第三章:二十六話 雑魚魔物は少しずつしか進めない
「では、リディル」
《了承。物理攻撃主体に切り替えます》
「ラビニアさんは」
『わたくしは宗兵衛さんの頭の上ですよー』
はいはい、と軽く返し、宗兵衛は作り出した骨杖を構えた。ストラスから奪い、また死者の魔法使いとして魔法もある程度は使えるようになった宗兵衛は、対竜戦においては近接戦を採る。
「……正しい選択です」
気のせいか、アーニャは満足気に頷いていた。
竜種は総じて抗魔力が高い。成竜は言うに及ばず、幼生であっても生半可な魔法は弾いてしまう。死者の魔法使いの魔力は常人を遥かに凌ぐが、それでも竜種に対抗するのは容易ではない。加えて宗兵衛は死者の魔法使いとしては仮免段階のひよっ子で、魔法戦の習熟度は限りなく低い。というよりゼロである。高い魔力とリディルのサポートを存分に生かす近接戦は、宗兵衛の採れる唯一の戦法であり、正答であった。
青白く揺らめく炎が上空の竜の視線と衝突する。
「せっかくの転生者どうしです。一対一の勝負といきますか、常盤平」
『ガァァァアアァァァアッ!』
その申し出受けた、とでも言いたげに竜は吠え――――
――――唐突に事態が動いた。
空と地上を繋ぐような一条の閃光が、竜となった常盤平を貫いたのだ。竜は大きく呼気を吐き出しながら落下し、派手な音を立てて地面と衝突した。続けて二発三発と閃光が常盤平を貫き、その度に竜は苦悶の声を上げる。
宗兵衛の眼光が空気を読まない闖入者に向けられた。竜よりも更に高い位置を取るのは二人の人間、少なくとも見た目は人間の二人だ。一方は不安の色も濃く、威厳も力強さも感じないが魔力量だけは多い。一方は堂々とした振る舞いで地上を見下ろしている。
「誰ですか、あれは? 片方は人間のようですが」
《あれは、魔王種ペリアルドです》
『薄汚い魔王種がのこのこと。宗兵衛さんのような「召喚された勇者」に興味を抱いて出てきたってところじゃないですか?』
ラビニアの声には攻撃色が強い。リディルもラビニアほどではないにしろ、鋭さを感じる。
宗兵衛たちを無視して、ペリアルドはゆっくりと地上に降り立つ。自由に空を飛べないのだろう、勇者金山はペリアルドに連れられて地面の上に足を付け、そのまま膝から力が抜けてしまう。
「驚いたな……本当にドラゴンはいるとは思わなかったぞ。それと死者の魔法使いまでも。どうなっているんだここは」
竜を見るペリアルドの視線には幾ばくかの興奮が混ざっている。
「カナヤマはゴブリンが竜に変化したと言っていたが、やはりそれは間違いじゃないのか? むしろ逆だろ。ドラゴンがゴブリンに化けていて、本来の姿に戻っただけだろうさ。こいつらは召喚して転生させられた連中だろう。それならドラゴンの出現にも納得がいく」
間違ってはいないが正答でもない、微妙な結論を出したペリアルドの眼光は、地面に倒れたままの竜と、次いで宗兵衛を刺し貫いた。
「貴様もこのカナヤマと同じ世界から連れてこられたのだろう? 我が下につけ。そうすれば人間に戻る方法も教えてやるし、元の世界にだって戻してやれるぞ。断るのなら、この竜共々、殺すだけだがな」
ペリアルドの顔付きは得意満面といった態で、宗兵衛はアンデッドなのに生きた心地がしなかった。
原因はペリアルドではない。宗兵衛の頭の上で行儀悪く胡坐をかいているラビニアが原因だ。ラビニアは溢れ出そうな殺気を見事にコントロールしているため、ペリアルドは気付いていない。が、直接接触している宗兵衛はたまったものではなかった。
「なんでそんな機嫌が悪いのですか、ラビニアさん?」
『…………わたくしとは陣営が違うんですよー』
《ラビニアは大魔王の流れを汲む軍王派に属しています。ペリアルドは大魔王封印後に勢力を広げてきた新興勢力で、軍王派とは対立関係にあります》
大魔王ミューロンの側近であった三体の軍王――天王、海王、陸王を頂点に置くのが軍王派で、封印された大魔王復活を画策しているとされている。対してペリアルドたちは教会から魔王派と呼ばれ、大魔王にも軍王に興味がなく、魔の世界の実権を握ることを目的としているらしい。軍王派からすれば魔王派は調子に乗った新参者でしかなく、魔王派にとって軍王派は出しゃばりの老人クラブとしか映っておらず、関係性は極めて悪いのであった。
「先程、彼を魔王種と呼んでいましたが、魔王種とはなんですか?」
『封印の欠片への適性を持つ連中の総称みたいなものですよー。魔王種なんて言葉を作ったのはネストルですけど』
随分と雑な説明である。ネストルというのが誰なのかも説明してくれそうもない。
「それで、どうするんだ、骨? 我が傘下につくのか、滅びるのか。さして難しい選択ではなかろう? 貴様とて元は人間だ。軍王派に恨みはあっても義理はあるまいて」
「確かにそれはそうですがね」
賛同を示すかのセリフと同時、ラビニアの冷ややかな殺気を向けられたような気がした宗兵衛は、寒気を噛み殺して言葉を続ける。
「だからといって魔王派の傘下につく義理もないでしょう。それに、ラビニアさんとリディルには色々とお世話になっていますので、貴方の申し出はお断りさせてもらいます」
『さすが宗兵衛さん。わたくしは信じていましたよー』
その割には殺気が駄々洩れになっていたような気がしないでもない宗兵衛だ。
「度し難い愚か者だな」
ペリアルドの眼光に軽侮混じりの鋭さが増す。どうしてこの程度のことも理解できないのか、と苛立ちも感じ取れる。せっかくの直接の誘いを断るとは、愚かとしか言いようがない。魔王の殺気を、宗兵衛は受け流す。
「それにですね、貴方はこっちにとっても敵になりますので。そこの勇者を引き渡す気はないのでしょう?」
「ふん」
正直、勇者と魔王の協力関係などはどうでもいい。今回の行動の発端は、集落襲撃への報復である。常盤平がクレアの死にブチ切れて砦を襲ったことは、目的からそう外れてはいない。だが別に魔王と事を構える必要まではないのだ。集落襲撃に関係がないのなら、ペリアルドへの対応は後回しにするのが本来と言える。
ただし、勇者の身柄は別だ。村を焼き、クレアを殺した。藤山まゆのことからも、勇者と教会の関係は深いものだと考えられる。報復として殺すにせよ、情報を引き出すにせよ、勇者の身柄を確保する必要があった。
「交渉は決裂、か。いや、最初から交渉にもなっておらんな。まあいい。なら、言動と決断への責任を取ってもらおうか」
「いえいえ、責任はこちらの常盤平が取りますよ。なにしろ、うちのトップですので」
徐々に回復しつつあるとはいえ、地面に横たわったままの常盤平への、正に無茶振りだ。
「ただまあ、常盤平が回復するまでの時間くらいは稼ぐとしましょう。リディル、常盤平の意識を引き上げます。接続を」
《了承》
「任せましたよ、常盤平」
『宗兵衛さん?』
「いえ、常盤平の意識と接触できましてね」
苛立ちが多分に混入されたペリアルドの殺気が急激に膨らむ。表情にも握り込んだ拳からも怒りが見てとれる。既にペリアルドの忍耐は限界に達していた。
「不遜な骨がっ。魔王相手に時間稼ぎだと? 分際を弁えろ!」
流れの中に一騎はいた。どす黒い濁流の中、巻き込まれたならば助かる術のない急流の中だ。水は冷たく思考力を一瞬ごとに奪い去っていき、流れの強さは意識をこそぎ取っていく。呼吸すら敵わない苦痛に揉まれ、一騎に残るものは絶え間ない後悔、身を裂く強い後悔だった。
繰り返し思い出されるのは、クレアとの日々だ。森で出会ったこと、エストとのケンカ、藤山まゆを挟んでのやり取り、集落を案内した日に後ろ姿を見送った日、そして、焼け焦げ変わり果てた彼女を抱え上げ――爆発した場面を延々と繰り返す。
やめてくれ。もうやめてくれ。もう見たくない、聞きたくない。
惨劇があった。悲劇があった。憐劇があった。
人が、死んだのだ。
呆れるくらい簡単に、悲しいくらい無造作に、逃げたいくらい残酷に、泣きたいくらい惨めに人は死んだ。一方的に人は死んだ。それは地獄だった。宗教や伝説の中でしか見たことはない、地獄が現れたものだと思った。人間たちは、かつて人間だったもの、になっていた。
分かったことは一つだけ。理解できたことは一つだけ。納得できたことは一つだけ。この感情は怒りだということ。怒りから逃れる術はないということ。
自分の犯した過ちが苛烈な鞭となって一騎を打ち据える。鞭の数は次々に増え、今や鞭は流れとなり渦巻き、激烈な濁流となっていた。どす黒い濁流の流れに揉まれ、体の各部各所が捩られていく。
だが体が捩られているというのは錯覚に過ぎない。実際は一騎の意識がそう感じているだけだ。どす黒い濁流とは一騎の渦巻く怒りであり憎しみ、なにより後悔に他ならない。
どうしてクレアが殺されなければならないのか。他宗教であるというだけで人間を殺すような連中がいる世界で、魔族側の勇者に接触したクレアが安全であるとどうして判断してしまったのか。
否、安全だと判断したのではない。クレアが戻ると言って、なにも考えずに受け入れただけだ。
元の世界でも、人間が他人に対し残酷な仕打ちを課した歴史があった。表面的でしかなくとも歴史の授業で習っていた。魔女狩りを行ったのは? インカを踏みにじったのは? 黒人を奴隷としたのは? 民族浄化の名の下になにが行われた?
人間がどれだけ残酷な生き物か、知識として知っているだけで、実感が伴っていなかった。
魔物に転生させられたことで、自分の身に不幸が降りかかることには慣れた。エストがグールに殺されかけた件があって、身近に感じる相手を失ってしまう恐怖は覚えた。
ただし、相手は人間性を失った元人間。魔物が誰かに危害を加えても不思議はないと感じてしまっていた。魔物など元の世界には存在しないのに、ゲームのような二次元の影響で魔物が人を傷つけることを受け入れてしまっていたのだ。
元の世界では、人間を傷つけ、あるいは殺すのは、大半が人間であるのに。
日本にいた頃、身近で人が人に殺されるなんて事件はなかった。イジメはあっても、この世界のように直接的に殺されるような事態に巻き込まれることはなかった。だから、過去の歴史をどれだけ学んでも、日々のニュースでどれだけ血生臭い事件が流されても、自分の周囲だけは違うと無意識に決めつけていた。
魔物としての自分を正確に認識できていたらどうなっていただろうか。人間と魔物の対立が、自分のみならず周囲にまで影響を与えうると考え及んでいたらどうだったろうか。
もしかするとクレアの死を防げたかもしれない。クレアとの接触を避けることを選んでいれば、接触をしても最小限にしていたら。
クレアの殺したのは自分だと、激しい後悔と己への怒りが心身を焼き焦がす。
焦げて残った灰燼に行き場を失った感情が混ざり、破裂した。全身を浮遊感が包み、しかし全身には重い重い鎖が巻き付いたまま。圧し掛かり締め上げてくるものを、必死に振り払おうと暴れまわる。暴れ続ける。
たらればばかりを並べて、物事が解決するわけがないのはわかりきっている。後悔に飲まれるのはダメだ、怒りに振り回されるのは愚の極み、過ぎたことを引きずり続けても好転しない。
言われなくてもそんなことはわかっている。わかっているからと、易々と考えを切り替えることなどできない。そんなに器用にはできていない。
飲み込まれ、振り回され、奥底にまで沈み、指一本動かすことのできない重みに囚われ、破滅に向かって突き進んでいると理解していても、もはや自分ではどうすることもできないのだ。
――――この、ドアホが
どれだけ暴れただろうか。聞き覚えのある声が容赦のない物理的な衝撃を伴って聞こえてきた。
激しい流れに巻き込まれている一騎は、千切れ飛んだ意識の一筋を辛うじて掴むことができた。この掴んだ一本は微かに残る人間としての意識だ。これを離すともう後戻りはできなくなる。
後悔は絶えない。怒りは変わらず己を焼いてきて、重さは依然として増してくる。
だからこれが最後のチャンスだ。今、この手が握ったものは残された最後の救い。自分だけの力ではどうしようもないこの濁流の中から、引っ張り上げてくれるかもしれない。
地震のように流れが大きく揺れ、濁流は無辺に広がる。黒い濁流の音は獣の咆哮どころではない。いつか映像で見た、アフリカスイギュウの大群が響かせる地鳴りをも凌ぐ、それは凄絶な絶叫。
重い。渦巻く流れの重さは人の身に耐えられるはずもない。流れの圧力は万力となって、負の感情に苛まれる脆弱な個を押し潰さんと迫る。一騎は大海に投げ出された木片に過ぎない。油断せずともなにかの拍子にすり潰されて消えるだろう。
唐突に感じたのは、主に洞窟の中で受けていた感覚――『導き手』と接続していたときの感覚だ。宗兵衛が外側からリディルを繋げたのだとわかり、絶望に負けそうになっていた一騎の心に活力の火が灯る。
「っすまん……宗兵衛」
――――任せましたよ、常盤平。
「…………」
ちょっと、今、予想外の返事を聞いた。宗兵衛の奴はなにを言った? 任せる? 誰に? なにを? この状況でなにができるというのか。なにをさせようとしているのか。
――――リディルを通じて外の情報は渡します。かいつまんで説明しておくと、今、僕の目の前には魔王と、村を焼いた勇者の一人がいます。
「!」
魔王についてはよくわからない。一騎にとって重要なのは、勇者のほうだ。村の惨状が、生じた爆発が蘇る。
――――怒りでも憎しみでも悲しみでも、向ける相手を間違うんじゃありませんよ、阿呆。
本当に、この骨は、どんなときでも優しくない。
「こんなときは普通、怒りに飲まれるなとかいう場面じゃないのかよ」
――――僕にそんな甲斐性はありませんよ。怒りに振り回されるなとは言いません。憎しみに囚われるなとは言いません。悲しみに溺れるなとは言いません。感情の目標ぐらいは教えますが、それにしたところで僕の示した方向に向かう必要はありません。引き上げはしますので、後は自分で立ち直りなさい。
「……てめぇ」
救いの手を伸ばしてくれるくせに、励ましの言葉なんかくれないのだ。実に友達甲斐のない奴である。
「けど、まぁ、確かに……」
こんなところで引きこもってる場合ではない。外の様子はまだよくわからないが、清算しなければならないことがある。魔王に勇者。どっちもゴブリンみたいな雑魚には荷が重い。けれど、
「頼む、宗兵衛っ」
自分がしなければいけないことが目の前にあるのなら、逃げることも、目を背けることも、しないと誓う。なにに誓う? 仲間か? 失われた命か? 格好をつけて、己の魂にか? 決める前に、とんでもない衝撃に叩かれた。




