュメンタリーで、災害に先だって鳥や動物たちが逃げ出したという話を不意に思い出し、薄ら寒くなって自分の首を竦めた。厳しい訓練を経て、随分と首は太くなっていたが。こんな不安な気持ちを味わうくらいなら仲間たちと一緒に来ればよかったと考え、
「それはカッコよくない」
とすぐに打ち消した。他の仲間たちよりも強くなるために、こそこそと一人で修行する道を選んだのだ。森が騒がしいくらいで考えを変えるとは何事か。
むしろ、森を騒がせている原因を取り除くくらいのことは考えて然るべき。大体、この身はこの世界に召喚された勇者だ。いくつもの危難が降りかかろうと、多くの困難が立ちはだかろうと、すべて乗り越え、斬り伏せ、克服してみせる。それでこそ勇者であり、そうすることこそが勇者の役目であろう。
召喚されたときは戸惑いもしたし憤りも覚えた。誰がこんな世界の奴らのために命をかけて戦ってなどやるものか、と思った。
だが考えは変わる。王都の城下町ではものを知らないと見て吹っかけてくる八百屋の店主に会い、定番のように怪しく笑う露天商の老婆と挨拶をする仲になり、布面積の少ない衣装に身を包んだダンサーのお姉さんと酒場で飲み比べをして、ひったくりから助けた娘が両親と営む料理屋の常連になった。
料理屋の娘はイネスといって、何度も通ううちによく話をする仲になり、気が付けば異性として意識するようになっていた。最近では店の買い物にかこつけて一緒に出かけるようにもなっている。言葉や態度の端々から、イネスのほうも憎からず想ってくれているのでは、と予想している丘崎は、近いうちに正式に交際を申し込もうと考えていた。
プレゼントには宝石がいいのか、それとも花がいいのか。いやいや手作りのアクセサリーなんかどうだろう、さすがに重いと思われてしまうか。
修行をしようとせっかく森の中に入っているのに、色々と考えてしまってまったく集中できていない。宝装を振り回して無意味に自然破壊をしただけだ。このままではよくない。実によくない。非常によくない。よし、と顔をパンパンと叩く。強く叩きすぎてちょっと頬が痛い。
「俺は勇者だ」
世界を救うためにと召喚された勇者だ。魔物との戦いにも、恋愛ごとにも尻込みしてたまるか。日本にいるときは異性に告白する勇気などついぞ持てなかった丘崎だが、勇者補正でもかかっているのか、イネスには正面から告白しようという気になっていた。
今日、これからすぐに戻って、イネスに思いの丈を打ち明ける。イネスの父親は若い頃、冒険者として結構な活躍をしたという筋骨隆々とした大男で、イネスを目に入れてもいたくないほどに可愛がっている。恐らくしこたまぶん殴られるだろうが、それも覚悟の上だ。
「うおおおお、玉砕覚悟の特攻上等! 撃ちてし止まん、進め一億の火の玉じゃあああいっ!」
意気込みだけは伝わる、意味としてはまったくもっておかしいセリフと共に気勢を上げて左拳を勢いよく突き上げる丘崎。なにかに気付いて、恐る恐る、左拳を開く。この世界にも左手の薬指にリングをはめる習慣があるのかどうか。あるのなら一緒に指輪を見に行こう。どんな宝石があるのかも知らない丘崎だが、イネスの指にならどんな石でも似合うだ――――
「ぇ」
――――突風が丘崎の顔の前を通り過ぎ、気付くと丘崎の左腕は肘から先を失っていた。プシュ、と炭酸飲料のプルタブを開けたような音がして血が噴き出した。
「あひゃああああああぁぁぁぁぁああっっ!?」
森に丘崎の絶叫が響く。失った肘の断面に強い熱を感じ、続いて耐えがたい激痛が肘から体幹、体幹から脳髄へと競り上がってくる。もう一度叫び声を上げようとして、丘崎は眼前で蠢く、人の形に見えなくもない異形の影に意識を奪われた。
「てめえが俺の腕をぉぉぉおおっ!」
右腕を力強く振るうと、雷光を帯びた長剣が出現する。丘崎の宝装だ。近接戦闘だけでなく、雷撃による高出力の砲撃で遠距離戦も行える優れた性能を持っている。
片腕を失ってバランスがとりづらいが、丘崎は構わずに斬りかかった。異形の影がどれだけ危険であるか、勇者の本能がうるさいぐらいの警鐘を鳴らす。
しかしここで逃がせばイネスにも被害が及びかねない。勇者として、それ以前に男として、この異形を見逃すわけにはいかない。雷光で輝く斬り下ろし。斬撃だけでなく電撃により攻撃範囲が広がり、同時に切れ味自体も大きく増している。
ガキン。
金属的な音が響く。こともあろうに異形の影は、宝装の一撃を口に生えた牙で噛み止めたのだ。丘崎が長剣を引っ張っても離す気配もない。
「っこの」
電撃が異形の体を流れ、あちこちを焦がしていくが状況は変わらない。いや、少しだけ変わる。丘崎にとっては悪い方向に。
宝装が異音を立てて噛み砕かれたのだ。神から授かった、勇者の証の無残な姿に、丘崎は自失する。
致命的な隙だった。
異形の影が下から上に向かって跳躍し、丘崎の右腕も噛み奪う。血が噴水のように噴き出し、両手と宝装を失った丘崎はそのまま地面に倒れた。逃げ出そうともがくが、血を失いすぎたからか恐怖からか、足にも体幹にも力が入らない。
「ひぃっ、ひいいぃぃいい」
涎と敗北に塗れた嗚咽が弱々しく漏れるだけ。嗚咽が悲鳴に変わったのは、右足に強い痛みを感じたからだ。異形の影は地面に伏してモゾモゾと動いているだけの丘崎の右足に噛みついてた。どんな咬筋力をしているのか、異形の影の牙は、魔力に覆われた勇者の足の肉に食い込み、骨に到達し、力任せに噛み千切る。
丘崎の欠けつつある視界で捉えたのは、異形が纏う衣だ。自分たち勇者が王城で支給されたものによく似ている。いや、勇者用にと、特別な刺繍が施された衣は、紛うことなく支給されたものだ。
ではこの異形は勇者なのか。人間なのか。同じ学校の同級生なのか。一縷の望みを託して決意する。逃げ切ることはできない。勝つこともできない。ならば勇者という共通点に活路を見出すほかない。
みっともなかろうとなんだろうと、命乞いをしてでも生き残る。なんとしてでももう一度イネスに会う。そう決意して、丘崎は最後の力で顔を上げた。
「お」
その先を丘崎が口にすることは永遠にない。異形の影の口は、異形の顔の半分以上の大きさにまで開き、丘崎の頭部を噛み千切ったのだから。




