第三章:二十三話 竜 ~一~
正直なところ、金山は走るのが得意ではない。勇者として高い魔力を得、訓練で体力向上を図ったにせよ、生来、運動自体が好きではないのだ。その金山は涙と鼻水と涎と尿を垂れ流しながら、懸命に足を動かしていた。
純粋に命惜しさに、だ。市川たちが死んだことはどうでもいい。兵士たちが全滅しようと知ったことではない。
今の問題点はそこではない。市川は死んだ。渋谷も松尾も林も、成す術なくあっさりと死んだ。金山は自分自身の命を守らなければならない。あんな竜が出てくるなんて聞いていないのだから、逃げ出すのは当然だ。
金山は市川のような野望や妄想を唾棄している。英雄なんかになってどうするんだ。この世界にはネットもないし、ゲームもない。娯楽としての歌もスポーツも発展していない。貴族や富裕層向けのオペラなどは格調が高すぎて少しも楽しめないじゃないか。
俺はなんとしても元の世界に戻るんだ。そのためならなんだってするし、必要なら仲間を売ることだって厭わない覚悟がある。魔の森にいる元同級生を売るなんて取引にも応じた。もしペリアルドが望むなら、市川たちをも売っただろう。
話が違うぞ。声に出すことはできない状態なので、金山は思考だけで泣き言を喚き散らした。市川たちも兵士たちも死んだ。死ぬのは、殺すのは村人共だったんじゃないのか。どうしてあんな場所で竜なんかが現れるんだ。
「クソクソクソ! クソッタレがっ!」
と口にできたら多少なりとも気が晴れただろうに、恐怖から――目の前で市川が叩き潰された恐怖で――舌は脳の制御を受け付けなくなっている。足も重たく、頭の中も建設的な発想が一つもない体たらく。そのうちに、足は金山の酷使に耐えかねて著しく活動を低下させた。
地面の上に倒れ込み、懸命に行われている呼吸は肺のごく浅い部分までにしか酸素を届けられず、金山を楽にさせることはない。地面に突っ伏したまま、心臓まで破裂しそうな錯覚に襲われ、全身と、特に表情に絶望感を漂わせている金山の顔のすぐ近くに、土を踏む音があった。
びくりとしながら上げられた金山の顔は、上に向かうにつれて喜色の割合が増していく。
ペリアルド。金山が接触を受け、取引をした、魔王を名乗る相手が立っていた。勇者と魔王の取引内容は、元の世界への帰還だ。ペリアルドに協力することと引き換えに、金山は元の世界に戻る方法の提供を受けることになっている。その最初の取引に、見事に失敗したのだが。
「どうした、我が友よ。一体なにがあった? 打ち合わせとは随分と違う状況のようだが?」
「お、俺のせいじゃない! 全部あのドラゴンが悪いんだ!」
「ドラゴン?」
金山の言葉にペリアルドは眉をしかめる。
「確かに強い魔力を感じたが、それにしてもドラゴンとはな。魔の森には生息していないはずのドラゴンがどこから現れたのやら」
「違う」
「違う?」
「現れたんじゃない。化けやがったんだ。ゴブリンが、ドラゴンになりやがったんだ……っ!」
魔王の片眉が少しだけ上がる。ペリアルドにとっても関心が惹かれる内容だ。魔の森で確認された魔族の勇者たちと、教会が召喚した人間の勇者たちは、あるいは既存の勢力を脅かしかねない存在として十分な注意を払っている。間引くにしろ取り込むにしろ、機会を求めて金山に取引を持ち掛け、いざ時間だ、と意気込んだタイミングで、あまりにも予想外の出来事に遭遇した。
まさか竜が出現するとは。
「見間違いではないのかね? いくらなんでもゴブリン如きがドラゴンになるとは。変化の術でも考えにくい」
「本当だ! この目で見た! あれは間違いなくゴブリンだった!」
魔の森に生息していたのを見落としていたというだけなら、単に観察不足で済む問題だが、金山の言葉通りだとすると警戒水準は一気に跳ね上がる。
「確かめる必要がありそうだな」
金山を浮遊の術で中空に捉え、ペリアルドは強い魔力反応を追って飛翔した。
酒の脂で額を輝かせるボルドワンがこのライオネル砦、と名前だけはやたらと立派な砦の司令官になって十二年が経過している。若い頃は王国軍の大将軍になってやると息巻いていた彼も、五十を過ぎた今とあっては、とうにかつての夢など忘れてしまっていた。剣の鍛錬もしなくなってからは、体重も増加の一途で、ここ数年は毎年のように服を、特にズボンを新調している。
記憶の沼底が掻き回されたのは最近。勇者がこの田舎砦を訪れたときだ。
最初は三つの理由から非常に気分を害した。勇者が砦に現れたのが自分がベッドに入った後だったことが一つ。協力を要請してきたのが自分の息子よりも年下だったことが二つ。勇者の口ぶりが丁寧そうでありながら実際は高圧的だったことが三つ。
極めつけが勇者の横に立つアスラン助祭の放った「協力してくれるなら中央に口利きをする」の言葉だ。その場で勇者もアスラン助祭も殴りつけたい衝動に駆られたボルドワン司令官だったが、彼は衝動のままには動けなかった。
教会の影響力は大きく、現れた勇者は教会内で輔祭の地位まで持っている。田舎砦の司令官が刃向うには大きすぎる相手だ。
ボルドワン自身が教会の信者であることもあって、ボルドワンは勇者からの要請を受け入れるしかなかった。どうせ仕事が終わればすぐに帰るだろうし、砦内で不満なく過ごしてもらえば多少なりとも評価につながるかもしれない。
そんな勝手な妄想を広げていると、なんと勇者が傷ついて帰ってきたではないか。これは只事ではない、と感じ取ったボルドワンは、感じ取る以上のことはなにもできなかった。
傷ついた勇者は事情聴取に甚だ非協力的、勇者についている盲目の聖徒も口を閉ざしている、加えて司令官に着任して以来、非常事態に直面した経験に欠けるので、どうすればいいのかがわからないのだ。
わからなければわからないなりに動けばいいだろうに、との発想はボルドワンにはなかった。情報が入らないのなら無理に聞き出す必要はない。勇者や、ひいては教会の機嫌を損ねるかもしれないからやめておこう。鍛え抜かれた事なかれ主義によって、ボルドワンは考えることをさっさと放棄して、王都で人気の酒の注がれた杯を傾けたのだった。
ボルドワンがこのときの決断を悔いるのに、大して時間はかからなかったのである。
砦全体を揺るがす巨大な振動は、ボルドワン司令官秘蔵の名酒コレクションを一瞬にして床の研磨剤へと変貌させた。コツコツと積み上げてきた年月を粉砕された精神的ショックと、砦ごと揺らされた身体的ショックにより、ボルドワンの乏しい自制心はたちどころに沸騰する。
「なにが起きたぁっ!」
自室から飛び出して廊下に倒れている兵士の胸倉を掴む。勇者が来てからというもの、自分の運気が下がっていると感じていたボルドワンだ。内心のイラつきを部下に物理的にぶつけても一向に気が咎めない。ましてや自分の質問に答えられない部下など知ったことか。
兵士の顔を立て続けに五発殴り、もう一発と腕を振り上げたところで、これまでに聞いたことのない恐ろしげな咆哮がボルドワンの鼓膜を貫き、脳髄を揺さぶった。
老眼の進行しているボルドワンの両目に映ったのは、こんな田舎砦に現れるはずのない、情報の限りでは魔の森には生息していないはずの魔物。
「司令!」
転がりながら走ってきたのは砦の魔術師たちの責任者だ。肥満の著しいボルドワンとは対照的に不健康に痩せた男で、細い指には賄賂として受け取った指輪を何個もはめている。体が細い反動か、物欲は豊富、金よりも貴金属が好きと公言しているこの魔術師が、顔を真っ青にして、口角から泡を噴き出して転がっていた。
「砦の障壁が吹き飛びました!」
ボルドワンの視界が大きく歪む。砦に施されている障壁魔法の強度は高い。例えばハーピーあたりが群れをなして上空から飛来しても、障壁に遮られて砦内に入ることは不可能だ。その障壁をたった一度の接触で吹き飛ばしたというのか。
司令官は力なく床にへたり込み、呻き声を漏らした。
「おい、なんだあれは!」
壮年の騎士の声はひび割れており、騎士自身もひび割れていることを自覚していた。この壮年の騎士は戦いともなれば戦場で味方を指揮することもある立場だ。一介の騎士としてもいくつもの戦場を駆け抜けてきたし、それなりの武功を上げたとも思っている。自分一人で、数十体にも及ぶゴブリンの群れから切り抜けたこともある。
経験と年月によって裏付けされた壮年の騎士の気概はこのとき、吐き出した声と同じくひび割れてしまっていた。
砦はパニックに陥っている。この場所に砦ができて以来、間違いなく最大の。
魔の森に近いとあって配備されている兵力は二千前後。訓練も欠かしてはいない彼らはしかし、指揮や練度においてはかなりの低水準にあった。理由は簡単。魔の森に生息する魔物たちとの交戦が少ないからだ。
森の魔物たちが被害を与えるのは、主に森近くの村々であって、砦に攻めてくるような事態など過去に一度たりとも起ってはいない。
村を襲う魔物たちも、どちらかといえば森の中での競争に敗れた弱者が中心なので、退治任務が出てもさして苦戦するようなことにもならなかった。人間どうしの国境にある砦に比べれば、この砦は安全安楽な任地とされていたのだ。
戦いの危険度は低く、戦い自体が少ない。門衛に就くときなどは、砦を利用する商人や旅人から少額ながら賄賂を受け取って小遣い稼ぎもできる。危機意識の持ちようはずもなく、魔の森を見張る、なんて名分の上でのんびりと日々を過ごすことがこの砦の日常であり、当然、上空に存在する脅威への対応など考えたこともなかった。
考えたことがないからといって手をこまねいているわけにはいかない。ライオネル砦は落成以来、もっとも慌ただしく動きだした。
上空に位置する竜に剣や槍で対抗することはできない。倉庫からありったけの弓矢を引っ張り出してくる。
教会教義において、空というものは大神アルクエーデンのものであり、大神を祀る教会のものだ。生態系の最上位に君臨する竜種であろうと、空を穢すことは許されないとしている。ただし、教義に従って弓を手にした兵士は一人もいない。彼らは皆、出現した竜への恐怖から武器を取っただけであった。
王都では魔法の力を付与した武器の配備が進んでいる。まだまだ技術的に難しいことから高価なことがネックだが、今後も主力となるべき武器として開発が進められていくだろう。残念ながらライオネル砦への配備は当分は先のことであって、兵士たちが必死の形相でつがえる弓矢にも魔法付与はされていない。力自慢の兵士たちが思い切り引き絞り、次々に上空に向けて矢を放つ。
砦に配備されている魔術師たちも、術が編み上がり次第、撃ちまくっている。なにしろ相手は竜。目標としては外しようがないほどに大きいのだから、目を瞑っていても当てることはできる。
当たったとしても効果があるのかどうかが問題だ。竜の防御力は圧倒的で、兵士たちの攻撃はすべてが無意味なものに成り下がっていた。大半が恐怖に駆られて――中には使命感を持って戦いに参加したものもいようが――闇雲な攻撃を仕掛けたものの、数分もしないうちに彼らの心は絶望と敗北感に囚われつつあった。
上空に威容を晒す竜が羽ばたく度に巻き起こる風は、竜の持つ膨大な魔力を帯びて、地上までの間に横たわる空気の川を渡り、建物も人も差別なく振るわせる。人においては心をも恐怖に振るわせるのだ。
雨となって降らせた矢と魔法の数々は、竜の巻き起こす風によってほとんどが叩き落とされた。稀に風を通り抜けることができた攻撃も、竜の全身から吹き上る魔力の壁に遮られて、竜本体には届かない。仮に届いたとしても、鱗の強靭な防御力を貫けるとは思えなかった。
吠え猛っている。
砦内の大部分は暴風と咆哮に占拠されて、人間は避難するしかない。どこが安全なのかはわからないが、それでも逃げるしかない。
ゴブリンのような雑魚や満足に抵抗する術を持たない寒村の邪教徒に対してなら、どこまでも強気になれる兵士たちも、明らかに怒っている竜と向き合う勇気も度胸も持ち合わせていないのだ。
その兵士たちの心胆が凍てつき、目と口が限界まで開かれた。上空の竜の口腔に、巨大な炎が生まれるのを認めたからだ。
世の中にはさまざまな学問があり、魔物の生態を専門にする研究者もいて、彼らの中には魔の森に近いライオネル砦を頻繁に利用するものも多い。しかし別に魔物の生態に詳しくなくともわかることがある。竜の持つ最大の武器がブレスであるということは、子供でも知っているような常識だ。
砦の障壁が消し飛んでいることは既に兵士たち全員の共通認識である。障壁が消えたのは竜の攻撃ではなく衝突によるものであることも。今、ブレスが放たれれば、被る被害はどれだけのものになるのか。
竜の口腔に生じた炎は少しずつ大きく、熱量を増していく。風に混じった熱気が兵士たちの皮膚を叩き、最後に残った逃走意欲さえも燃やす。
竜の翼が大きく広がる。空中での姿勢制御のためなのかどうか、研究者ではない兵士たちにはわからず、わかったのは別のことだった。もう数秒で、竜は炎のブレスを吐くのだと。
果たして発射された炎の砲弾は百メートル以上離れた砦の天守閣と隣接する生活棟を難なくぶち抜いた。
砕かれた石と土が雨となって地面に降り注ぎ、炎の熱が逃げ惑う人々を焼き、熱波と衝撃波は手を組んで周囲を薙ぎ倒していく。兵士たちはどこにもないとわかっているのに安全な場所を求めて走り、ぶつかり、転び、そして炎に焼かれあるいは落下してくる土石に潰された。




