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第三章:二十八話 届かない距離

 パァン。


 軽妙な破裂音が内耳の奥にまで届いて、一騎の意識は覚醒へと向けて漕ぎ出した。うっすらと開いた視界には宗兵衛とラビニアとアーニャがいる。


『なにをしてるんですかー?』

「人工呼吸を魔法でできないかと思いまして」

「……人工呼吸?」


 アンデッドが救命方法の手順について説明している絵面はシュールだ。スケルトンは呼吸器官がないので人工呼吸はできず、魔法で代替できないかと考えているらしい。どうやら自分は呼吸停止にまで陥っていて、宗兵衛たちはそんな自分を助けるための手段を探してくれているのか、と少し嬉しくな――いや、ちょっと待ってほしい。破裂したのは一体なんだったのか。


 宗兵衛は木樽に向けて骨の人差し指を向けた。魔力が集中するのが見てとれる。


 プゥ ← 第一位魔法、風の息吹を使用。

 パァン ← 木樽が破裂した音。


「…………ま、失敗したという教訓を得たことですし、そろそろ常盤平に使ってみましょうか」

『そうですねー。あ、リディルはサポートしたらダメですよー』

《その場合の失敗確率は百パーセントです》

「……ゴブリンの死因が破裂…………新機軸?」

「ふざけんなバカ野郎おおおぉぉぉおおっ!?」


 たまらず一騎は飛び起きた。救命を相談していたはずの宗兵衛たちは、急な一騎の行動にも驚く素振りは少しも見せない。ざわついたのはゴブリンとハーピーたちだ。口々に一騎の無事を喜び、涙を流している。生きていることをここまで喜んでもらえたのは、生まれて初めての経験だ。転生して以降のほうが温かみのある経験が増えている気がして、一騎は照れたことを誤魔化すように首を周囲に向けた。


「ここ、は?」


 見回しても場所がさっぱりわからない。なぜなら辺り一帯が濃い霧に覆われていたからだ。一騎たちの他に音の発生源もないようで、世界全体が漂白されているかのような錯覚がある。視界は僅かに数メートルしかない。霧の発生条件を知らない一騎でも、おかしいと感じるくらいに濃く深い霧だ。霧の迷宮、なんて使い古された表現を思い出す。


「状況を説明しますよ、常盤平」

「え?」

「クレアさんを復活させるチャンスがあります」


 宗兵衛のあまりにも平坦な口調に、一騎は言葉を失う。神経系を流れる電気信号にも異常をきたしたのか、両目を見開くことも宗兵衛を問いただすこともできない。


 動けなくなった一騎を待つことなく、宗兵衛が説明を続ける。まず、この場所はクレアの村であること。魔王ペリアルドを叩きのめした後、宗兵衛は意識を失った一騎を抱えて砦を脱出、村に急行したのだった。


 次に霧だ。村全体を覆う霧は宗兵衛が作ったものであり、効果は死者の魂を彷徨させることだと言う。天に召されるだろう魂を現世に縛る術だ。本来は魂を彷徨わせて悪霊化させるのだが、今回はこの場に魂を留まらせることが目的だ。周囲にゴーストが漂う環境は魔物にとってもうすら寒いようで、ゴブリンたちは身を寄せ合い、ハーピーは上空に避難していた。


「僕一人でできるのはここまでです。後は常盤平、君の『進化』を頼らせてもらいますよ」


 死に瀕していたブラウニーを精霊エストへと進化させたように、彷徨うクレアの魂を進化させることで救う。ただし、救うことができるのはクレアだけだ。


 一騎の残存魔力は底をついている。意識を失って以後、徐々に回復してはいてもまだ不足だ。骨刀を介して宗兵衛の魔力を使うしかないが、死者の魂を進化させて救うには、エストのとき以上の魔力を消費するかもしれない。


 しかし、


 それでも、


 死んだ人間を生き返らせることができるのなら、失われた命の火を再び灯すことができるのなら、己の浅慮浅薄の結果を少しでも取り戻すことができるのなら。


 集落が襲われ、一騎は魔物の側の扉を開くことを選んだ。酷い選択肢だと思ったが、今度はクレア一人だけしか救えないという現実を押し付けられる。


 一騎は小学生時分に聞いた言葉を否定した。無限の未来? 無数の選択? 一体そんなものがどこにあるのか。


 あるのは巌の如く厳しい、永久凍土の如く冷たい現実だ。現実は立ちはだかると同時に過ぎ去ってもいく。選ばなければ、行動しなければ、すべては手の中を通り抜け、失われていくのだ。


 閉眼し、大きく深呼吸をする一騎。開かれた目には、後悔も不安も綯い交ぜになった決意が閃いていた。




 クレアが森の中に入ったのは、父親の仇を求めてのことだ。両親のことをどう思っているのかと問われれば、好きだ、と即答できる。


 クレアの村は小さく貧しく、少しでも天候不順があると冬には餓死者が出るような環境だ。クレア一家は貧しい村の中でも特に貧しい部類に入り、父親は地主から畑を借りる農民で、母親は父親を手伝いながら村に一軒しかない酒場でも働いていた。生活には余裕がなく、余裕がない中でも精一杯生きてきた。そんな父の仕事ぶりは村人たちも認めるところで、近々、牛を何頭か譲り受ける話まで出ていたほどだ。


 運が悪かったのは、村長の叔父に目を付けられたことだろう。粗野な言行で敬遠されている彼は、貧しい生活の中でも酒をやめようとしない人物で、酒のために借金をし、借金を返せないことで村内ではますます肩身が狭くなり、肩身が狭くなった鬱憤を暴力に訴える愚か者でもあった。


 ちょっと社会的地位の高い人間なら「名前を覚える価値もない下らない男」と評価するような男で、なにも成すことができないくせに、自分が成功しない理由だけは砂を吐き出すように流し続けることができ、他人の成功を妬む以外の才能を持たない。


 先代の村長がなくなったときには「自分が次の村長になる」と息巻いて、村民の誰からも支持を得られなかった。クレアの父にも「俺が村長になったらいい生活をさせてやる」と囁いたが相手にされず、このことで、なにかとクレア一家に嫌がらせをするようになる。


 去年の冬には人買いを勝手に村に呼び、クレアたち子供を売ろうとまで画策した。子供を売ること自体は珍しい話ではない。食い扶持を減らすためと現金収入を得るために、貧しい家庭が子を売るのは往々にしてあることだ。


 クレアが闇の魔法だのなんだのと口にするようになったのはこの頃である。商品にはランクは存在し、健康であることや見目麗しいことはプラス材料だ。逆に教会の影響力の強い田舎で、「闇の魔女」「深淵の魔力」などの言葉を大仰な仕草と共に吐き出し続ける少女は、気が触れていると忌避される。もちろん人買いたちたちからすれば芝居であることは明らかなのだが、下手に買って神官らの前で「闇の魔力云々」と言い出されでもしたら、自分たちが教会から睨まれることになりかねない。


 結局、クレアの芝居で時間稼ぎをされている間に、他の村人たちの知るところとなり、人買いは追い払われ、村長の叔父も厳しく叱責されたのだが、「俺が怒られたのはクレアのせいだ」と逆恨みを募らせる結果となった。


 転機は魔の森にざわめきが訪れたのと同時。揉め事は起こすくせに、荒事からは逃げ出す村長の叔父が珍しくやる気を見せ、クレアの父を含む村人たちと一緒に魔の森の中へと入っていき、呆れたことに自分一人だけで帰ってきた。


 曰く、他の村人たちはグールに襲われて死んだ。森の中を進んでいると、確かに森の魔物たちは好戦的になっていて、自分たちは魔物の行動範囲を知るために慎重に調べを進めていた。そんなとき、村人の一人が魔の森では珍しいアンデッド、それもグールを発見したのだ。


 アンデッドは生者を襲う。ただ単に好戦的になっている他の魔物よりも厄介だと判断したときには遅かった。自分一人を除いて村人たちは全滅してしまったと言うのだ。


 早い話、村長の叔父は一番後方にいたので、他の村人たちが犠牲になっている間に全力で逃げ出してきただけのことだった。怒った村人たちは村長の叔父を何度も殴ってから牢屋、はないから適当な小屋に放り込む。


 上へ下への大騒ぎの半歩手前くらいのパニックに村は襲われた。同じ危機感を持った近くの村と人手を出し合って、少しでも魔物を減らそうと山狩りも行ったが効果は乏しく、教会に助けを求めることになる。


 クレアは村の中の動きとは無縁だった。山狩りにも教会にも背を向けて、一人だけで森の中に入ったのだ。教会が動くのを待っていたらいつになるのかわからない。父の仇を野放しにしておくことは我慢できなかった。


 子供特有の、根拠もないのになんとかなる、との思い込みがあったわけではない。あんな優しい父が殺されて、母が悲しんで、なにもせずにジッとしているなんてできるはずがなかった。クレアはむしろ鼻息も荒く森に踏み込んだ。


 踏み込むまではよかったのだが、踏み込んでからが問題だった。一歩毎に森の中は暗くなり、魔素といったか、呼吸が苦しくなる感覚も増していき、足元で枯れ枝が折れる音も常の何倍も大きく聞こえるようになった。得体のしれない恐怖に心臓を、肺を、足首を掴まれているように感じ、クレアは振り払うために走り出した。どれくらい走っただろう、上空からの視線を感じるようになる。思わず顔を向けた先には、クレアが走るよりも遥かに速い速度で飛翔するハーピーがいた。


 いくらでも仕留めるチャンスがあったのに、ハーピーはクレアをいたぶって遊び始め、いよいよ追い詰められたクレアは、折れそうになる心を奮い起こすためにも「闇の魔女」云々の言動を振り回す。人買いには効果があっても魔物に効果があるはずもなく、ハーピーの鋭い爪が迫った瞬間、蒙を切り開く一閃があった。


 クレアを助けたのはグリーンゴブリン。世界中に多く生息し、魔の森においても生息域の広い、且つ魔物の中では最下層の雑魚だ。間違ってもハーピーに勝てるような魔物ではないし、本来ならハーピーに挑もうとすらしない。そんな掛け値なしの雑魚がクレアを助け、人間の言葉まで喋り、あまつさえ闇の魔女関連の言動に対して苦悶の表情を浮かべるのだ。


 なにより驚いたのは、グールを倒したことだ。父の敵討ちと息巻いても、不安と恐怖に抗うだけで精一杯だった。心を奮い立たせることすら満足にできなかった。森に入ったことを後悔して、もしかすると自分も父と同じように殺されるのではないかと考え、脆弱で小さな手でなにができるのかと諦めそうになっていたのに、


「あれ? グールだったら俺が倒したぞ?」


 重々しさもなにもなく、グリーンゴブリンは言ったのだ。盛大に泣いて泣いて泣いて泣き終わった頃には、クレアの心に溜まっていた不安や恐怖は綺麗さっぱり押し流されていた。


 そのゴブリンは転生者だという。巡回神官たちからも聞いたことのある、勇者の資質を持つものたち。過去に何度もこの世界を救った正に英雄――がゴブリンだというのはにわかには信じられなかった。それに、どことなく、こう、そこはかとなく、英雄らしいオーラもなかったので、クレアは「転生者は本当でも勇者ではないんだろう」と判断した。


 大事なのは、危機に遭った自分を助けてくれたということと、意外に話しやすくて頼りになるということだ。闇の魔女なら、下僕は魔物が相応しいではないか。クレアはすっかり一騎のことが気に入ってしまった。


 ハーピーとギルマンを傘下につけ、魔物の集落に戻り、スケルトンの転生者とも話をし、そして、エストとは一騎を巡ってケンカをした。予想外に楽しく過ごしているところに、今度は勇者まで現れる。一騎と勇者は知り合いのよう――実際はそんなことはないのだが――で、ちょっと不愉快なくらいに距離が近かった。村へ帰ることになっても、すぐにまた魔物の集落へ来るつもりでいた。


 そんなときだ。襲われたのは。


 森の中を村を目指して歩いていると、突然、付けてもらっていたゴブリンたちが攻撃を受けたのだ。急な出来事で狼狽えるばかりのクレアはゴブリンとハーピーに庇われる形で、村に逃げ込み――――


 ――――炎が踊っている。踊りながらクレアや村の人たちに襲いかかり、瞬く間に燃やしていった。年齢性別を問わず、慈悲も躊躇いもなく、けれど意思はあるかのように人々を追い詰め、燃やしていった。


 ――――この村は穢れた! よって我ら勇者の手で浄化する! 謹んで浄化の炎を受け入れよ!


 勇者を名乗った男の言葉は信じられなかった。なによりも、あたしが原因とされていることが信じられなかった。弁明をしようとするクレアを母親が引き留め、「穢れの原因が現れたぞ」と勇者たちはむしろ嬉々として剣を振るってきた。


 迫る炎、クレアを庇う母、母親もクレアも炎に巻かれ焼かれていく。誰かが、もしかすると自分が叫び声を上げた気もするが、声すらも炎に飲まれて焼かれていた。


 次にクレアの目に映ったのは、靄のかかった村だった。状況はさっぱりわからない。声を出すこともできず、自由に動くこともできない。にもかかわらず、なんの不都合も感じることなく、これが当然なんだと受け入れていた。


 少しずつ意識が薄らいでいく。一枚一枚、皮を剥くように、時間が過ぎていくと共にクレアという人間が薄くなっていくような感覚。それは天上に上るような心地いいものではなく、薄ら寒くなるような、得体のしれない恐怖を伴っていた。




「常盤平……」


 気遣わしげに声をかける宗兵衛は、頭骨だけになってアーニャの腕の中だ。


「くそ、がっ」


 一騎は自分の体に巨大な穴が開いた感覚を覚える。穴の向こう側を覗こうとすると、無力感と喪失感に襲われる。魔力を使い切り、呼吸は荒く浅く早く、鼓動は内側から心臓を破らんばかりに激しく、地面に横たわる一騎の目の前には、少しずつ晴れていく霧と、霧の奥に広がる焼け焦げた村の姿だけがあった。


 失敗、したのである。

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