第三章:二十五話 『剣鬼』アーニャ・アウグスト
一般に教皇の証とされる真眼を目の当たりにして、ボルドワンの顎は開閉機能を喪失した。驚愕だけでなく、先刻の己の無礼な発言を思い出して衝撃を受けているのだろう。
閉眼したアーニャが考えたのは「この男に藤山まゆを任せて大丈夫だろうか」という点である。
集落襲撃で断罪者チームは大打撃を受けた。死者は多く、死んでいないものも多くが負傷して治療のために砦を離れているので、教会の息のかかった戦力がないのだ。アスラン助祭がいるのならそちらに任せてもよかったのだが、間が悪いのか、近くにはいない。
「……勇者様を任せますよ」
アーニャは重ねて口にする。腰を抜かしている歴戦の騎士が見せた高速の首の上下運動に、一抹以上の不安を覚えるアーニャは、小さなため息をついて混乱の中を逆方向に、つまりは竜に向かって歩き始めた。細く小さな体躯でありながら、足取りはいっそ悠然なほどだ。
「どど、ど、どちらへっ?」
あの竜を斬ると言ったでしょう、とは口に出さず、アーニャは白く小さな手で細身の杖を軽く撫で、流れるような動作で走り出した。
固まっているボルドワンには意識を向けず、地面を蹴り、地面が砕けている場所では壁を蹴り、恐怖と混乱に囚われた無秩序な人の波を掠りもせずに通り抜け、ものの数秒で砦の中央、広場に到着する。
広場の混乱はピークに達していて、逃げる兵士と応戦する兵士と倒れる兵士と腰を抜かしている兵士とに分類されていた。突然の竜の出現と攻撃で恐怖に打ちのめされているだろうに、戦う兵士が残っているのは、隣にいる同僚が剣を構えている影響だろうか。
「そこの子供! なにしてるっ、早く逃げろ!」
傷ついた兵士が叫ぶ。逃げろとの指示が自分に向けられたものだと知ったアーニャは、戦いもせずに逃げ惑っていたボルドワンの処分の必要性を痛感する。
せっかくの気づかいだがアーニャとしては兵士の声に応えるつもりはない。丁寧に整えられた眉を僅かにしかめて、上空の竜を閉眼したままで見据えた。
「おい! 逃げろと言っっ!?」
兵士の声が途中で切れたのは、アーニャが真眼を向けたからだ。アーニャは教皇の証を他人の口を閉じさせるために使っていることを微塵も気にしていない。有効に使える場面があるのなら躊躇わずに使えばいいではないか、と考えている。
特に緊張した様子もなく、アーニャは一歩進み出た。
砦に甚大な被害をもたらした竜が大きく吠える。自分を見て逃げも取り乱しもしないアーニャに腹でも立てたのかもしれない。再び口腔内に灼熱の輝きが生まれた。
兵士たちは一撃で砦を半壊にまで追い込んだ攻撃を鮮明に思い出してしまい、辛うじて立っていた戦意の柱もへし折られてしまう。数少ない例外がアーニャと、アーニャの真眼を間近で見た兵士だ。
「……魔力の質からして、イッキのようですけど」
上空に集中する凄まじい熱量にも脅威を見出さないアーニャは、目が見えない代わりに他の感覚、特に魔力感知については広範囲高感度を誇り、出現した竜の正体が誰であるかを看破していた。どういう理屈で竜になっているのかまでは不明だが、敵であるならば斬って捨てるのみ。
竜が口腔に集中させている火球は一秒毎に大きくなり、熱量も加速度的に増していく。一度ブレスを吐いたことでコツでも掴んだのか、砦をぶち抜いたときよりも強力な一撃になることは誰の目にも明らかだ。
竜の目は地上を、アーニャを捉えて離さない。竜のブレスが地上に着弾したらどうなるか。爆発の衝撃で周囲の土壁などは粉々に吹き飛び、膨大な熱量に地面は沸騰して、生きていられる人間などいないと推測できる。心の折れた兵士たちが逃げ出すのも仕方がない。最初のブレスの威力を目の当たりにして、尚も残って戦おうとしただけでも表彰ものだ。
「あ、あの、このようなことを聞くのは無礼でしょうが、だ、大丈夫なのでしょうか……っ?」
狼狽しきりの兵士が狼狽塗れの声で話しかけてきた。この兵士が逃げていないのは、真眼の持ち主を置いて逃げる決断が下せないからだ。また、真眼の持ち主ならどうにかしてくれるのではないかとの希望も抱いている。
「……不安はあります」
「はえ?」
降り注ぐ熱量にもかかわらず、アーニャの言葉に、兵士の心臓は凍てついてしまった。武器が手から滑り落ちたことにも気付いていない。
竜の莫大な魔力は火球に更なる破壊の力を与えようと、一点に集中する。周囲の空間では火の妖精あたりが狂喜乱舞しているのか、口腔の火球に向かって真っ赤な火線が幾本も集まっていく。死と破滅が近付いていると悟って、兵士は頭を抱えて地面に這い、神の名と妻の名と子供の名を繰り返した。
「……なにしろ私、今までに」
竜のブレスが地上に向けて発射される。最強種の放つ攻撃は、地上に壊滅的な破壊の爪痕を残すだろう。防御も逃走も祈りも区別なく、一切合切を吹き飛ばし焼き尽くし奪い尽くす。地上にいる兵士たちが生きることを諦めるのも無理からぬことである。それを、
「……二回しか竜をブッた斬ったことがありませんので」
銀光一閃。
抜く手も見せず、細身の仕込み杖から抜き放たれた斬撃が一筋の弧を描く。
眼前に迫る破滅に時間の止まっていた兵士たちは、本来なら認識することもできないものを捉えることに辛うじて成功できた。
細い銀光が下から上へと走り、破壊の象徴のような炎を斬り、遥か上空にいる竜の右肩口をもばっさりと斬り裂いていた。
過去二回、アーニャが斬った竜はこのイッキ同様に精霊契約を成していない未熟な竜だ。精霊契約のしていない竜を斬ったところで竜殺しの名誉を得られないのだが、一撃で竜鱗の防御を抜くのだから常識外れの斬撃であることには変わりがない。
右の翼を斬り飛ばされた竜は怒りの叫びを上げながら落下した。
ハーピーのような小型の魔物ではない。巨大な体躯を誇る竜ともなれば、落下するだけでも被害を与える。竜は地面に激突し、衝撃で兵士たちは吹き飛び、降り注ぐ土石に当たり落命するものもいた。竜は咆哮、ではなく大量に空気を吐き出して身を捩る。
無尽蔵の戦意を両目に漲らせ、牙を剥き出しにして立ち上がった。踏み固められているはずの地面は竜の脚力に耐えきれず、悲鳴と共に砕ける。戦意が雲散して腰を抜かしている兵士と違い、闘争意欲が一向に衰えていない竜の様子に、アーニャは小首をかしげて僅かに考えた。
「……勇者様のお守が仕事ですし、どうしましょうか」
剣の道、その頂点なり深奥なり理なりに至ることに関心はあっても、名誉や名声を欲しがるアーニャではない。教会の最高戦力『五剣』でありながら、聖職者としての修業をほとんどしていないので、魔を滅ぼすという教義の履行にも興味をそそられない。今現在、アーニャの関心をもっとも強く惹いているものといえば、
「……ここであの竜を殺すと、ソウベエが剣を作ってくれなくなりそうです」
集落で目にした真っ白い刀である。
正直な話、教会で骨刀を手にしたときはそのまま奪おうかとも思ったくらいだ。竜からイッキの魔力を感じ取ったときには、倒した竜から骨刀を強奪――一騎は竜化の衝撃で骨刀は落としているのだが――しようと考えたのは秘密である。竜の骨や爪牙、鱗からも強力な武器は作れるのだが、素材が竜の武具は既にいくつも教会にはあり、アーニャは地面に落ちた竜に骨刀のような価値を見出せない。
『アアアアァァァァァアアッ!』
戦意も体力も魔力も、まだまだ十分に保有する竜が吠え、裂かれた右肩口が一瞬で接合を成す。切り飛ばされた翼も異音を発して再生した。
「……魔族の勇者、でしたね。精霊契約をしていない竜にしては大した回復力です。四肢を斬り飛ばすだけで勘弁しようかと思いましたが、ぶつ切りくらいにはしたほうがいいかもしれません」
アーニャの声音ははっきりと不快さが増している。この竜を倒すことに価値を見いだせていない彼女にとって、継戦に昂っている竜は迷惑なだけだ。さっさと首を落とすなり、左右に両断するなりして決着をつけないのは、アーニャの高い感知能力が急速接近する魔力反応に気付いているからに他ならない。
猛る竜の翼が大きく動き、跳躍と合わせて上空へと――――
《この、ドアホが》
――――とんでもない速度で飛来した横からの攻撃を受けて、一気に吹き飛んだ。
目の見えないアーニャは捉えていた。巨大な、突撃槍よりも巨大な真っ白な矢が砦の外から放たれ、砦の外壁に加えて音の壁をも易々と貫き、飛び上がったばかりの竜に炸裂したのだ。矢の直進エネルギーは巨大で、一点に絞った破壊力なら、竜の放ったブレスをも凌ぐ。あまりの衝撃で矢の篦が粉々に砕けて、砦に白い欠片がバラバラと落ちた。
ドン、と大気の壁が突き破られる。
突風がアーニャの白い頬を撫で、巻き起こる砂塵が晴れた先には、骨の人馬といった形状の奇怪なアンデッドが着地していた。
宗兵衛の揺らめく瞳と、アーニャの真眼が交錯する。両者には元から身長差があるが、宗兵衛は移動速度向上を目的に骨体操作で人馬型を採っているため差はより大きくなり、交錯する視線はかなり斜めになっていた。
「うちのバカが随分と迷惑をかけてしまったようで、幾重にもお詫びします」
「……気にしなくていいです。タイミングが良くて助かりましたし」
アーニャは仕込み杖の中に納めていた細身の剣を取り出す、と剣は半分ほどで折れ、地面に落ちた。
リディルによると剣の材質は鍛えの悪い鉄で、本来なら竜を斬ることはおろか、戦闘に耐えられるような代物ではないとのことだ。そんなもので未熟とはいえ竜を斬るのだから、宗兵衛は心底、森の中で彼女と事を構えなくてよかったと思うのだった。
スッ、とアーニャの真眼が近くの兵士を捉える。途端、兵士はきびきびとした動きで広場から走り去っていく。
「幻術か催眠術の類ですか?」
「……この目の能力の一つです。留まられていても邪魔なので。ついでに私についての記憶も消しておきました」
「便利ですね」
言いつつ、宗兵衛の次の行動は攻撃的なものだった。魔力が流れた右掌から真っ白で巨大な、らせん状の溝の入った矢が作り出される。更に肩甲骨から二本の骨腕を生やし、生やした腕から矢と対になる武器、真っ白く巨大な弓が作られた。らせん状の溝で貫通力を向上させた白矢にも、白矢をつがえる巨大な白弓も強い魔力を帯びている。
「さて、接続状況はどうですか?」
《現状では問題ありません。しかし常盤平一騎の意識は混濁しており、時間を置けば感情と衝動に飲み込まれるものと推測できます》
『手間をかけさせてくれますねー。それでどうするんですかー?』
「洞窟のときの状況をなぞります」
古木を殺害した後、常盤平は鬼の姿から元のゴブリンの姿に戻った。『進化』を果たしても、進化体が固定される前に魔力切れに追い込んでしまえば、竜からだって元の姿に戻るだろう。
「で、合ってますね?」
《肯定》
スケルトンは視力を持たず、魔力や魔素の感知によって周囲を把握する。宗兵衛の眼下に揺らめく炎は、いまだ立ち昇る濃い粉塵の中の標的を正確に捉えていた。
白矢が放たれ、異音を放つ間もなく粉塵を貫き、その先にある砦の壁をも貫き、砦の遥か外へと消える。
《命中及び竜鱗の貫通を確認しました》
『命中と同時に爆発するようにしておいたほうがよかったんじゃないですかー?』
《その場合、常盤平一騎は爆散するかと》
「……竜の死因が爆死…………新しい?」
「新しければいいというわけではないでしょうに」
宗兵衛は射った方向だけでなく、周辺の感知を行う。魔力感知ではなく生命感知――アンデッドが生者をつけ狙うための能力――で、広場のみならず砦全体を見回す。把握できる限りでは、広場とその周辺にいる生命体は、宗兵衛とラビニアとアーニャ、
『バハアアァァァァァアアァアァッ!』
羽ばたきで砂塵を吹き飛ばした竜身の常盤平だけだ。左肩には矢の貫通でできた風穴があったが、瞬く間に再生、塞がってしまう。
『さすが竜種。大した回復力ですねー』
「こっちとしてはマイナス材料でしょう。行動不能に追い込むのは手間がかかりそうです」
《現行のプランで対処できるかと》
「ぼやいて働かずに済むならいくらでもぼやきますけど、そうはいきそうにありませんからね。さっさと片付けましょう、と、アーニャさん?」
宗兵衛の出す要求は単純。竜と化した常盤平との戦いへの介入を控えてほしいというものである。
一撃で竜を斬り裂いたアーニャだ。折れた剣の代わりなどそこら中に落ちているし、下手に介入を許せば常盤平の首が一太刀で斬って落とされる。
「……条件があります」
「なんでしょうか? あまり難しいものでなければ」
「……至極簡単です。ソウベエの骨で作った剣を私にもください」
アーニャは頬を紅潮させていた。『五剣』としての立場など遠くの棚の上に放り投げて見向きもしていない様子は、年相応の少女のようにしか見えない。欲しがっているものは別として。
「……もちろん適当なものはいりません。私の力や戦い方に合った渾身の一振りを希望します」
「えっと」
《受諾を推奨。『五剣』との戦闘回避には心を砕くべきです》
『わたくしもリディルの意見に賛成です』
教会最高戦力についての知識が確かなリディルとラビニアの双方が主張して、宗兵衛に拒否の選択があるはずもない。骨刀の制作を約束するのだった。約束を取り付けたアーニャは「んふー」と鼻息を荒くした。




