第三章:二十四話 竜 ~二~
「ええい、くそっ!」
砦の兵舎棟の一角は聖職者専用のスペースがあり、そこではアスラン助祭が怒りながら、かなり速いペースで酒を胃袋に流し込んでいる。
アスランは不愉快だった。
魔物の集落の場所を突き止め、自分は参加していないが、結果として集落に生息する魔物たちに手ひどい打撃を与えることに成功している。本来なら十分な功績であるはずなのに、アスランとしては思い描いた最高の結果にならなかったことで不愉快になっていた。
最高の結果とは「人型の精霊の確保」である。できていれば大司祭にだってなれるだけの手柄だった。その機会をみすみす逃したのだから、アスランとしては怒りに飲酒量が増えるのは当然のことだ。
役立たずの勇者に怒り、勇者と行動を共にしていた断罪者たちに怒り、邪魔をしたと思われるゴブリンとスケルトンに最大級の怒りを感じている。
なにが転生者だ、魔物の勇者だ。魔物なぞに転生した時点で、大神アルクエーデンを、教皇や教会を侮辱する大罪人。生かしておく価値もないのだから、せめて抵抗せずに黙って殺されるのが筋というものだろう。
最大級の怒りとはすなわち、思惑通りに殺されなかったゴブリンたちへの怒りだ。思い描いた理想の通りに事が進まなかったことこそが不愉快なのである。
こんなことなら藤山まゆではなく、市川瑛士に取り入っておけばよかったと悔いるアスラン。明らかにバカなあの男なら、目の前に餌をぶら下げるだけで自由に操れそうではないか。そんな考えが浮かび上がり、頭を振って否定する。
市川は為人が未熟で教会からの評価が低い。集めた情報の限りでは王国内部からの評価も低く、市川瑛士を高く評価しているのは、市川本人だけという体たらく。しかも市川が自己をどう評価しているかを周囲のほとんどの人間にまで知られてしまっている有様だ。教会に帰依したのも、信仰心や救いを求めてのことではなく、勇者としての立場を強化するための計算に基づくものだと看破されている。どれだけ戦闘力が高くとも、あれだけバカでは先はないだろう。
翻って藤山まゆの教会からの評価は高い。今回の任務――人型の精霊の捕獲には失敗したとはいえ、人型の精霊が二重属性の希少種であることを突き止めた功績がある。二重属性の精霊と遭遇するなど稀も稀。運を持っているのだろうとアスランは考え、今後も藤山まゆについて行くほうが自分に利があると考える。
そうなるとアスランの胸中に渦巻く怒りの対象は、あの不愉快なゴブリン共だけに絞られてくる。人語を操り、思い通りに死ぬことすらしなかった雑魚魔物の存在は許すことができない。
どれだけ惨たらしく殺してやろうか。藤山まゆが捕えたグールに拷問を加えたとき、隣で手伝ったのがアスランである。魔物の肉体は人間よりもずっと頑丈だ。更に人語を話すとあっては、さぞかし拷問のし甲斐があるではないか。神の名の下に行われる、真っ当で公明な時間の訪れを夢想して唇をゆっくりと舐めていると、轟音が響いた。
酒瓶と一緒にアスランは床に転がり、顔面を強かに打ってしまう。鼻骨が折れた音と前歯が折れた音が鼓膜に届いた。
突然、我が身に降りかかった災難を受け止めることができず、アスランは顔面を抑えて床を転がりまわる。両手の指の間からは夥しい量の赤い液体が流れ出て、助祭の白い服に次々と染みを作っていく。
教会聖職者が室内で大きな物音を立てた。なら兵士の一人でも飛び込んでくるのがいつもなのだが、この日は一向に兵士が来る気配がない。聖職者を蔑ろにするのならどんな目に遭うかわかっているのだろうな、と暗い決意を固めながらアスランは立ち上がる。
血に染まっていない顔の上半分と、真っ赤になっている顔の下半分が連動して硬直した。窓の外に浮かぶ竜の姿と、竜の口腔に灼熱の炎が生まれていたからだ。アスランの精神は恐怖の津波に押し流された。
上空の竜は弓の射手のように片目を閉じることもなく、弓を引きしぼるように背を少しだけ逸らし、口腔にたまる赤い塊を発射した。灼熱の火球が描いた尾は、そのまま死と破滅を描いていた。
「竜、ですって?」
ライオネル砦の兵舎棟にある一室、本来は重要な客のために用意される部屋の窓越しに、上空に浮かぶ魔物を確認した藤山まゆは呆然と呟く。
「……へぇ」
盲目の少女アーニャは静かで、勇者とは対照的に落ち着き払っていた。
藤山まゆの眼下では砦の兵士たちが弓や魔法で応戦しているが、とても敵うものではない。訓練や任務で多少の魔物を相手にしてきた藤山も、さすがに竜を相手にした経験はもっておらず、逃げるのか戦うのかを決めあぐねているところに男が飛び込んできた。砦の司令官ボルドワンと砦の筆頭魔術師である。
泡と共に吐き出した用件は一つ。竜を倒すのに勇者の力を貸せというものだ。
藤山まゆは勇者として、教会の人間として、戦いに身を投じることに躊躇いはない。
だが気になることがあった。他の勇者、浄化作戦に従事したはずの市川瑛士たちの所在である。目立ちたがりで功名心の強い市川なら、竜が出現したと聞けばなにを差し置いても先頭に立つはずだろうに、見たところ、市川どころかその仲間たちの姿も確認できない。
「ええい、奴らのことなど知るものか! イチカワとやらも、他の勇者たちも、イチカワにつけてやった兵士たちからも連絡など入っておらんわ!」
「っ」
考えたくもない結末が藤山まゆの脳裏に克明に浮かび上がる。市川瑛士はいけ好かない男だ。教会の人間としては教義の覚えが悪く、勇者としては功名心が先走っていて、男としては好色さを隠すこともできないバカな人間だ。
ただ一点、戦闘力の高さだけは渋々ながらも認めざるを得ない。常盤平天馬と比べると幾分以上に見劣りするにせよ、防御主体の藤山まゆより強力であることは確かだ。功名心が前景に出ている性格と併せて考えると、ここに市川がいないのは不自然過ぎ、既にあの竜に殺されているのではないかと不吉な予想をしてしまう。
「この場におらん勇者のことなどどうでもいい! は、早くあの竜をなんとかしてくれ。このままでは砦が、ワシの砦が……っ」
縦に低く横に長い堂々たる体格のボルドワンが呻き、体と声を揺らす。司令官の狼狽っぷりは勇者の心をざわつかせ、傍らの椅子に腰掛けるアーニャの関心を惹くには至らなかった。
「……あなたの砦?」
鼻で笑うとはこのことだ。十代前半の少女にはまったくもって似つかわしくない嘲弄に、曲がりなりにも歴戦の騎士であるボルドワンは圧倒され、口をモゴモゴさせて閉じてしまう。ワナワナと震えながら二歩後ろに下がり、筆頭魔術師とぶつかってようやく我に返る。顔を真っ赤にして勢いよく体を翻して部屋を出て行くが、アーニャは当然として、今度はまゆの関心も誘えなかった。
「……勇者様」
まゆが愕然と立ち尽くしたのは数秒、奮然と両目に力を込め拳を握りしめところに、アーニャは静かに話しかけた。
「なに、アーニャん」
「……先の戦いで勇者様の宝装は砕けています。勇者の宝装は放っておいても勝手に自己修復しますが、今はまだ砕けたままです。あの竜相手には戦いになりません。ここは砦からの脱出を考えるべきです。あと、アーニャんは不愉快です」
まゆにとっては非常に魅力的な提案だ。戦闘力に劣ることを自覚し、且つ取柄である防御力も失っているとあっては撤退は止むを得ない選択と言える。竜種の出現と、それによる砦陥落を法国に伝え、大規模な戦力を整えるよう働きかけることは確かに重要なことだ。
わかっていながらも、まゆは首を縦に振らなかった。
「私は勇者よ。率先して逃げるなんてことできるはずがない。勇者として劣り、この世界に来て戸惑ってばかりいた私を救ってくれたのは教皇様と教会よ。ここで逃げたりなんかしたら、教皇様に申し訳が立たないわ」
あっぱれな忠誠心だ。戦闘力で劣る勇者など本来なら切り捨てられてもおかしくないにもかかわらず、教会戦力の一つである断罪者が任務に同行していた理由がこの忠誠にある。寄る辺として教会の手を取ったまゆは熱心に教義を学び、そのひたむきな姿勢で教会関係者からの評価が高いのだ。アーニャは溜息をついた。
「……仕方ないですね。それじゃ」
このときのアーニャは既に外の状況を正確に把握していた。兵士たちの攻撃がなんらの成果を上げなかったことも、竜がブレスを放とうとしていることも。竜のブレスに対抗することは藤山まゆには不可能であることも。
破滅的な閃光が窓を貫いてきた。一瞬遅れて、これまでと比較にならない激しい轟音と衝撃が苛烈な熱を伴って砦全体を容赦なく揺さぶる。赤と黒とオレンジの狂ったような共演に、砦を形作っていた破片や砕片が加わり、猛々しく破滅を歌いだす。
土砂と爆発が織りなす煙の中からアーニャは飛び出した。小さな体には藤山まゆを抱えている。余裕のなかった精神状態に重なるようにして起きた爆発の衝撃で、まゆは意識を失っていた。
着地した先に筆頭魔術師、だったものが転がってくる。筆頭魔術師は右腕以外の四肢を失い、熱に焼かれて全身の八割以上が黒焦げになっていた。顔の右半分が辛うじて無事だったのは、判別しやすいようにとの竜の配慮だろうか。
「ひぅっ! ひぃっ、ひぃいいぃいぃっ!?」
腰を抜かして意味不明な言葉の羅列を繰り出すのに終始するボルドワンを見つけたアーニャは、声をかけるよりも先に司令官殿の頭を思い切り蹴飛ばした。
ボルドワンは愉快な悲鳴と泡を撒きながら地面を転がり、回転が止まってしばらくしてから、ようやくまともな思考力を取り戻す。なにをするか小娘が、とでも口を動かしたかったのだろうが、ボルドワンなどに付き合う気のないアーニャは、機先を制する形で抱えていた藤山まゆを渡した。
「……勇者様の安全を任せます」
「ふぇへ? へ?」
人間の足で荒れ狂う竜から逃げるのは不可能だ。気を失った人間を抱えてとなると尚更。間抜け面を晒すボルドワンに、勇者の保護という要請がちゃんと伝わったのか不安を覚えたアーニャは、深々と溜息をついて、
「……あの竜は私が叩っ斬りますので」
まゆを抱えてへたり込んだままのボルドワンに向けて開眼した。




